2.〈黒い口〉
伝説の語るところによれば──かつて人類は地上に“楽園”をつくり上げていたという。〈始祖〉の子は誰しもが自然と調和し壮健に暮らす権利を得、不正も不平等もなく、戦争と圧政は忘れ去られ、蓄積された英知は新たな創造のためにあった。
輝かしき黄金時代は千五百年前──〈異界の神〉の“越境”によって突如として終わった。かの神々とその眷属たちは放恣な略奪者であり、無慈悲な侵略者であった。解き放たれた邪悪な被造物が地にはびこり、禍々しい諸力が自然を穢し、都市という都市が、文化という文化が破壊された。
特にローラウという都市は背筋が凍るような災禍に見舞われ、現在では都市のあった盆地全体が〈黒い口〉の名で知られるようになった。絶えず瘴気を吐き出すこの地に住まうのは、もはや人ならざるものばかりであったが、今、ひとりの男がこの廃都を訪れていた。
男はハイランダーだった。戦士であり狩人であり探索者であるかれは、長年鍛えてきた体に合成皮膜の分厚い鎧下と、シーカープレートと呼ばれる軽量の装甲服を身に着け、古い伝統による筒のような外套を纏っていた。これらの装備はいずれも灰と青黒のパターンの迷彩色で、不浄のものが跋扈するこの魔土で、かれが姿を隠すのに一役買っていた。
その精悍な面の左のほおから首筋にかけては炎模様の刺青が踊り、先祖伝来の黒髪には油気がなく、黒い目は静かに閉じられている。かれは今、ただひとり朽ちかけた橋の陰の中に座り込み眠っていた。
もし見るものが見れば、ひと目でかれが練達の域に達した“生命”の神功の行使者、マスター・ハイランダーだとわかっただろう。人類の領域の外──外界では珍しくないことだが、〈黒い口〉に漂う瘴気は耐性のない生き物の命をまたたく間に奪う。
やがて男は目を覚まし、音もなく立ち上がった。二時間に満たない短い眠りだったが、かれにとっては充分だったし、これ以上眠るのは危険すぎた。長年この街を不法占拠する怪物どもは獰猛な人食いであり、かれには危険な追っ手までかかっている。
時刻は早朝だったが、〈黒い口〉を常に蓋している黒雲のためにあたりは薄暗く、秋が深まりつつあることを差し引いても凍てつくような寒さだった。だが、かれはどちらも気にもとめずに早足で橋の下の涸れ川をわたり、土手の斜面をすみやかに登って、市街地にある一つの大きな建築物に音もなく接近した。
〈始祖〉の〈最初の子ら〉が建てたその建築物は、どことなくうずくまった猫を思わせる丸みを帯びていた。機能性よりも見た目の優美さ、周囲の建物との調和を優先したその外観は、かつて人類が持ち得た余裕のほどを窺わせたが、千五百年前に都市を襲った略奪と猛火、長い時と不潔な住人たちによるはずかしめの無惨さをも強調していた。
かれは周囲に立ち並ぶほっそりとした尖塔──これまた優美さを全面に押し出している──に隠れながら、その三階階建ての建築物をうかがった。かつては巨大な商業施設かなにかだったのだろうか? 高熱ですっかり融解した、おそらくガラス張りだった部分からは大きな吹き抜けと、整然と区切られたスペースがいくつも見えた。
男の獲物たちはこういった場所を寝床にすることを好んでいた。外からはその影しか見ることができなかったが。ここが巣で間違いない。かれの感覚は忌まわしいにおい──それは必ずしも鼻で感じるものではなかった──とかすかな物音をとらえていた。物音は複数聞こえたが、そのうちのいくつかは建物の屋上からだ。
ハイランダーはさっと物陰から飛び出すと、建物を目指し一直線に走り、屋上へと跳躍した。比喩ではなく、一息で三階建ての建物の屋上まで飛び上がったのだ。そして猛烈な上昇の頂点で、かれは背負っていたものを鞘から抜き放った。それは幅広の刀身を持つ肉厚の長剣だった。“星辰の剣”の一振りたる〈不壊〉は単なる鉄の塊ではなく、その刃は冴え冴えとした青い輝きを放っている。
おん
着地とともに光刃がうなりを上げ、徘徊していた獲物の首が一刀で叩き落とされた。相手は断末魔を上げることすらできず、首を失った体が屋上に崩れ落ちて痙攣する。
屋上はもとは庭園だったのだろう。吹き抜けを中心としたむき出しの土の上に、汚物まみれのオブジェの残骸らしきものがころがっていた。そして、そのオブジェの上に、今しがた首を落とされた獲物の仲間がさっと飛び乗り男を睨んだ。
それは巨大な四足歩行の甲虫のように見えた。二メートルを超える身体は節くれだった黒い外殻に覆われ、体長と同じほど長い尻尾を備えている。細長い頭部は邪悪に歪んだ髑髏を思わせ、その眼窩の奥では鬼火のような不気味な灯が輝いていた。
“甲殻獣”──そう呼称される、きわめて獰猛な邪悪な被造物である。
「KKKHHHHIIIIIIIIII──!!」
アンカーは金属をひっかくような不快な声でいななくと、さっと二本の細長い前肢を広げ、その外殻に折り畳まれていた、薄い膜状の翼を展開し男に飛びかかった。直上から襲いかかり、かれを鋭い鉤爪で切り刻むか、ずらりと並んだ牙で噛み砕くか、あるいは長い尻尾の先端に備わる穂先で串刺しにしようというのである。
だが、人食いの怪物よりもかれの攻撃の方が先んじた。一刀で突き出された尻尾が切り払われ、翻った光刃が急降下に入っていたアンカーの髑髏めいた頭をたやすく断ち割った。
屋上にいた二体のアンカーが息絶え、あたりはしんと静まり返ったが、それは一瞬のこと──すぐさま建物のそこかしこで吼え声が上がりはじめた。それは敵襲を知らせる仲間への警告であり、侵入者への八つ裂きにしてやるという威嚇でもあった。
あたりは叫喚に満たされ、やがてアンカーが雪崩を打って屋上に上がってきた。およそ二十体はいるだろう。あるものは階段を鉤爪でひっかくように上り、あるものは翼で吹き抜けを飛翔して暗い空に舞い上がった。群れは敵意に満ち満ちており、侵入者を目にするなり金切り声を上げながら殺到した。
「オォ──ッ!!」
男も呼応するように吼え、怪物に負けず劣らずの獰猛さで相手に襲いかかった。かれは群れに真正面から突っ込み、〈不壊〉の光刃を敵の頭蓋に叩きつけた。千年にわたり怪物の血をすすってきた剣がうなりを上げ、使い手の意思に従って次々と屍を生み出した。
闘争本能の塊と化しているアンカーたちは、仲間がどれほど斃れようとも怯まず侵入者を押しつつみにかかった。だが、振り下ろされる爪も、首を狙った噛みつきも、弾丸もかくやという速度で突き出された尻尾も空を切った。今日に至るまで、かれはすでに数え切れないほどのアンカーの群れを鏖殺しており、その獰猛だが単調な攻撃方法をすっかり知り尽くしていたのだ。
たちまちのうちに狩りは一方的な殺戮の様相を呈しはじめた。ハイランダーが光刃を振るうたびに最低でも一体のアンカーが絶命した。朽ちた庭園の土がクリーチャーの血を吸い、やがて男の咆哮が邪悪なものどもの断末魔を圧倒する。縄張りを捨てて逃げるなど考えもしないアンカー、その最後の一匹が高々と跳躍して男に躍りかかり、頭頂部から股間まで真っ二つにされて臓腑をぶちまけた。
屋上は今度こそ完全に静まり返った。アンカーの死骸からこぼれたものが悪臭を放ったが、男は顔をしかめもせずに、さっさと階段を降りて建物の中に入った。当然照明もなにもなく真っ暗だったが、ハイランダーとして十分な訓練を受けたかれの目は暗闇を見通した。内装の大部分ははるか昔に焼失し、焼け残ったものもすでにほとんどが風化するか、あるいは無残に汚されていた。かつては人でごった返していたはずの場所で見つかるのは、アンカーが餌にしている別のクリーチャーの死骸や、脱皮殻や排泄物──そして世にもおぞましい家畜たちであった。
“やみ人”と呼ばれる彼らは人間に似ている部分もあったが、その肌は鉛色で体毛は一本なく、一人の例外もなく異常な肥満体であった。その胴体からはさながらぶどうのように肉の房がいくつも垂れ下がり、大半に飼い主たるアンカーが血をすすった噛み跡があった。
やみ人らは床に寝転がったまま動かず──そもそも四肢が退化していた──うつろな目を男にやることもなかった。彼らに関してはわかっていないことが多い。〈異界の神〉がこの世界に連れてきた異界種族の一種だと言うものもいれば、異界種族と人間の(魔術的な)混血だと言う説もある。
恐ろしいことに、彼らこそこの地のもともとの住人であり、千五百年にわたり死に続けている動死体の一種だと言うものもいた(この都市を襲った〈異界の神〉の狂気を鑑みれば、十分にありうることだった)。
なんにせよ、男はこの哀れな者どもを一体づつ──なるべく苦しまぬように──始末していった。建物内のいたるところに横たわるやみ人たちは、アンカーよりも遥かに数が多かった。ここはやはり追手たち──この地の〈番人〉が率いる軍勢の補給処のひとつなのだ。
手に肉と骨を断ち切る手応えを感じながら、男はむなしい思いにとらわれかけていた。かれの目的はこの廃墟に何万いるともしれない怪物どもの殺戮ではなく、あるものの探索だった。が、しかし、危険な砂漠を越え〈黒い口〉に入ったはいいものの、凶悪な〈番人〉に阻まれその手がかりに近づくことすらできていない。
だが、なにか方法があるはずだ。弟子をこの地に送り出したブロン・ゼム・ウーシアは探索の成功を確信しているようだった。あるいは、かれが探索を諦めないことをだろうか──じっさい、男は手ぶらで帰る気などさらさらなかった。
あれさえ手に入れれば、おれの名誉は永遠のものとなる。この世の誰も、自分を無視することはできなくなるだろう。あの兄と同じように……
かれは建物の中をやみ人らを掃討しながら彷徨い、そして出し抜けに輝くものを見つけた。それはかれが探していたものではなかったが、こんなところにあるとも思えないものだった。
「なんだこりゃ……?」
あまりの唐突さに男は思わず声を上げ目をしばたたかせた。警戒しつつ輝きに歩み寄り、その不自然さに眉をひそめる。
輝くものの正体は指輪だった。黄金色の指輪が、通路のど真ん中にぽつんと落ち、吹き抜けから差す薄明かりで輝いていたのだ。飾り気のないシンプルなリングには傷どころか汚れ一つなく、それ自体が人を誘惑する光を発しているかのようだ。
かれは慎重に指輪を拾い上げた。最初は呪物のたぐいかと疑ったが、邪悪なパワーはいっさい感じられなかった。それどころか、金色の光は神々しささえ帯びているように見える。
まったく不可解だが、捨てるにはいかにも惜しい一品だった。かれは指輪をまじまじと眺めた後、腰のベルトに固定された雑嚢に放り込み、建物の探索を切り上げ外に出た。
胸が、ひどくざわついた。
わずかの間に目に焼き付いた金色の輝き──それが不思議と男の記憶を刺激していたのだ。
かれはなんとはなしに廃都を囲む北の山々を見やり、その彼方にいるはずの兄イシスのことを思い出していた。十年以上前──スレイ・ブライトが失意とともに彼と別れたときの記憶を。