3.決別
「大丈夫さ、スレイ。これはとても名誉なことなんだから、自分でわかってるだろう?」
父が珍しく早く家に帰ってきた日の夜、イシスは弟の肩をたたいて励ました。光と影のようなこの兄弟は表情まで対照的で、兄はいつもどおりの爽やかな笑み、弟は不安に青ざめた石のような無表情だった。
スレイは呼吸を整えた。兄の言うことに間違いはない。とても名誉なこと──そう、名誉である! 中等部に上がったかれは奮起し、かつて兄にも与えられたそれに自分がふさわしいことを証明したのだ。無関心をきわめんとしている父も、今度ばかりはその成果を認めざるを得ないはずだった。
そう思っても屋敷の廊下を歩くスレイの足は震え、心臓は早鐘を打った。本当ならば夕食のときに話すはずだったのだが、かれの口は緊張で味のしない食事に終止し、その結果、兄に押されるようにして、さらに勇気を必要とする父の部屋に突撃するはめになったのだ。
「さあ」
イシスはそう言って、父の部屋の前にスレイを押し出した。そして、逃げるのは許さないとばかりに弟の背後で足を開き仁王立ちしてみせた。
スレイは観念し、深呼吸ののち部屋の扉をノックした。名乗る前に返事があった。
「入れ」
冷然とした声にスレイはまた尻込みしかけたが、にこやかに笑うイシスに押されて中に入った。
凍土のような父、ウルス・ブライトは自身が“古い血”を引くことを誇りにしており、その権勢を他者に示すことを好んだ。自室の調度品が高級なのは当然で、先祖代々使ってきたアンティークの机の左右には威圧的な英雄絵画──『悪竜を制するナイオン』と『地獄の王に挑むエグナル』の真作がかけられ、棚の上には過去の輝かしい功績を称える盾やメダルのたぐいが所狭しと並べられている。
これは後になって考えたことだが──父にとってイシスが(母の血が濃い)希少な高級品である一方、スレイは仇敵である祖父──ひいては自分に似すぎていたに違いない。机についていたウルスは椅子ごと振り返り、似ても似つかない兄弟を睥睨した。
「なんだ」
不機嫌そうな父に質された途端、スレイはあやうく石像と化しかけた。もしも手の中のものがなければ、なにもできずに叱責され、泣く泣く退室していたに違いない。だが今回は掴み取った名誉と兄がかれの背中を押していた。スレイはどうにか勇気を振り絞り、震える手で丸めて持っていた書状を父に見えるように突き出した。
「あ、あの……これ……を」
それは一枚の任命状だった。数カ月後の寒露に行われる重要な祭典──〈最初の子ら〉の誕生を祝う“降誕祭”において、スレイ・ブライトをかれが通う聖都第三校の学年代表として〈大神殿〉の祭壇奉仕者に任命することを記したものだ。
祭典における祭壇奉仕者の役割は──祭壇へ大量の供物をせっせと運んだりと──地味なものがほとんどだが、中等部の学生にとっては望みうる最大の名誉でもあった。
当然、簡単に手に入るものではない。ウーシアに“情けない”と言われてからこっち、スレイは必死に成績の向上や、ボランティア等の地道な善行にいそしんできた(無論、喧嘩も慎んだ)。その結果として(兄の活躍、家柄の後押しもあったかもしれないが)、今日、ついに赫々たる任命状を手にしたのだ。
俗っぽい見方をすれば、祭壇奉仕者への任命は権威ある高位聖職者たちとお近づきになるチャンスでもある。そのため昨年イシスが任命されたとき、歴史あるブライト家の跡継ぎにふさわしいと父は大いに喜んだ。だから今回も喜んでくれる──はずだ。だが、任命状をながめるウルス、その黒い目に熱がまったくないことを認めて、スレイの心臓は不安にきりきりと引き絞られた。
やがて、ウルスがぽつりと言った。
「イシスは?」
いきなり水を向けられたイシスは少し驚いたようだったが、すぐに質問を理解して、
「はい。今年も祭壇奉仕者に任命されました。……私も」
最後の部分を強調してイシスが言ったが、それは続くウルスの言葉をより残酷なものとする結果となった。
「そうか、よくやったな。イシス」
心のどこかで最悪の結果を予期していたにも関わらず、スレイの胸はいともたやすく引き裂かれた。目の前が真っ暗になり、音という音が消え、血が体を巡るのを止めて凍りついたように感じられた。
「父上、今日という今日は言わせていただきます」イシスが珍しく憤然として父親に詰め寄ったが、そのことはスレイの目にも耳にも入らなかった。ただ、勘違いではなかった──その思いが胸の内でマグマのように沸騰しつつあった。ウルスの態度は父親の厳しさではなく、紛れもない悪意の表明だった。秘められたそれがどれほどの大きさなのか、兄も自分も、全く理解できていなかったのだ。
ほんの少し、褒めてくれるだけでよかったのに──いつのまにか、スレイの手に黄金の輝きがあった。棚に飾ってあった、金色の表彰盾だ。任命状は見向きもされずに床に落ちていた。
スレイはなにも考えずに、衝動のまま金属製の盾を父に向かって投擲した。心の中で長い間積もりに積もった不満がついに炎として燃え上がり、激情が“生命”の神功の力を意図せずして引き出した。結果として表彰盾は弾丸めいた速度で空気を切り裂き、イシスと言い合うのに夢中になっているウルスのこめかみに直撃した。
「ああっ、ぐッ!?」
ウルスが悲鳴を上げて椅子から転げ落ち、衝撃で変形した表彰盾が床に落ちて重い音を立てた。あたりがしんと静まり返り、少しの間、だれも口をきかなかった。イシスは目を見開いてスレイを見つめ、かれはしでかしたことの重大さに半ば自失しており、まだ立っているのが不思議な状態だった。そして、こめかみからだくだくと血を流すウルスが、まさしく悪鬼の表情で立ち上がった。
「キサマぁ……」
スレイの本能が逃げろと叫んだが、震える足が自由を取り戻すよりも早く、獣のように吠えたウルスが襲いかかってきた。
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スレイは泣きながら暗い夜道を走った。ひどく腫れ上がった顔ですれ違う人たちをぎょっとさせながら、激情のままに疾走した。たとえどれほど息があがっても、あやうく路面電車にひかれそうになっても決して止まらなかった。かれにもはや帰る家はなく、目指すべき場所は一つしかなかった。優しい兄だったイシスが、もう決して迎えには来ないことも知っていた。
やがてスレイは例の橋にたどり着き、そこを一息で渡りきった。橋の終わりには老ハイランダー、ブロン・ゼム・ウーシアが待ち構えており、走り寄るかれをじっと見つめていた。
スレイは急停止してウーシアを見上げると、なにごとかを言おうとしたが、口からはひゅうひゅうとかすれた息が漏れるばかりだった。
「何も言わずともよい」スレイを見下ろしたウーシアが厳かに告げた。「スレイ、今日から私がお前の師であり父だ」
スレイはその言葉に心の中で頷きながらしゃくりあげ、静かに歩き出したウーシアの後についていった。同時に、かれはふと確信を得た。マスター・ウーシアはあのことを──ブライト家の忌まわしい秘密を最初から知っていたに違いない。