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プロローグ :〈聖なる碑文〉

 かれが生まれたのは厳しい冬の終わり、切りつけるような冷気が稀にみる吹雪となり、世界そのものが凍てつくような日のことだった。

 真夜中に上がった産声を祝福する者はなく、嬰児(みどりご)は安らぐことなく泣き続けた。

 もしも産褥(さんじょく)(とこ)に臥す母の苦しみと、その死を悟った父の憎しみを知れば、より大きな声で泣いたに違いない。

〈選ばれし者〉の弟として生まれたかれは、やむなくスレイと名付けられた。


                       ──〈運命の碑文〉の拓影



     ❖

     


 春のうららかな陽差しの中、スレイ・ブライトは“お山”の長い長い石段を上りながら、ひたすら〈始祖〉たちに慈悲を──あるいはなにかの拍子に石段から転げ落ちて、そのまま頭をかち割ってしまうことを願っていた。不運にも事故死してしまえば、審判の時は永遠に訪れず、この身に一生つきまとう烙印が押されることもない……


「大丈夫だよ、スレイ」


 頂上に近づくにつれ顔色を悪くするかれに、寄り添う兄が優しく声をかけた。


「結果がどうなるかはわからないけど、なにも心配することはないんだよ。スレイに(●●●●)とって(●●●)最良のことを、神さまたちが決めてくださるんだから」

「うん……」


 スレイは少しだけ生気を取り戻して頷いた。〈選ばれし者〉──優しい兄はいつだってかれに勇気をくれる。

 だが、同時に、


“なんで、こんなに違うんだろう──”


 という痛烈な思いも、緊張で高鳴る胸に抱かせるのだった。

 一つ上の兄──イシス・ブライトは誰がどう見ても特別な子供だった。

 それはおよそスレイとは似ても似つかない端正な顔立ちや、はっとするほど鮮やかな金色の髪と青い瞳、すらりと高い背、その品行方正、文武両道を地で行く優等生ぶりに起因するのではない。重要なのは誰も兄を無視できない(●●●●●●)こと──彼が生まれながらに放射する奇妙な影響力だった。


 親族や学友は当然のこと、赤の他人──本来子供など相手にしないであろう大人たちでさえ、兄の(たかが十四歳の!)言葉には静かに耳を傾けた。イシスの説得がなければ、気難しい父は今日この日、スレイに同伴することはなかっただろう。


「いちいちイシスの手を煩わせるな」


 先導する父がだしぬけに言ったので、スレイは肩をびくりと震わせた。

 兄弟の父──ウルス・ブライトはスレイとまったく同じ、黒炭のように艶のない髪と目を持っていたが、(いわお)のような顔には次男とは縁遠い威厳と自負がこれみよがしに刻まれている。贅肉のないがっしりとした体の肩を常に怒らせ、その背が曲がっているのをスレイは一度も見たことがない。


 振り向いた父はもはや失望を通り越した無関心の目をスレイになげかけ、わが子が目をそらしたのを確認して前に向き直った。


 進行方向からは喧騒が聞こえてくる。ついに石段の先、“お山”の中腹に、ひとつの白い大岩から掘り出された〈大神殿〉がその姿を見せはじめた。スレイの顔から再び血の気が失せ、足取りは一層重くなった。隣の兄が背を押さなければ、もしかするとそこで永遠に立ち止まっていたかもしれない。


〈大神殿〉前の広場は、すでに多くの人でごった返していた。スレイと同じく、今年度初等教育を終えた子供──スレイのクラスメイトとその家族たちだ。ブライト一家は伝統を守りおそろしく長い石段を上ったが、素直にケーブルカーを利用した者も多いだろう。式服を着たどの子供の顔にも一抹の不安と緊張があったが、スレイのように今にも死にそうな者は──儀式自体は慶事なので当然といえば当然だが──さすがに見当たらなかった。


 やがて、ブライト家の到着に気づいた者たちが挨拶に訪れた。連合軍の高官である父はもちろん、イシスも少なくない数の大人から声をかけられた。もし神聖な儀式が控えていなければ、もっと多くの人がお近づきなろうとやって来ただろう。彼らのほとんどはスレイには関心がないようで、おざなりな祝辞を述べるにとどまった。


 かわりに、スレイはクラスメイトたちから同情の視線を受け取った。彼らが寄ってこないことに対する失望はない。友人たちも(自分ほどでなくとも)緊張しているのだし、群がる大人たちをかき分けて「よおスレイ。神さまにクソ優秀な兄貴と比べられる気分はどうだい?」などと声をかける勇気を期待するのは酷というものだ。また、自分からそんな台詞を聞きに行く気力もない。ただ一点、うるわしきフェイ・リンの視線が自分を通り越し、兄に向けられているのに気づいて追い打ちをくらった気分になった。


 まもなく忌々しいほど輝く日が中天に達し、スレイが望まぬ時が訪れた。

〈大神殿〉のアーチから、白い(ころも)をまとい、のっぺりとした“無貌の面”をつけた高位の神官が姿をあらわし、子供たちに整列するよう促したのだ。


 足に根を生やしかけていたスレイは兄に押されて歩き出し、やめておけばいいのに父親の方をちらりと見た。彼は明後日の方を向いていた。


 親族と離れた三十人の子供たちは整列し、神官の先導で整然と(さんざんリハーサルさせられた)〈大神殿〉の白いアーチをくぐった。子供たちは厳粛な態度をつとめて保っていたが、通路の両脇に重装備のテンプル・ガードがずらりと並んでいるのを見て、小さく感嘆の声を上げた。白く重厚な装甲服を身にまとい、物々しい銃器ではなく装飾が施された儀仗を掲げている彼らを見て、スレイは兄もいつか一握りのエリートとしてここに並ぶのだろうかとぼんやり考えた。


 スレイの胃がついにしくしくと痛みを訴えだした頃、行進が終わり、子供たちは神殿の中ほどにある大広間──様々な祭祀が行われる〈神門の間〉で整列し直した。子供たちの視線は大広間の奥、壇上にある巨大な〈門〉──伝説に神界に通じていると言われる〈神門〉と、それを形作る〈始祖〉の群像、穀物が供えられた祭壇に向けられている。


 面をつけた神官がゆったりとした足取りで壇上の〈神門〉の前に立ち、かれの先達で〈始祖〉に対する礼拝が行われた。“お与えください!”スレイは〈始祖〉──すなわち人類の祖でありこの世界の(●●●●●)神々(●●)に必死に祈った。“四つ(●●)とは言いません。せめて兄の半分……”

 

 礼拝ののち、神官はこの重要なイニシエーション──ひいては〈聖なる碑文〉についての説法を始めた。〈聖なる碑文〉こそ〈七柱の始祖セブン・ディーアティス〉が人類に与えた最大の“形ある恩恵”であり、無法な侵略者である〈異界の神(ブラックウォッチ)〉とその眷属たちに対抗する力を目覚めさせてくれる……

 

目覚めてくれ(●●●●●●)

  

 やがて説法も終わり、スレイは他の子供たちと共に〈始祖〉への宣誓──聖なるパワーへの忠誠を鬼気迫る顔で誓った。ついに、儀式の最も肝心な部分──〈聖なる碑文〉による洗礼のときが来たのだ。

 

 神官は子供の名前を一人づつ呼んだ。儀式に臨む子供たちは、まずは別室で家族と合流し、彼らに見守られながら洗礼を受けることになる。


 父と兄の前で力を授かる──あるいは授からない(●●●●●)瞬間を想像し、スレイは血が逆流する思いを味わった。実際にはまったく(●●●●)授からない、ということはないはずだが──悲しいかな、〈始祖〉は公平ではない。


 悶々としている間にも次々と名前が呼ばれていき、〈神門の間〉から子供たちが去っていった。そして、ついにスレイの番が来た。

 神官に呼ばれたかれはかすれた声で返事をし、ぎこちない動きで、だが早足で歩き出した。立ち止まろうとは思わなかった、もはや可能な限りすみやかに、この苦痛を終わらせたくなっていた。


 が、しかし──覚悟を決めつつあったかれを再び衝撃が襲った。家族と合流するための別室に、父と兄だけでなく、来る予定のなかった祖父の姿を認めたのだ。ブライト家の当主たるグエン・ブライトは父そっくりの厳しい顔──ただし十分に老いた──をスレイに向けたが、なにも言葉を発さなかった。一方祖父と折り合いの悪い父の顔は苦々しさを増している。ただ一人、イシスだけが()い顔の見本のような顔で、スレイに静かに頷いてみせた。まったく馬鹿馬鹿しいことだが、スレイは自分と父と祖父は、この兄とほんとうに血がつながっているのだろうかと疑った。


 まもなく一人のテンプル・ガードが部屋に姿を見せ、全員に移動をうながした。スレイは先導に従って歩き出し、必死の祈りを再開した。他の子供とすれちがうことはなく、心臓が早鐘を打つのを感じていると、いつのまにか洗礼が行われるその室に到着していた。


〈碑文の間〉──そう呼ばれている神殿の最奥にある円形の広間である。やはり壁に沿ってテンプル・ガードたちがずらりと並び、広間の中央には人類にとって最も重要なもの、〈始祖〉から授けられた〈聖なる碑文〉──そのうち“光”・“生命”・“叡智”・“虚空”の四枚が安置されている。


 ただし、安置といっても鏡のように磨き抜かれた床に置いてあるわけではない。一抱えほどの灰色の〈碑文〉は、宙空になんの支えもなく浮遊しているのだ。

 半円状に並ぶ〈碑文〉の前には、やはり面をつけた神官が立っており、スレイに〈碑文〉の前に来るよう命じた。

 

 かれは一人歩き出した。背中に三人分の視線を注がれながら足のふるえと格闘し、のろのろとした動きで〈聖なる碑文〉へと近づいた。


“お願いします……! せめて二つ、二つはどうか……”


“光”・“生命”・“叡智”・“虚空”──四枚の〈聖なる碑文〉には〈始祖〉の末裔である人類の潜在能力を目覚めさせる働きがある。〈碑文〉の洗礼を受けた人類は、訓練や経験次第で神に近づく(●●●●●)──文字通り、超人的な力を得ることが可能となるのだ。


 もっとも兄イシスのように、四枚すべての銘文を輝かせるものは滅多にいない。大半は二枚で、一枚だけというのは三枚以上に少ない。父と祖父は三枚の〈碑文〉から洗礼を受けており、スレイも同じ程度の資質を見せねば、さらに失望させることになるだろう。それでも二つならば、まだ人並みと言うことができる。もしも一つだけだったら……


 スレイは〈碑文〉の前に立つ数秒の間に、これまでの人生で最も強く〈七柱の始祖セブン・ディーアティス〉に祈った。そして──よくあることだが──かの神々はそれを斟酌(しんしゃく)しないことにした。


 スレイが足をふるわせながら浮遊する〈碑文〉の前に立つと、ただ一枚、〈生命の碑文〉──そこに刻まれた神字(マントラ)の銘文が煌々(こうこう)と輝いた。もしもかれの心が恐怖に圧倒されていなければ、その黄金(こがね)色の輝きに目を奪われていたことだろう。だが実際には目に焼き付けるひまもなく輝きは消え、あとには沈黙だけが残った。


「スレイ・ブライト。そなたに今、“生命”の神字(マントラ)が刻まれた」


 すぐそばに立つ神官が(おごそ)かに告げ、さらに祝辞を述べていたが、スレイの耳には入らなかった。“生命”の神字(マントラ)が刻まれた──“生命”の神字(マントラ)のみが。ほかの〈聖なる碑文〉はうんともすんとも言わなかった。


 しばし茫然としていたスレイは、神官にうながされ、ようやく背後を振り返った。失望の目を覚悟したが、それさえも無意味だった。父も祖父もすでに退室しており、ただ一人、イシスだけがひどく珍しい困惑顔をスレイに向けていた。

お読みいただきありがとうございます!

評価、ブックマーク等いただければ嬉しいです。


また 「ブラックウォッチ」シリーズ(https://ncode.syosetu.com/s2021g/)で拙作を投稿しておりますので、そちらもご一読いただければ幸いです。

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