四十二話
人間を憎んだ。その言葉に、ハレイストは驚いた。今のルティーナを見ると、人間に対する憎悪など一切感じないのだ。
だが、獣達が人間を憎むのは当然だろう。人間は獣達に対してそれ相応の事をしてきたのだから。
寧ろ、今のように好意的に受け入れられる方が驚きなのだ。ステリアンと言う前例がいたとしても、彼の側近によって裏切られたのだから。
「ですが」
そんな事を考えているハレイストの耳に、力強い声が届く。
自然と下がってしまっていた視線を上げると、ルティーナは微笑んでいた。
「今は感謝しています」
「感謝、ですか?」
ルティーナの言葉に、ハレイストは首を傾げる。
「えぇ」
ルティーナは小さく頷く。その深い青の瞳は穏やかな色を湛えていた。
「もし、あの人が殺されなければ、私は外を知る事は無かったでしょう。清らかな川も、広大な海も、美しい空も、綺麗な森も」
ルティーナがゆっくりと紡ぎだす言葉に、ハレイストも、獣達も、静かに耳を傾けている。
「そして、大切な仲間に会う事も無かったでしょう。皆にも、ステリアンにも、ハレイスト、貴方にも」
ルティーナは周囲を見回し、最後にハレイストをその瞳に映す。ハレイストは、深い青の瞳に映る自分の姿を見ていた。ステリアンと似ている、と言われた自分の姿を。
「とはいえ、こう思えるようになったのはステリアンのお陰です」
ルティーナが恥ずかしそうに笑う。
「『人間に復讐して貴女はどうするんですか?過去の為に、今大切なものを犠牲にしますか?今より、過去の方が価値がありますか?過去は変えられず、未来は変えられるのに?』
ステリアンは、私にこう言いました」
ルティーナは瞳を閉じ、その時の光景を思い出す。
自分の前に一人で立ち、自分が脅しているにも関わらず、周りを獣に囲まれているにも関わらず、恐れる事無く真っ直ぐ射抜いてきた瞳。咎めるような、それでいて諭すような優しい声。
「その言葉のお陰で、私は周りが見えるようになりました。
その言葉のお陰で、過去に執着する事を止めうる事が出来ました。
その言葉のお陰で、周りの大切な存在に気付く事が出来ました」
ルティーナは瞳を開け、ステリアンにそっくりな人の子を見る。姿形だけでなく、心も酷似している人の子。ステリアンが獣の心を変えたなら、人の心を変えるのはハレイストだろうか。
「人がいなければ、我等は虐げられる事はなかった。
人がいたからこそ、大切なものに気付く事が出来た。
だから、憎んではいません。感謝しています」
人の心を変える事は難しい。昔からの観念に囚われ、前に進む事が出来ない。いや、進もうとしないだけかもしれない。
進めるのは、強い者だけだ。腕っ節の強さではなく、心が強い者だけ。周囲の批判などに負けず、己の意志を貫ける者。そういう者が、先駆者となり、時代を変えるのだ。
そして、人は時に自分をも騙す。
間違っていると分かっていも、どうしようもなくて、認めたくなくて、事実を捻じ曲げ、自分の心を捻じ曲げる。本当の思いを心の奥底に閉じ込めて、隠して、虚勢をはる。
閉じ込めた思いは、何時しか本人でさえも忘れていく。
人間だって分かっているはずなのだ。
この争いは無意味で、間違っていて、何も生み出さない事を。どちらかが滅びる前に、世界が終わる事も。
愚かで、無知で、嘘つきで、弱い人間。それ故に、素直で、純粋で、優しくて、強い人間。
人の心は脆く、儚く、繊細だ。その扱いは難しい。
それでも、ハレイストならば出来る。ルティーナはそう思っている。
「貴方なら、変えられるでしょ。そんな気がします」
この人の子の言葉は、不思議と心に響くから。その思いを、真っ直ぐに、必死に伝えてくるから。その言葉が、心を揺り動かす。
「時間が掛かっても構いません。頑張って下さい」
ルティーナはハレイストを励ますように言う。
「はい。ご期待に沿えるよう、努力します」
その言葉に、ハレイストは力強く頷いた。
そして、周りにいる獣達を見回した。その瞳に、焼き付けるように。
最後にルティーナを見上げる。
「また会える日を楽しみにしていて下さい。その時は、きっと、争いが終わる時ですから」
「楽しみにしています」
ハレイストは一礼すると、肩にスカラを乗せ、ルティーナ達に背を向けた。その背を、獣達は見えなくなるまで、ずっと見ていた。
十歳の少年の肩に乗る、大きな期待と明るい未来を思い描きながら。
今回は少し短めです。
追憶の章は次で終わりになる予定でいます。
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これからも頑張ります。