第三話
人並みに飲まれるようして街を歩くローブの青年。零れ落ちてしまった髪は見えないように隠した。見られると色々面倒なのだ、特に、兵士には。
「次は居酒屋でも行こうかな? ついでにお昼食べれば良いや、トディスには悪いけど」
そう言って苦笑しながら歩く青年のローブの下から覗く瞳は薄墨色。青年の名はハレイスト・フィス・ノエル・マルディーン。正真正銘のブルクリード王国第二王子である。特技は脱走。趣味は昼寝。と、トーレインをからかう事。何時も倍返しにされているが。
その光景を思い出し、ハレイストは一人苦笑する。自分を決して主と認めない青年。幼い頃から一緒に育った。自分が不甲斐無いばかりに捻くれてしまった青年。何時も迷惑を掛けてばかりだ。
「でも、公務の事って良く分からないんだよね」
居酒屋に足を向けながら顎に手を当てて呟くハレイスト。滑らかな白い肌は、世の女性が羨む程透き通っている。指通りの良さそうな深緋色の髪は腰辺りまで伸ばされ、高い鼻は綺麗に筋が通っている。しなやかな体付きは丁度大人に変わっていく途中。中世的な容姿は、ハレイストを蔑む人々の格好の的だった。その容姿も、最近は男らしくなっている。それでも、ハレイストが蔑みの視線から解放される事は無い。他にも王子としての欠点が幾つもあるからだ。
「…王子じゃなければ良かったのに」
そう言って、何度トディスを怒らせたか。それを聞いていた貴族達が嘲笑った。ハレイストは王子としては足りないものが沢山あるが、一般人として生きるには支障が無い。
「ハルト!」
ハレイストの思考を遮ったのは、一人の青年の声だった。ハレイストが前を見ると、一人の男が走って来た。薄い金の髪に氷色瞳の青年が笑顔で駆け寄って来る。
「ギルじゃないか。どうしたんだ? そんなに慌てて」
ハレイストが不思議そうに首を傾げる。走って来たギルと言う青年と並んで歩く。長身のギルとローブで顔を隠したハレイストが並んで歩くととても目立つ。しかし、二人は慣れているのか全く意に介していない。
「どうした、は無いだろ。お前が最近全然姿を見せないからだろ? 話すことが山ほどあるってのにさ」
ギルが憮然として言う。ハレイストを睨み付ける視線には非難が含まれていたが、何処か暖かみを帯びていた。ハレイストより五つ年上の彼はここら辺では有名人だ。
「じゃあ居酒屋で聞くよ。まだお昼を食べてないんだ」
ハレイストが苦笑しながらお腹を押さえる。彼のお腹は先程から空腹を訴えている。そろそろ限界かもしれない。朝は公務のせいで食べられなかったのだ。その公務も途中で放棄して来たが。
「そうか。その方がゆっくり話せそうだな。んじゃ、早く行くぞ。こう見えても俺は忙しいんだ」
「年下を苛める時間はあるのに?」
「お前が悪いんだろ」
恨めしそうにギルを睨むハレイストに彼は飄々と言い放つ。その指摘は最もなので、ハレイストは言い返せない。しかも、彼には大きな借りがある。
ハレイストは大きく溜め息を吐くと、足を速めた。取り敢えずこの空腹をどうにかしないと、そう考えたのだ。腹が減っては戦は出来ぬ。これから挑むのは戦ではなく腹の探り合いだが、ハレイストはそういう駆け引きが苦手だった。これも、王子として無能と言われる原因だ。
そんな二人の姿は、直ぐに人並みに飲まれて消えた。二人を見失った一人の男は舌打ちをすると、雇い主の元へ戻った。
男が入ったのは一際大きな屋敷。シェルバート子爵の屋敷だ。男はここの主にハレイストの尾行を頼まれたのだ。探るのはハレイストが城下でしている事。可能ならば、ハレイストの弱みを握る事。しかし、ハレイストはただ遊んでいるだけで、弱味となりそうな事柄は無かった。その報告を聞いた子爵は満足そうに笑った。
「そうか。御苦労だったな、廊下に執事が居る。そいつから報酬を受け取れ。この事は他言するなよ」
その言葉に雇われた男は頷くと、部屋を出て行った。
「無能な王子は要らないんですよ、第二王子殿」
子爵は一人呟き、下卑た笑いを浮かべた。屋根裏から見られている事にも気付かずに。屋根裏に居た人物は、音も無く消えた。後に残ったのは、不気味な笑いを浮かべる一人の男だけだった。
ハレイストが城に戻ると、トディスが憤怒の形相で走って来た。それを見たハレイストは笑顔でトディスに手を振った。
「殿下! また抜け出しましたな! この老いぼれの心臓を止めるおつもりですか!」
「落ち着いてよトディス。僕が抜け出すのは何時もの事だろう?」
顔を真っ赤にして叫ぶトディスにハレイストは苦笑しながら言う。その手には脱いだばかりのローブが握られている。
「最近は大人しかったから油断しました。お部屋に戻ったら机に山積みになっている書類を片付けて頂きます」
トディスの後ろから書類を片手に持ったトーレインが現れる。その瞳はハレイストを冷たく射抜いている。その視線に動じる事無く、ハレイストが頷く。嫌そうな顔をしながら。
「第二王子殿は良いご身分ですな。我等が一生懸命働いているのに遊びに出掛けられるとは」
ハレイストの隣を通り過ぎた一人の壮年の貴族が言う。その声音は、はっきりとした侮蔑が滲んでいた。それを聞いたトディスが男に噛み付く。
「無礼ですぞ、コフィー男爵! 臣下の身でありながら!」
激昂するトディスの言葉を、コフィー男爵は鼻で笑い飛ばした。次いで、トディスの後ろに立つハレイストに視線を移す。その視線を受けて、ハレイストは微笑んだ。その笑みにコフィー男爵の顔が引き攣る。
「そこのへらへらしている方が主として相応しいならば、それなりの対応を致しましょう」
言外に、お前は主として相応しくないと吐き捨てるコフィー男爵。口開こうとしたトディスをハレイストが止めるのを見て、嘲りの笑みを浮かべると、男爵は去って行った。ハレイストは静かにそれを見送る。
「殿下! 何故言い返さないのですか!」
トディスが振り返って叫ぶ。
「事実だからね。それより、早く部屋に戻ろうか。じゃないとまた徹夜だよ」
ハレイストは苦笑すると、自分の執務室に向かって歩き始めた。トディスはまだ何か言いたそうだったが、何を言っても無駄だと判断したのか、口を噤んだ。
歩き出したハレイストの後ろにトーレインとトディスが続く。
その夜、ハレイストの執務室の明かり明け方近くまで消える事は無かった。