後編
書類に目を通す。斥候の情報ではやはり依然として帝国軍に動きはないようだ。
書類を机の端に投げ飛ばし、一息つく。喉を潤そうとティーカップに手を伸ばし、お茶を一口飲む。
ロランが顔を顰める。茶をいれてまだ三十分しかたっていないのにかなり冷めている。
あの戦闘からすでに一週間が経過した。その間敵に動きは全くなく、あれ以来小さな戦闘すら起こっていなかった。こちらの被害も大きかったがそれよりも相手の被害は酷いものだったはずだ。
確かにロランは先の戦闘で、奇襲に来た部隊の半数を見逃した。それは逆に言えば、半分は殲滅したという事だ。精鋭の半分を失う被害は甚大だ。
だからこそ攻められないのだ。ロランを倒すには兵力が足りない。今は戦力を補充している時だろう。そう考えるとしばらくはこの膠着状態が続くはずだ。
奇襲の可能性も無いとは言い切れないので、警戒を緩め過ぎずこちらも新たな傭兵の確保など戦力の補充に努める。
不意に部屋の外に人の気配を感じた。その気配は見知ったものだったので。
「入っていいぞ」
そう声をかけた。
「失礼します」
部屋へ入ってきたのは壮年の偉丈夫。
「副隊長か。どうした?」
「報告があって参りました」
副隊長が歩き、ロランの座っている机の前で立ち止まる。そして手に持っていた書類をロランへと差し出した。
「これは?」
「以前、貴族連中に少し違和感があると話していましたね」
そうだなとロランが頷く。その事を話したのは随分と前だ。ある貴族の護衛任務を受けた時妙な違和感を覚えたため副隊長と何か対策をした方がいいのではないかと話し合ったのだ。その時は部下の一人を間者として放ち、貴族の動向を探ることにした。
王国の内部から裏切られ、国が滅ぶと笑い話にもならない。
「何か進展があったのか?」
ええと副隊長が頷く。そして書類をもう一枚取り出し話を続ける。ロランも渡された書類に目を移し、報告を聞く。
「結局尻尾は掴めていないので詳細は不明なのですが、何やら動きがあったそうです」
「相変わらず無駄に硬いな……」
「全くですね。その労力を少しでも平民に向けるとありがたいのですが」
本当にな、とロランが呆れる。民のために行動している貴族など少数だ。大半が重税を課し、その金で豪遊している。民の心はすでに離れているだろう。
書類にしっかりと目を通す。近いうちに貴族たちが何かの行動を起こす。それだけしか分からなかったようだ。
余りにも厳重すぎる。近いうちに何か起こすなら馬脚を露してもおかしくはない。送り込んだ部下は優秀だ。なのに何もわからない。
つまり起こす事柄はかなり大きなものの可能性が高い。
「これが王国の民のためへのサプライズとかならいいんだがな……」
「その可能性は無いに等しいでしょうな」
だろうな、ロランが溜息を吐く。
「それと、その情報がここに届いたのはついさっきの事ですが、発信されたのは二日前です」
「なに? そんな前なのか」
情報の伝達は魔法を使えば、ここと王国の首都である王都までなら余裕でタイムラグ無しに通信することが出来る。だというのに二日前の情報なのだ。
「今は問題ないそうですが、ジャミングの魔法がかかっていたそうです」
「それは……」
貴族連中が大事を起こす可能性が確信に変わってきた。
情報がほとんど入手できないのなら、些末な事の可能性もあった。だが、ジャミングがあるなら話は別だ。十中八九、大事になるだろう。
「ジャミング魔法か、難しい魔法のはずなんだがな」
「ここのやつらは自分も含め大半が使えますな。精鋭ですから当然と言えば当然なのですが」
「逆に言えば精鋭にしか使えない。王国で俺たち以外に使える奴らは限られている」
「王室魔導士ならば使えるでしょうな」
ははとロランは乾いた笑い声を上げる。
王室魔導士。王室、つまりは国王に選ばれた優秀な魔法使いの事だ。彼らは国王にだけ仕え、国王のためだけに行動する。それはつまり。
「国王が関わっている、という事か……」
「その可能性も捨てきれない、というよりは高いでしょうな」
「無能ならせめて、何もせずにいてほしいんだがな……」
無理でしょうなと、副隊長が苦笑する。ほとんど当然のことだ。無能だから余計なことをする。本来ならばこの戦争も、もう終わっているはずなのだ。国王が停戦を願えば帝国はそれに応じるだろう。だが、ロランの存在が妙な夢を持たせてしまった。国王はこの戦争に勝てると思っているのだ。
二倍以上の国力を持つ帝国にずっと勝ち続けている。それが王国上層部の慢心を生み出してしまった。勝ち続けている要因であるロランは勝てるのは防衛戦だからこそだと思っている。もし、帝国に侵攻しても何もできず確実に負けるだろう。
今の王国上層部には現状を正しく理解できている者がほとんどいない。
「なんで、こんな国のために尽力しなきゃならないんだろうな……」
「そうですね。……本当に」
そんな時だった。
部屋の扉を勢いよく開けて入室する者があった。二人とも少し警戒するがそれが隊員の一人だと気づき、すぐに解く。
「騒々しいぞ、何事だ?」
すぐに副隊長が注意しつつ、用件を聞いた。
その隊員はよほど慌てていたのか息を切らし、顔を俯かせながら無理やり呼吸を整える。
「た、大変です……!」
顔を上げ叫ぶようにそう言った。
歳は二十代後半であろう男性隊員だった。当然見知った顔で名前も憶えている。あまり感情を表へ出さない性格だったのだが、表情からは戸惑いらしき感情が見て取れる。
「何があった?」
落ち着いてロランが先を促す。感情の出ない男がこれほど慌てるという事は、それだけの事態なのだろう。
「た、隊長……落ち着いて、落ち着いて聞いてください……」
「落ち着くのはお前だ。どうした?」
副隊長がその隊員の肩に手を当て落ち着かせる。隊員は大丈夫ですと副隊長に礼をし、話し始めた。
「さ、先程……王都より連絡が。……聖女様が、オリヴィア様が、反逆罪で捕らえられたそうです」
「……え?」
――何を言っているのか理解できなかった。
「あり得ん! 彼女が反逆を企てるわけがない! いったいどういう事だ!?」
「理由は分かりません……。反逆は重く今日中に処刑されるそうです……」
――意味が、分からない。
「な、なんだと。彼女が逮捕されたのは何時なのだ?」
「今日だ、そうです」
――何が、起きている? ヴィヴィが、はんぎゃく?
「どういうことだ? その日にすぐ処刑だと? 意味が分からん。処刑は実行されたのか?」
「いえ、まだ。ですが、もう時間はないかと」
――処刑。ヴィヴィが死ぬ? ヴィヴィが、いなくなる。そんなの無理だ。俺には無理だ。
「急がないとまずいな。隊長! ……隊長?」
そこにロランの姿はなかった。
一瞬のうちに凄まじい力を受けて、地面が破裂するように抉れ、砂塵を巻き上げる。その現象は一か所だけでなく少しの間に多くの場所で発生していた。遠くから見るとそれは何かが凄まじい速度で動いているように見えた。
その何かの正体はロランだ。
気がつくと王都めざし駆け出していた。風よりも早く、音を置き去りにして。
体中を魔法で強化していた。速度を高めるため足を中心に強化し、風圧に耐えられるよう体全体の硬度を高めていた。
体内に大量の魔力を残すと魔力が爆発する恐れがあるため、足裏から放出する。ジェット噴射の如く噴出される高濃度の魔力の奔流。それが地面を抉っていたのだ。
体の耐久度を上げているとはいえ、無理な強化に体が悲鳴を上げ激痛がロランを襲う。だがロランはそんなことを気にしない。気にする暇などない。
ロランの頭の中にはオリヴィアのことしかない。
彼女を助ける。何としても。
約束した。大切な約束だ。破るわけにはいかないのだ。
――俺は君の笑顔が好きなんだ。
だからこそ急がなければならない。最悪の結果を防ぐために。
魔力の放出が間に合わず体内で暴走する。無理やり流れを足には影響がないように弄る。ロランの右肩から空気の弾けるような音が鳴った。頬に少し粘着質な液体が付着する。
――君の笑顔を見るだけで俺は満足なんだ。。
右肩を襲う激痛にロランが顔を歪ませる。視線を少し向けると、右肩に破裂したかのような傷が出来ていた。そこから血が滴っていた。ロランは頬に付いた血を拭いながら、不得意だが回復魔法を使って応急処置をする。
痛みが少しだけ和らぐ。だが、傷口はあまり塞がらなかったため気休めにしかならない。ロランの回復魔法ならこんなものでしかない。
――だからこそ君を、君の笑顔を守ると約束した。
どれだけの時間こうして走っているのか、分からない。しかし、確実に王都へ近づいている。あともう少しだ。もう少しで会いに行ける。
――だから、俺は。
必ず間に合う。絶対に間に合わせる。間に合わなければいけない。足に力を込め大地を蹴る。焦る気持ちをバネにロランは急ぐ。彼女の笑顔を再び見るために。艦所を守るために。体の損傷を無視し、さらに魔力を込めた。
――君を必ず救う。救わなきゃいけないんだ。
ロランの速度が爆発的に跳ね上がった。
*
王都が見えた。
王国で最も栄えた都市。高い建造物が立ち並ぶ貴族のための街。華の都。それが王都。
大地を力強く蹴り、飛び上がる。そしてそのまま王都の建物の上へと着地した。その建物は着地の衝撃に耐えきれず崩壊する。ロランは完全に崩れる前に次の建物へと移る。
それを繰り返し中央の広場を目指す。処刑が行われるとしたらそこだ。ロランは一心不乱にそこを目指す。
(急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ!)
ロランはほとんど錯乱していた。自分が何をしているのか理解していない。無意識に行動していた。だが、やらなければならないことだけは分かっている。それだけで十分だ。
広場を視認する。そこにはかなりの人だかりがあった。
足は止めず確認する。広場の処刑台。そこに彼女はいた。
「ヴィヴィ……!」
思わず声に出す。しかし、もう時間がないようだ。
オリヴィアは既に断頭台の上にいた。いつ処刑が行われてもおかしくない。建物の上から飛び降り、広場の前の大通りへと着地し駆ける。
処刑人の声が耳に入った。今から執行される様だ。
間に合え。処刑台へと走りながら魔力を編み断頭台を破壊するための攻撃魔法を構築する。
左手が炎に包まれた。
ギロチンが動き出す。だが、これなら間に合う。
左手を振りかぶり、放とうとした時だった。
オリヴィアと目が合った。
一瞬だった。ロランの体が硬直してしまったのだ。
意味が分からなかった。理解できない。どうして、なんで。疑問は尽きなかった。しかし答えは出ない。
その硬直が取り返しのつかないこととなってしまう。
ギロチンが――落ちた。
目が合った時、オリヴィアはロランに微笑んでいた。
いつもと同じ優しい笑顔で。まるでとりとめのない世間話をしている時に浮かべるような、ロランが大好きだった笑顔。
その笑顔が、最後となった。
その瞬間ロランは、完璧に壊れた。
声にならない悲痛な叫びが王都に響く。魔力が視認できるほどに狂い溢れ暴風のように噴き出す。地面が揺れ、建物が軋む。一般市民が悲鳴を上げて逃げ惑う。
まるで天変地異だ。それがたった一人の男によって生み出されている。
ロランの視界が赤く染まった。眼のふちから赤い液体が零れる。
頭がどうにかなりそうだった。情報をうまく整理できない。何が起こったのか分からない。分かりたくない。理解しちゃいけない。でも受け止めてしまう。最悪の事実を受け止めてしまう。感情が荒れる。感情に支配される。
にくい。憎い。ニクイ。
獣の様な絶叫を上げながらロランが処刑台へと走る。その手に高濃度の魔力で構成された、血のように紅い剣を持ちながら。
その時より王国の滅びが始まった。
*
どのくらい時間がたったのか分からない。ロランには数時間にも感じられるが、実際には数秒か数分程度かもしれない。
足を引きずるかのような重い足取りでロランは処刑台の上を歩いていた。
辺りは血で真っ赤に染まっていた。至る所にばらばらになった人間の体が転がっていた。
処刑人。厳重な警備をしていた数十人ほどの番兵。見物に来ていた貴族達。その全てをロランは殺した。
まず狙ったのは処刑人だった。邪魔をしてくる番兵を薙ぎ払い、処刑人を真っ二つに切り裂いた。次に狙ったのは逃げようとする貴族。御付きの護衛兵がロランに剣を向けたがその剣ごと体を断ち切り、逃げる貴族を魔法で圧し潰した。
処刑に少しでも関わったものを許すつもりは無かった。だから逃げる番兵も全員殺した。本当は見物していた王都市民も全員殺したかった。しかし、それは流石にオリヴィアが許さないだろう。だから自制した。
オリヴィアはもういないのに。
ロランの歩みが止まり、その場に崩れ落ちるように座った。
「ヴィ……ヴィ……」
ゆっくりと恐る恐るロランがオリヴィアへと手を伸ばす。首だけになった聖女へと。
両手でしっかりと掴み目を合わせる。こちらを見つめ返してくる目は、生きていた時と何も変わらないように見える。だが何かが違う。この目からは何も感じない。何も感じ取れないのだ。何も変わらない。
「ぁあ……ヴィヴィ……な……ぁんで」
赤く濡らしぐちゃぐちゃになった顔でロランが嘆く。労わるようにオリヴィアを胸へと持っていき抱きしめる。
いつもは逆が多かった。落ち込んでいるロランをオリヴィアが慰める。その時によくロランは抱きしめられていた。そうやって慰められていたのだ。
だが、オリヴィアがロランを慰めることはもうない。当然、ロランがオリヴィアを慰めることも無い。
オリヴィアは死んだのだから。
そこでもう本当にどうしようもないのだと気付いてしまった。
もう取り戻せないのだと。
ロランは泣いた。子供のように無様に泣き叫び、喚く。だが、いくら泣いた所でオリヴィアがかえってくることは無い。
ひとしきり泣き叫び喚き散らす。涙が枯れるほど泣いてようやく止まった。
ゆっくりと立ち上がり歩き出す。その手にしっかりとオリヴィアの首を持って。
「はは……許さない。絶対に……許しはしない。殺す……殺す殺す殺す殺す殺す……殺す!」
瞳に狂気を宿し、口からは呪詛のように怨恨を吐く。幽鬼のような足取りで、ボロボロの体に鞭を打ちゆっくりと歩く。
「はは……ははははは……」
壊れたように笑いながらロランは王都を後にした。
その姿を王都の市民達は遠巻きに見ていた。その異様な姿に恐怖する者もいれば、その悲痛な姿に同情する者もいた。どんな感情を抱いたにしても、王都の市民にその姿は深く焼き付いたのだった。
*
王国を滅ぼす。ロランの思考にはそれしかなかった。オリヴィアを殺した王国を許すつもりなどなく、未だに存在していることが憎くて仕方がなかった。
王国の貴族と王族を殺したい。一人たりとも逃がさず、例外なく皆殺しにしたかった。
しかし、狂気に囚われていても思考は冷静だった。
いくら自分が王国の戦力の過半数などと言われていても、一人で王国を滅ぼせると思うほどロランは愚かではなかった。
ならばどうするか。
そこでロランが取った行動は帝国への亡命だった。帝国の戦力を利用することにしたのだ。
当然受け入れられない可能性があった。ロランはかなりの数の帝国兵を殺した。そんな奴の亡命を受け入れなくてもおかしくは無い。
その時はその時だった。愚かであろうとも一人で王国を滅ぼせばいい。自分が死んでも王族と貴族を皆殺しにできればいい。それがロランの望みだから。
単身、ロランは国境を越え、帝国へと侵入する。国境警備をしていた帝国兵はロランの侵入を邪魔しなかった。それはロランも知っているとある人物のおかげだった。
以前、ロランと一騎討ちをした帝国の司令官。彼がロランとの話し合いの場を設けたのだ。そのおかげでロランは問題なく帝国へと入ることが出来た。
彼との縁を利用して亡命をしようと考えた。その旨を司令官に伝えると、彼は上へと取り合ってくれるようだった。
それから一日も経たないうちにロランは皇帝へと謁見することになった。急な展開に妙だと思う事もあった。自分を殺すためなのではないとも考えたが、自分を拘束するための拘束具は簡単に破壊できるもので問題はないと判断した。そこで裏切られても全員殺せばいいだけだ。
皇帝への謁見はすぐに終わった。簡単に亡命を認めたのだ。
当然条件はあった。王国への侵略に尽力することを義務付けられた。その条件はロランにはあってないものだ。元々帝国に亡命したのは王国を滅ぼすためだけだ。それ以外の事をする気はなかった。
こうしてロランの亡命はいとも簡単に終わった。
王国の聖騎士、英雄ロラン・アストルフォ・ルノーが帝国へと寝返り、王国へと牙を向いた。
王国に彼を止められる英雄はいなかった。
「ここにいましたか……」
その声にロランは少しだけ反応し、視線を向ける。声をかけた人物を確認すると興味を失ったかのように視線を戻した。目当ての人物ではなかった。
「貴殿の尽力のおかげで、王国への侵攻は著しく進みました。一ヶ月もしないうちに王国は我が方に下るでしょう」
「……」
声をかけた人物――帝国の司令官の話を聞いているのかいないのか、ロランは全く反応を返さない。
司令官は気にせず話を続けた。
「次の侵攻は明日になります。準備を済ませておいてください」
「……」
ロランは何も返さない。その反応は司令官も分かっていた。ずっとそうだったからだ。
ロランが帝国へと亡命し、すでに一週間が経過した。そのたった一週間でロランは王国の貴族の三分の一を殺した。
異様な速さだ。
さらに異常なのはその全てをたった一人で行っていることだ。
戦闘が始まるとロランはたった一人で戦場の真ん中へと突っ込み、王国兵士を皆殺しにする。そして彼らが守っている貴族を探し、必ず殺すのだ。
それの繰り返しだった。
司令官はロランの事情を理解していた。何故、悪魔の如き様相で戦場を駆けるのかを。聖女の死が彼を悪鬼へと落とした。
司令官は一度だけ聖女に会ったことがある。それも戦場でだ。その時彼女は敵国の兵士である自分の部下を治療した。
内緒にしてくださいね。そう言いながらたった一人で献身的に兵士たちを治療していた。聖人君子とは彼女のような人物なのだろうとその時に司令官は思った。
そんな彼女とロランは古馴染みの中だったようだ。だからこそ処刑された時の悲しみは如何程の物か分かるはずもない。
的外れであることは分かっている。だが、司令官はそんなロランを心配してしまう。自分の子供でもおかしくない年齢だ。司令官が心配してもおかしくは無い。
ロランの左頬へと視線を向ける。そこにはムカデの刺繍が入っており、それに司令官は顔を歪ませる。その刺繍はまるで生きているように蠢いて気味が悪かった。
ムカデは呪術の象徴の生物だ。
呪術とは魔法とよく似た技術。魔力を使って対象の存在に何らかの制約をかけることが出来る。呪術がかけられた者には体のどこかにムカデの刺繍が浮かぶ。
今、ロランに掛けられているのは魂縛と呼ばれる強力な呪術だ。これはその名の通り魂に制約をかける呪術だ。この呪術をかけられたものは、かけた呪術師の命令に背くことが出来なくなる。それだけでなく予め設定された時間を超えると呪術の毒で死んでしまう。
ロランに設定された時間は一ヶ月。それを超えるとロランは死ぬ。呪術を解くか時間の更新をしない限り確実に。更新は呪術をかけた呪術師にしか行えず、呪術を解くのも呪術師にしか行えない。呪術は呪術師を殺しても継続し効果は残る。
魂縛は禁術だ。簡単に人を傀儡にすることができる呪術だからだ。それを使ってまで縛り付けることに司令官は疑問を抱いていた。
ロラン自身はそんなこと気にしていない。今のロランの思考は一つだけだ。むしろ帝国からのバックアップのおかげで普通に戦えている。腰の剣は非常に上質なものとなり、ロランの全力の魔力にも少しなら耐えることが出来る業物だ。
他にも王国の時より上質な物が増えている。呪術による制約は今のところ無いようなものなので、以前より戦いやすくなっている。
ロランにとっては司令官の心配などどうでもいいことだった。
「貴殿に会いたがっている者達がいる。良ければ会ってもらえないだろうか?」
「…………」
司令官が本題に入る。しかし、反応を返さない。予想はできていたため断りを入れてその人物達へ合図を出した。
二人の元に近づく人影は七つあった。
「隊長」
その声にロランが反応した。聞き覚えがあったからだ。ゆっくりと声の方へと振り返った。そこにいたのはかつての部下たち。
「隊長……自分たちも参加します」
無表情の男性隊員がそう言った。無表情だが顔には怒りが滲んでおり感情が表に出にく彼にしては珍しかった。
「た、隊長。私は……彼女を、彼女の夢を侮辱した王国を絶対に許せない。……だから私も協力します」
「……自分も許せない」
双子の女性隊員が続く。彼女たちはオリヴィアと仲が良かった。休日の時はオリヴィアの活動をよく手伝っていた。オリヴィアも親友だと思っているとロランに言っていた。友人の死に二人とも嘆き悲しんでいるようだった。
全員の顔を見渡す。誰もが頬にロランと同じムカデの刺繍を入れられていた。その後、視線を司令官へと移す。
「……次の戦闘では共に戦うことになります。当然、貴殿が認めればですが」
司令官の問いにロランは迷うことなどなかった。答えは決まっている。
「……かまわない」
ロランの答えに隊員たちはありがとうございますと喜びの声を上げた。
迎え入れるに決まっている。彼らは精鋭だ。実力はよく知っていた。その戦力を使えば王国をより楽に滅ぼすことができる。
最前線を突破したとき彼らを確認できなかった。ロランは気にしなかったが、本来なら隊長が裏切ったことで処刑されていてもおかしくは無い。生きていたのは帝国へ亡命していたからだろう。
ただ、彼らの戦力以外の事は心底どうでもよかった。生きているのなら敵になると少し面倒だった。だから味方なのは助かった。その程度の認識だ。
だからこそロランは気付かない。
隊員の数が一人足りないことを。
ロランの元に馳せ参じた七人の隊員達。その中にかつての自分が最も信頼していた副隊長の姿が無いことに気付くことが出来なかった。
*
かつての部下たちとの邂逅から二日。元王国の精鋭部隊の加入による戦力の拡充により、王国への侵攻は進むかに思えた。しかし、以前ほどの進行速度は維持できていなかった。
その理由は二つあった。
一つは貴族お抱えの親衛隊の存在だ。これまで殺してきた貴族とは違い、今争っている貴族たちは爵位が高くかなりの財産を所持している。その財産のおかげで親衛隊の練度は王国の正規兵よりも高く、ロラン達は苦戦していた。
もう一つはロラン自身のコンディションの問題だ。ロランの状態は万全ではない。オリヴィアの死から常に下がり続けている。体調も酷いが何よりも精神面が酷い。ロランはあの日からほとんど寝ていないのだ。寝ないのではなく寝られないのだ。寝ると夢に見る。オリヴィアのとの日々を。かけがえの無い思い出の日々。だが、その夢では最後に必ずオリヴィアの首が飛ぶ。そんな夢を必ず見るのだ。
ロランにはそれが耐えられなかった。
ロランの精神を癒すモノは無い。かつての部下でもそれは不可能だった。そもそも会話すらしない。再会した時に話した一言二言、それ以来ロランは部下と会話を交わしていない。部下たちの方から話に来ることはある。だが、ロランは言葉を発しない。見ていられなかった。まるで抜け殻の様で、死んでいるようで部下たちはそれが悲しかった。
王国内に変化があった。国王への不満から国民が立ち上がった。
彼らは革命軍を結成し、王国と戦争を開始した。だが戦果は芳しくないようだ。それも当然のことかもしれない。彼らの練度は低いうえ、彼らに魔力は存在しない。少ない、ではなく存在しないのだ。今の時代に少しでも魔力が存在すれば重宝される。魔力を所持しているだけで国より騎士号を授与され騎士になることも、努力すれば貴族になることもできる。
もしかすると国の状況を見て革命軍に支援する者もいるかもしれない。そうなろうともロランにとってはどうでもよかった。むしろ革命軍に憎しみすら抱いている。
何故、革命軍を立ち上げるほどの行動力があってオリヴィアの処刑を止めなかったのか。それを考えていると革命軍まで標的にしそうだった。考え続けていると革命軍に参加しているモノたちも殺したくなってくる。
鞘より剣を引き抜きしっかりと握る。空気が焼けるような低い音と共に刃が赤く染まる。
眼下の戦場を睨み付けるように見下ろした。
ようやく追い詰めた。
たった一人の貴族に二日もかけてしまった。だが今日でその貴族も終わりだ。
「はは……はははははははははは……」
高台より乾いた笑いが響く。聞いているほうが辛くなるような悲痛な笑い声だった。今この場にはロランしかいない。他の兵士は別の場所から攻める予定だった。ロランの役目は敵の本軍を突っ切って、一気に本丸を落とすことだった。
ようやく殺せる。そう思うと楽しくなる。今狙っている貴族の名を聞いた時に思い出した。不穏な動きをしていた貴族たちの中で一番聞いたことを。
おそらくはオリヴィアの処刑に最も関わっている貴族だ。そいつを殺せると考えるだけで心が躍る。
壊れたように笑いながらロランは高台を蹴り跳躍する。目指すは敵の本軍の真ん中。
着地すると同時に二人を斬る。突然の事に周りの兵士が膠着する。その間に三人切り裂いた。
「あ、悪魔だああああ!」
一人の兵士が恐怖から叫び声を上げる。その恐怖は波のように周りへと伝わり動揺が広がる。その間にも一人斬った。
本当はこの場にいる全員を殺したかった。しかし、今はそれよりも大事なことがある。
「ぎ、銀色の悪魔……!」
兵士の恐怖の声を背にロランは敵軍を突っ切って走る。邪魔をしてくるものだけを斬りあとは任せる。
ロランの後方から怒号が上がった。帝国の兵士が参戦した。
動揺している王国の兵士を帝国の兵士が薙ぎ払う。そこにはかつての部下たちもいた。
動揺はさらに広がり、王国の部隊はこのまま壊滅するかに思えた。しかし、すぐに動揺が収まったのだ。
敵の司令官が念話を用い、王国兵の動揺を沈めたのだろう。ロランにとってはどうでもいいことだ。貴族を殺せばいいだけなのだから。
速度を上げ一気に敵兵の中を突っ切った。そして見える敵の本陣。築かれた堅牢な砦。そこに獲物がいる。
砦の壁を切り裂き中へと侵入する。中には警備が張り巡らされていた。進行を阻む警備兵を全て殺しながらロランは奥を目指す。
そしてたどり着いたのは砦の最上階。そこにいた男はロランのよく知る人物だった。
「……お前だったか」
「あまり……驚かないのですね」
予想は出来ていた。兵士の動きは自分のよく知っている動きだった。だから驚きはなかった。その男はロランと同じ騎士服を身に纏った偉丈夫だった。
かつての自分の右腕。最も信頼した男だった。王国最強と名高かった王国魔導騎士団副隊長がそこにいた。
「あなたが、王国を裏切ったことを責めるつもりはありません。……あなたの心情を理解できる、などとおこがましいことは言えません。それでも帝国に付いた理由くらいは分かります」
ロランは何も答えない。攻撃をしてこないところから聞いてくれるのだと副隊長は信じ、話を続ける。
「私自身も王国に不信感を抱いていますし、尽くす義理などありません。……ですが、何より私は帝国を許せない!」
副隊長が叫ぶ。帝国への怒りと憎しみを込めて。
「坊やを殺した帝国を! 私の妻と息子を奪った帝国を絶対に許しはしない!」
副隊長の家族は三年前に帝国の侵略により命を落としていた。ロランが王国にいた時も彼は常に帝国への憎しみを抱いていた。
「いくらあなたが相手とはいえ、帝国に付くというのなら私は容赦しない。……目当ての人物はここの東にある森の中を逃げています。あなたなら簡単に見つけられるでしょう」
何故、自分にそれを言うのかロランには分らなかった。言わなければそれだけ時間が稼げるのだから。
「私が負けたのなら、それまでです。その時に協力はできないでしょう。なので予め協力する、それだけですよ」
ロランが剣を構える。これ以上話しても無駄だ。それに応え、副隊長も剣を構えた。
静寂が砦を包む。
動いたのは同時だった。二つの影がぶつかり交差する。
それだけだった。たったそれだけで戦闘が終わった。
副隊長の剣は半ばから断ち切られ、ロランに届くことは無かった。
ロランの剣は阻まれること無く、副隊長の心臓に突き刺さっていた。
どちらが勝ったかなど言うまでもなく、明白だった。
ロランが剣を無造作に引き抜く。支えを失った副隊長の体が倒れ、床に血の海を作った。
即死だった。
心臓を貫かれ副隊長は一瞬で死んだ。彼自身も分かりきっていたことだ。自分ではロランに勝てない。この結果は予測できたことだった。
剣に付いた血をふるい落とす。するとどうしたことかロランは手に持った剣を見つめると、それを投げ捨てる。
その剣は床に落ちると、音を立てて砕け散った。
ロランは既にその場を後にしていた。
再び静寂が砦を包み込んだ。
砦から東へ五百メートルほどの場所に件の森林があった。かなりの大きさの深い森だ。
木々の間を縫うようにロランは走る。万全ではないせいか探知魔法の精度が悪い。以前のようにどのような人物かはっきりと分かることは無いが、それでもどこに何人いるのかはわかるため問題はそこまでなかった。
数は五つ。纏まって行動している。距離はそんなに離れていない。これならばすぐに追いつく。
それから五分もかからないうちに視認できた。
魔法騎士らしき風体の護衛四人。そしてターゲットである貴族が一人。相手はこちらに気付いていない。
素早く術式を構築する。が、焦りすぎたのか失敗してしまった。再度術式を構築する。今度はゆっくりと正確に。
術式が完成する。それはロランの得意とする火属性の術式だった。
走りながらそれを目標へと放つ。
護衛が反応するがもう遅い。業火により護衛の魔法騎士たちは骨まで焼き尽くされる。残るは目標の貴族ただ一人。
阻むものは何もない。
怯え竦む貴族にロランが突撃する。近づくと同時に飛び掛かるように顔面に飛び膝蹴りをかました。
うめき声を上げ地面に貴族が倒れる。鼻が折れ、間抜けな顔へと変わっていた。
ロランはマウントを取ると拳を振りかぶった。
「や、やめ……がっ!」
声など聞きたくなかった。だから殴って黙らせる。間をおかず直ぐに追撃し殴る。
殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。
「はははははははははは……ひひひふふはあはひはっはは」
狂ったように笑いながら気が済むまで殴り続ける。とっくに貴族は死んでいるが、気付いているのかいないのロランは気にしない。
しばらく殴り続けてようやくロランは手を止めた。立ち上がり自軍の本陣へ向けて歩く。貴族の顔は殴られてぐちゃぐちゃになっていた。ロランの拳は貴族の血と自身の血で赤く濡れていた。
気が済むまで殴り続けた。憎しみを込めて。怒りを込めて。
だが、心は全く晴れない。陰りは取れない。
むごたらしく貴族を惨殺したことで気が重くなることも無く。何も変わらないのだ。何も全く変わらない。
「もう……すぐだ。もうすぐ終わるよ……ヴィヴィ」
まるですぐ近くにいるかのようにロランが優しく語りかけた。そうすれば少しは気分が楽になると考えた。
――返事は返ってこない。
それが王国の最後の抵抗だった。
その後、帝国が王国を落とすのに時間はかからなかった。現状の王国に帝国の兵力はどうにもできず、革命軍にすら疲弊させられるほどに弱体化していた。
戦争が終わった。
五年間続いた帝国による侵略戦争。国力の差から帝国の勝利ですぐに終わるとされていた戦争は、王国の英雄により大抵抗を見せた。しかし、王国がその英雄の逆鱗に触れた結果、英雄は帝国へと寝返り王国を滅ぼした。
王国は地図からその名を消した。
ロランの目的は完遂した。自らの手で王国の貴族、王族を例外なく殺せたのだから。
皇帝は帝国のために尽力したロランとその部下たちを讃えた。呪術を解き、ロラン達が帝国の要職に就けるよう優遇した。
皆がそれを受け入れ、皇帝の騎士になることを誓った。受けた多大な恩を返すために。
だが、ロランだけはその恩賞を受けなかった。
ロランには、もう生きる理由がなかった。
現在の帝国領でかつて王国領だった小さな村がある。ゆっくりと時間が流れる穏やかな村だ。この村こそロランとオリヴィアの出身地。幼き頃、ロランとオリヴィアが共に過ごした村だった。
要職に就く気の無かったロランは、代わりにこの村にオリヴィアの墓を作ってくれと頼んだ。オリヴィアが穏やかに眠れるよう故郷の村を選んだ。
皇帝はロランの願いを快く受諾し、すぐに取り掛かった。それには聖教の最も盛んな国である法国も協力した。オリヴィアは彼ら法国にとって今を生きていた最も尊き聖女だった。そんな彼女が不当な理由で処刑されたのは彼らも許せなかった。
帝国と法国の協力で彼女の墓は故郷の村にすぐに作られた。ロランの静かに眠らせて欲しいという要望から派手な物ではなく質素な墓となった。
帝国と法国のどちらも墓の手入れを欠かさず、彼女が静かに眠れるようにするとロランに約束した。
ロランはオリヴィアの墓の前にいた。数日前にこの墓が出来てからずっと、その場から動かずそこにいた。
食事もとらず、何もせずそこにいた。元々戦争中もあまり食事を取っていなかった。そのため痩せ細り、手足は骨と皮だけのように細くなっていた。
ロランは死人と見まがうほど憔悴しきっていた。
「たい……ちょう」
ロランの背後に二つの人影があった。それは双子の女性隊員だった。
姉が声をかけた。悲痛な声だった。
彼女は尊敬する自分達の隊長が日々憔悴していくのを見るのがつらかった。
隊長の中でオリヴィアの存在はとても大きなものだと彼女は理解していた。理解したつもりになっていた。
こんなになるほど大きなものだとは思っていなかった。
姉の様子を見て今度は妹がロランに話しかけた。本当は姉から話を切り出す予定だった。だけど感受性の豊かな姉では無理だと、妹が代わりに話しかけたのだ。
「……隊長。わたしたちは帝国でうまくやっている。むしろ、こっちの方が待遇もいいくらい。だから……隊長も気が変わったらいつでもおいでって、帝国の人が言ってた。こっちで隊長が部隊を作っても面白いと思う」
ロランは何も答えない。振り返りもせず動きもしない。
もう、自分たちの事は見えないのかと思うと悲しくて仕方がなかった。妹も姉と同じで隊長の事を尊敬し、慕っていた。だからこそ悲しかった。
ロランのすぐ後ろにある食事の皿を見る。やはり全く手が付けられてなかった。毎日、かつての隊員達がロランのために会いに来ていた。ロランの心を少しでも晴らすために。その時にロランのために食事も持ってきていたのだ。長らく何も食べていないロランのために持ってきたいた。
妹は悲しみながらも食事の皿を回収し、新しい食事を置く。
「隊長……また来るから。姉さん、行こ?」
「待って!」
妹が姉の手を引きその場を後にしようとした。それを姉が止めた。
「隊長! あの、私。隊長のおかげで、隊長の教えのおかげでここまでこれたんです! だから……その……また同じ部隊で……だから待ってます!」
「……わたしもまってる」
姉の赤心からの叫びに妹が同調した。
また来ますからそう言って双子はその場を後にした。
何を言おうともロランには届かない。今の彼にはオリヴィアしかいなかった。オリヴィアしか見えていなかった。
ずっと決心がつかなかった。何を言えばいいのか分からなかった。怒られると思ったら怖かった。でもこのままだと何も変わらない。
「……ヴィヴィ。よう……やく、終わったよ」
絞り出すように呟かれたその声は酷くしわがれた声だった。
「君を……君に酷いことしたやつらを全部殺したよ。いい気味だと思わないか? 当然のことだ。殺されて当然のことをしたのだから。……君は喜んでくれるかな。それともこんなことをした俺を怒るかな。……君の事だ。あんな奴らが死んだとしても君は悲しむだろう。俺を叱るだろう。なあ、どうなんだ?」
ロランは楽しそうに問いかけた。オリヴィアにいつもの様に。だが、静かに眠っている彼女は何も返せない。何も返さない。
無理だった。
ロランが崩れ落ちるように倒れ、子供のように泣き喚いた。
何も変わらない。何も変えられない。
ロランはずっと止まっている。オリヴィアが死んだあの時から、全く動くことなくロランの時間は止まっていた。
それでも死んだオリヴィアのためだけに止まっても生き残り続けていた。
それも、もう終わる。
「なにかいえよ! なにかいってくれよ! 言葉にしなきゃ伝わらないんじゃないのかよ!? いつもヴィヴィが言っていたことだろ……お願いだから、何か言ってくれ……俺を一人にしないで。俺の側にいて……くれよ……。ただ、君の笑顔を見れれば……俺はよかったんだ……」
それは決して叶わぬ、届かぬ願いだった。
翌日。オリヴィアの墓の前でロランが死んでいるのが帝国の司令官によって確認された。
彼の死を多くの人が嘆き、悲しんだ。
死後、聖教は一人の女性を一途に想い続けた彼の尊い愛を評価し、聖人へと列聖した。一途に思い続けた聖女オリヴィア・コルデーと共に聖人ロラン・アストルフォ・ルノーは、聖教の教徒を中心とした人々の心に深く刻まれた。
彼の死から千年たった現代においても二人の名は世界中に広く知られている。二人の波乱の生涯はオペラや映画になったことにより、一般市民に悲恋の物語として伝わった。
今も彼等は故郷の村に二人並んで静かに眠っている。
『なら、かわりに俺が約束する』
『何を?』
『ヴィヴィが危険にさらされないようにするのさ』
『えっと私の事を守るってこと?』
『そう。だから、俺はここに約束する。どんなことがあっても、どこにいても絶対にヴィヴィを守る』
『どこにいてもって、私を常に助けに来るの?』
『ああ、そうすれば問題ないだろ? 俺と君の二人の約束だ』
『ふふ。ならお願いするね。私の騎士様』
『ああ、俺は絶対に守るから。ヴィヴィは安心していいからな!』
『うん。信じてるよ、ロロ』