五十五話
「さて、次に移る。エレン」
ハレイストは唖然としているラクサレムを無視し、部屋の入り口に向かって呼びかける。すると、待ち構えていたかのように扉が直ぐに開いた。
「失礼致します」
そう言って扉の直ぐ前で頭を下げたのはエレン。その手には数枚の書類があった。エレンはこの書類を届ける為に、何時ハレイストに呼ばれてもいい様に控えていたのだ。
エレンは頭を上げると、ハレイストに向かって歩き出した。その背後からは、幾人もの侍女が続く。皆一様に書類を手に持ち、室内にいる貴族達一人ひとりに手渡していく。エレンはハレイストに書類を渡すと、そのままハレイストの斜め後ろに控えた。他の侍女達は役目を終えると、美しい所作で一礼して会議室を出て行く。
「皆に配ったのはここ幾年かの食料の生産量だ。見て分かるように、年々減っている。特に、今から十五年前は国全体が食料危機に陥る所だった」
ハレイストの言葉に、皆の視線が手元の書類に落ちる。その書類には『食物収穫量の推移』と題してあった。その下には、穀物、野菜の収穫量がそれぞれ年毎に折れ線グラフで示されていた。肉や乳製品などはない。獣がいないのだから当然だ。かつては肉がないと生きていけなかった人々は、海草を食し、魚を食べる事でしのいだ。不思議と、トレニアルは魚達には影響を及ぼさなかったらしい。恐らく、川から海に流れ込んだ時点で酷く薄められたからだろう。
それはさておき、書類のグラフは見るからに下降線だった。特に十五年前は酷い。国民が生活出来る最低限ぎりぎり程の収穫量しかない。
「この年は城に保管してあった乾物で凌いだ。が、もう城にもそれ程食料は残っていない。つまり、次に十五年前のようになれば、食べる物がなくなる」
その言葉に、貴族達が息を呑む。だが、ルクシオンと四人の大臣は特に驚いた様子もなく、視線を書類に落としていた。彼らからすれば、その事実を知らなかった貴族達の方が驚きなのだ。
ハレイストも同意見のようで、貴族達の反応を見て溜め息を吐いた。
「理由は単純明快だが、分かるか?」
ハレイストは驚いた反応を示した貴族達に問う。しかし、その問いに答えるものはいなかった。その事に、ハレイストは更に溜め息を吐く。その隣で、ルクシオンも眉を顰めていた。貴族は何時の間にこれ程周りが見えなくなったのだろうか。金に溺れ、女に溺れ、権力に溺れ、欲望に塗れ、不都合な事実から目を逸らし、捻じ曲げ、民を省みなくなった。
ハレイストは手元の書類を捲り、次の資料を見る。それに釣られて、貴族達も同様に書類を捲った。そこには貴族達の家名が並び、その下にも折れ線グラフがある。それは数枚に及び、全ての貴族の領地毎にあるらしかった。
「そのグラフは各領地の農家にいる男性の推移だ。見て分かるように、こちらも年々減っている。徴兵を繰り返しているから当然だが」
こちらのグラフも、先程のものと同じように下降の一途を辿っていた。そして、皆が気付いた事がもう一つ。いや、理解した事が一つ。
「先程のグラフと酷似しているだろう?」
ハレイストの言葉に、貴族達は気まずげな空気を流す。確かに、先程のグラフとこのグラフは酷似していた。
「当然だ。食物を作るのは農家だからな。そして、畑仕事は女子供には辛いものがある。だが、男では国が徴兵した為にいない。自然、畑仕事の規模は小さくなる。つまり、食料の生産が減ると言う事だ。
流石に、このまま行けばどうなるか分かるだろう?」
その問いに、コフィーとラクサレムに追従した貴族は俯いた。やっと状況が理解できたのだろう。自分の身が置かれている状況ではなく、国が置かれている状況が。コフィーでさえも、唇を噛み締めて俯いてた。
が、未だに理解できない馬鹿が一人。
「なら、民を減らせば良いだろうが!そうすれば我々の食料は確保出来る!」
叫んだラクサレムに、ハレイストの額に青筋が浮かぶ。それはルクシオンも四人の大臣も同様で、エレンも、室内に散らばっている騎士も同様だった。
ハレイストが声を発しようと口を開いたと直後、ラクサレムが倒れた。
突然の事に、誰もが呆然とする。
そして、その静寂に扉が開く音が響いた。
「全く、いい加減黙れないんですか?そこの馬鹿は」
眉間に皺を寄せ、冷たい目で倒れたラクサレムを見下ろしながら入ってきたのは、宵闇の瞳に青みがかった黒髪の青年、トーレインだった。
「馬鹿だから、しょうがないんじゃない?」
そう言ってトーレインの隣で笑ったのは、黒髪に黒い瞳の少女、ハレイストの影であるラミア。
「ラミアちゃん、そう言う事は心の中で思うだけにしましょうね?」
笑うラミアを嗜めるのは紫の瞳に金髪の女性。トーレインの妻であるリリアーヌ・ヴィルヘルム伯爵令嬢だ。
賑やかな三人を見て、ハレイストは溜め息を吐いた。大半の者は状況に付いていけていない。
「で、吹き矢を放ったのは誰だ?」
ハレイストが指差す先、床に倒れたラクサレムの首筋には細い針が刺さっていた。
「えへ」
ラミアが笑い、壁際に控えている騎士の内の二人が顔を背けた。ラクサレムの首筋には計三本の針が刺さっていた。




