プロローグ
水晶を彷彿させるような、透き通った、けれども優しい歌声で俺は目覚めた。
この歌の出どころはどこだろうか。俺の両親は、こんな癒し効果抜群の曲を聴くような奴らじゃない。ということは、テレビやオーディオプレイヤーが音源というわけではなさそうだ。
それにしても、なんて綺麗な声なんだろう。高いが、決して尖っていない柔らかな女の声。曲も聞いたことないはずなのに、どこか懐かしい。
美しい歌声にしばし聞き惚れていたが、そんな呑気なことしていられる状態ではないことに気づいた。
ここは、一体どこだ。
木目調の天井。床もフローリングで、質素ながら高価そうな絨毯が敷かれている。
開け放しの窓から入ってきた爽風が、白いレースカーテンを揺らし、花の香りを部屋に運んだ。
こじゃれた円卓。備え付けの椅子には、繊細な刺繍の施されたクッションがある。
さほど広くはない。けれど暖かみのある、心安らぐ部屋だ。
俺の部屋……俺の家じゃない。
俺が寝ていたのは、四畳半の汚い部屋だ。ヤニで黄色く変色した壁とカーテン、タバコと酒の臭いが染み付いた、掃除もろくにされていないゴミの吹き溜まり。
取り立てて自室に戻りたいわけじゃないが、ここがどこなのかだけでも確認しとかないと。
立ち上がろうとしたそのとき、不意に身体のバランスを崩し、俺は毛布の上に手をついた。
──え?
驚愕の余り、声を失った。手が異様に小さくなっている。卓球のピンポン球すら握れないんじゃないかというほどに。よくよく見てみれば手だけじゃない。足も小さし、腕も短い。ち、縮んだっていうのか!? 寝てる間に薬を飲まされたとかか。それで身体が縮んだって、どこの名探偵だ。
それから何度か立ち上がろうとするも、全身に力が全く入らない。なんか、骨が柔らかい……?
くそ、一体どういう状況なんだ。この家の人は留守か? 誰かいないのか?
「おぎゃあ、おぎゃあぁぁっ」
え、え、え……。今の声……というか泣き声は、俺の声か? 俺は今、誰かいないかと叫んだつもりだったんだが。
ええい、もう一度。
「おぎゃあ! おぎゃああ!」
だめだ。やっぱり赤ん坊の泣き声しか出せない。
俺……赤ん坊になっちまったってのか?
待て待て待て待て。
俺は……二宮未来、少々問題アリと判断されている中学三年生、十五歳。昨日も学校で暴行騒ぎを起こして、教師からみっちり叱られた。午後の授業はふけたが、家に帰るのが嫌でゲーセンやらネットカフェで時間を潰して、二十二時に帰宅。
その後……寝た、んだっけ? 記憶が曖昧になっている。
それでとにかく、目覚めたら見知らぬ部屋にいるどころか、赤ん坊に逆戻り。
どーなってんだ、おい!
「おぎゃあああぁぁぁぁぁ」
「エデル、エデル」
身体が突然軽くなった。花の香りがぐんと強くなり、全身が暖かさに包まれ、誰かの腕に抱かれたのだと知る。
俺の視界いっぱいに広がったのは、少女の顔だった。
真珠のような肌に、これまた白に近い金髪はセミロングの長さ。慈愛に満ちた淡いミントグリーンの瞳で俺を見つめ、口元には微笑を湛えている。
歳は本来の俺とそう変わりなさそうな、全体的に儚い雰囲気の美少女。赤ん坊の俺を横抱きにし、ゆすりながらあやしている。
「エデル、どうしたの? 怖い夢でも見た?」
この声、さっきの歌声と同じだ。この人が歌ってたのか。声も綺麗なら顔も綺麗と来たもんだ。
エデル。それが俺の──赤ん坊の俺の名前らしい。
「大丈夫、お母さんがいるからね。怖いことなんて何もないよ」
母さん? この美少女が、俺の母さん? 同い年っぽいのに、一児の母だって!? 綺麗な顔して、やることやってんだな……。
「ミラ、お腹が空いたんじゃないのかい?」
俺が軽いショックを受けていると、隣の部屋から中年女性が入ってきた。かなりふくよかで、今にも麻のワンピースがはちきれそうだった。これぞ、ザ・おばさんといわんばかりの体型だ。彼女も太い腕に赤ん坊を抱いている。
俺を抱える美少女に向かい、ミラと呼びかけた。
ミラ、か……不思議な響きだな。
「そうかも知れません。──エデル、ご飯にしようね」
赤ん坊のご飯といえば、当然ミルクだよな。つまり、お乳ってやつだ。
ミラの身体に目をやる。
中年女と似たようなワンピースを着ているが、そのプロポーションは月とスッポン。ミラの背はすらりと長く、腰のくびれが女の膨らみを際立たせている。
特に胸。赤ん坊の視界だからでかく見えてるってわけじゃなさそうだ。十五、六歳にして、かなりアダルティな身体つきをしている。
で、俺はこれからこの美少女の乳に吸い付くことになるんだよな。
べ、別にやらしいことするわけじゃないぞ。俺、赤ん坊なんだからな。でも、それは肉体の話であって、精神は十五歳の男だ。目の前の美少女を母親だなんて認識できるわけない。
しかも当然、まだ童貞だったわけで。
心臓の音がどんどん高くなっていく。いよいよ授乳のときだ。
と思ったら、何故か中年女が抱えていた赤ん坊と取り替えられた。
「いつもすみません、ルシータさん……」
「はは、かまいやしないよ! あんたはお乳が出ないんだから、仕方ないだろう。一人も二人も変わらないからねぇ、気にしなくていいんだよ! さ、エデル、ご飯だよ」
中年女──ルシータはおもむろに乳を出した。視界を埋め尽くすほどのド迫力だ。ミラよりでかいが、色気なんか全くない。
流石にこれに吸い付くのは抵抗がある。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
「わかったわかった、ほら、たんとお飲み」
違う。いや、腹は減ってるが、おばさんの乳は嫌だ。
なんとか乳の圧力から逃れようとするが、所詮は赤ん坊。力で抵抗したって敵うはずがない。
ルシータの迫力満点の乳が迫ってくる。
「おぎゃ、おぎゃ」
嫌だっていってんだろ!
「うぶっ」
赤ん坊の言葉なんて届くわけもなく、俺の口はルシータの乳とドッキングした。うえぇ、気色悪い……。だが腹を満たすには乳を飲まなきゃならない。
ちらっとミラの方に目を向けた。彼女はルシータの赤ん坊をあやしている。産後、乳が出ないなんてことがあるんだなぁ。
母乳って甘いんだな。でも、どうせもらうなら美人からの方がよかったよ。ルシータには申し訳ないが、ぽっちゃり通り過ぎたおばさんからの授乳って、拷問に等しいぞ。
……拷問で思い出した。
昨日、帰宅した後のこと。
俺は。
両親に殺されたんだ。