散ればこそ いとど桜は めでたけれ 浮き世に何か久しかるべし
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 浮き世に何か久しかるべし
「好きになるとか、愛する…だなんていう気持ちがなければ、不安になる事もないのに」
私が突如そんな事を言うもんだから、タイチが驚いたようにして、読んでいた小説から目を離して私を見た。
「突然どうした?オレ、何か悪いコトした?」
タイチが悪いことをした、といえばオーバーだけれど、私を不安にさせる最大の原因はいつもタイチにある。
「そうじゃないけど…でも…タイチのせいなんだよ」
「意味不明。」
タイチは私の言葉に苦々しく笑った。
「全く我侭な奴だよなぁ。マキコは」
テーブルに読みかけの小説を置いて、タイチの腕が私を引き寄せる。彼の飼っているヨークシャテリアのサトの羨望の眼差しを背中で感じつつ、心の中でピースサイン。温かいタイチの腕の中は、うららかな春の陽気に似ていると思う。私は、このタイチの温かさが、たまらなく、好きだ。
「さっき言ったことだけどね?」
「さっき言ったこと?」
「好きになるとか愛するとかがなければ…ということ」
「ああ。そのこと」
タイチはもうさほど、先程の言葉を気にしていなかったようだった。多分…私が彼に抱きしめて欲しいというサインを送ったとでも解釈されてしまったのだろう。私は一瞬止めようかな思いとどまってみたものの、やはり、話すことにした。
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし っていう和歌を知ってる?」
「…世の中にまったく桜がなかったら、春を過ごす人の心はのんびりと落ち着いていられるのにとかいうあれだろ?知ってるよ。高校の国語で習った気がする」
さすがタイチ。日本文学が好きだというだけある。高校で習った事まで覚えてるとは…一方の私はこの和歌をつい最近読んだ本に書いてあったから知ったのに…私は彼のその記憶力に感心した。
「あの和歌を歌った人は本当に桜は嫌いだったと思う?」
「さ~作者じゃないから、よくわからん…マキコはどう思う?」
「私は、きっとその人は桜が大好きで大好きでたまらなかったんだと思う。だからこそ、咲いては何日もしないで散っていく桜に人一倍寂しさを感じてこんな和歌を作ったんじゃないかなって、思うの。…私もタイチのことがたまらなく好きだけど、いつか来る別れや、もしかしたら…私以外に好きな人がいるんじゃないかって不安になって、好きゆえに好きでいることに苛々することがあるからこの人の気持ちわかる気がする」
いつか、このぬくもりが、タイチが、私の目の前からいなくなってしまったり、他の人のものになってしまったりするなんて、到底考えられないし、考えたくもない。
けれど、別れは必ずやって来る。それは何十年後の話かもしれない。
でも一週間後、もしかしたらあと三時間後に別れてしまうかもしれない。
ずっとずっと一緒にいたい。タイチと二人でいつまでも。散った桜の花びらを見て桜散る前のことを思い出すよりも、見事に花を咲かせている桜を見ているほうが絶対いい。
「マキコさぁ」
タイチは私を抱いていた手を離して、言った。彼が私を手放す瞬間、
目の前にいるにもかかわらず、彼がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという不安に押しつぶされそうになる。
「オレ思いだしたんだけど、この和歌に対する反論の歌があるの知らないでしょ」
知らない、と私は言った。
タイチは「やっぱり」と笑う。
「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 浮世に何か 久しかるべし
という歌があるんだよ。散るからこそ、いっそう桜は素晴らしいのであって、この世の中で何か変わらないでいられるものはないし、
だからこそ移ろいやすいものが懐かしく、そしていとおしく感じられるんだって。オレはマキコの言った和歌よりこっちの和歌のほうが好きなんだな。この作者の言わんとしていること、わかる気がする。」
タイチは何が言いたいのだろう…。
「私と…別れたいの?」
私はそんなつもりはない。しかし、タイチがそうしたいと願うのなら……
「まぁ、聞けって。自分の都合の言いように解釈すんなよ。オレが言いたいのは、何事も終わりがあるから今を大切に生きていけるんじゃないかなと言うこと。
物事には-例えば恋だって-必ず終わりはやってくる。だけど大事なんは終わり方じゃなくて、その過程なはず。多分。
人が死ぬまでに一生を満喫しようとするのはそう言うことだと思うから。
話が大きくなったけど、オレが言いたいのはそう言うこと。決してマキコと別れたいわけじゃない。それは誓ってもいい、マジに違うから…誤解しないで。」
自信に満ちたタイチの瞳に私が映る。私は気まずさからパッと目をそらす。
「そらすなや。」
タイチが言う。
そんなこと言ったって、格好よくタイチに説明された後ではどうしていいかわからない。
激しくうろたえる私に見兼ねたタイチが私の手を握る。
「そんなオロオロする必要ないじゃん。オレはマキコのこと大好きなんだけど?それ以外にあとは何が必要なわけ?もしもまだ何か必要なら教えて。オレ、出来る限り準備するわ。」
「……特にない。」
ずるい。
タイチは私の全てを見通している。彼に愛されているのなら、私にとって他に必要なものなんて何一つないってこと、彼は知っているのだから。
彼はずるい。
「不服そうな顔をしているけど、オレは今幸せだよ?定かではない未来の幸せに努力を投資するくらいなら、今が幸せでありたい。
今、オレが幸せで、マキコも幸せなら、文句の付け所もないじゃん?そうだろ?」
「そう…です。」
完敗です、と私は舌を巻く。どんな口喧嘩も、きっと最終的に私はこの人に負けてしまうのだろう。
「タイチ、ありがと…それから、ふてくされてごめんね。」
「ん。気にしていない」
タイチが言った。
けれど、「ごめんね」とは言ったものの、やはり、私は定かでない未来の幸せを願ってしまう。今も、そしてこれからも二人で一緒に幸せでありたいから。
私とタイチを足して二で割ったらちょうどいいのかもしれないな、とそんなことを考えている自分がおかしかった。
無常の世の中でこの愛だけ変わらずにありますように。
2005年に作成。2013年加筆修正。