不可抗力
毎日のように忘れ物をしてしまっている。
小テストの採点ミスも重なっており、一旦預かって修正することになった。
今回はプリントの誤字脱字があって生徒から指摘を受けた。
ここ1か月、とにかく頭が働かない。
何かに燃え尽きてしまったかのようだ。
きっと顔にも出ている。
まさか仕事に支障をきたしてしまうなんて。
しっかりしなきゃってわかっているのに。
帰宅すると、市川くんにLINEのやりとりを要求されるのが日課になっている。
琥珀がLINEを控えると言ったことも、家に行かないといったことも、市川くんは知っている。
琥珀とLINEをしているはずがなく、同じスクリーンショットを送り続ける。
「もしかしてだけど、消してないよね?」
「本人に聞いたら?」
「イライラしてんの?(笑)」
琥珀と連絡をしなくなって1カ月経った。
琥珀とのLINEはできなくなったのに、市川くんとは琥珀のことでLINEしている。
子どもの、しかも生徒相手に弱みを握られたかのような、大切なものを奪われたような状況に
私はすっかり衰弱していた。
提案したのは自分なのに。
あまり眠れないまま朝を迎え、鉛のような体を何とか起こして出勤した。
1時間目は宿泊研修のオリエンテーションだ。
しおりを出すのにファイルを探していると、教卓からファイルが滑り落ちてしまった。
ため息をついて拾っていると、一人手伝ってくれた生徒がいた。
琥珀だ。
「秋月くん・・・ありがとう」
琥珀が拾ってくれた書類の中に、退職届が紛れ込んでいた。
琥珀がじっと見ている。
今すぐ退職したいわけではないのだが、ここ数日は退職届を持ち歩いていた。
いつでも出せると自己暗示をかけることで無理やりエンジンをかけるためだ。
「あー・・・ごめん。忘れて」
琥珀は退職届を含めた書類を手渡すと、黙って席に戻った。
当たり前じゃないか。自信過剰なのもいいところだ。
何か言ってもらえると思ってしまうなんて、都合が良すぎる。
気を取り直して、オリエンテーションを始めなきゃ。
「遅くなってごめんね。宿泊研修の・・・」
あれ。頭がぐわんと揺れる。
思わず教壇に強く手をついてしまったせいで、生徒たちがこっちを見ている。
「ごめん・・・しおりを・・・」
めちゃくちゃ気持ち悪い。めまいがする。
どうしよう、一回座ろう。
視界が歪み、座れずに体が傾いたところを琥珀が支えてくれた。
その代わりのように、琥珀の椅子が後ろに倒れた。
「ごめん・・・一回座る」
「頭を高くして横になったほうがいいです」
琥珀が私を軽々と持ち上げた。
教室がざわつく。
誰かが指笛を鳴らした。何人かの女子が沸いている。
「や、だいじょぶだから・・・ごめ・・・」
「貧血か低血圧だと思います」
琥珀が教室を出ると、歓声みたいな声が聞こえてくる。
まずい、市村くんに何か言われるだろうか。
いや、不可抗力だ、これは。
保健室は誰もいなかった。
養護教員は授業に出ているようだ。
「痩せましたね」
「・・・そんなこと何でわかるの?」
「酔っぱらって寝た人を何回運んだと思ってるんですか」
琥珀がいる。
毎日顔を合わせているはずだけど、久しぶりな気がする。
いや、会話すること自体は久しぶりだ。
「・・・助けてくれなくてもよかったのに」
「まあ・・・たまたま前にいたんで」
「ありがとう。もう大丈夫だから戻って」
「その態度やめてくれますか」
琥珀が冷たい目で私を見る。
「俺そんなに拒否られるようなことした覚えないです」
「うん・・・されてない」
「じゃあなんで拒絶するんですか」
「拒絶してない」
「じゃあ何で辞めようとしてるんですか」
「最近辛くて、持ち歩いてると気持ちが楽なの」
「距離置こうって言ったの誰?」
「・・・私」
ドアの外で話し声がした。
あわてて起き上がる。
でも誰も来なかった。
「なにしてんですか。寝てください」
今、うちのクラスは教師がいない状態だ。下手したら自由に動ける。
市川くんが来たらどうしよう。
「琥珀、早く戻って」
「・・・また突き放すんですね」
琥珀が背を向ける。
「ごめんね、琥珀。もう、どうしたらいいのかわからないの」
「何をそんなに気にしてんのか、俺にはわかんないです」
「ごめん・・・」
「ごめんじゃわかりません」
「・・・ごめん、お互いを守りたいだけなの」
ごめん。ごめんね。琥珀。
「今日、家行っていいですか?」
「・・・」
「どこなら会えますか?」
「家の外の・・・どこか」
「俺んち来てください」
「いち・・・同じ中学の人とか、知らないの?」
「誰にも言ってません」
「でも一緒に帰ったら・・・」
「早退してください。俺ご飯作りますから」
琥珀が鍵を差し出した。
「俺の家のスペアキーです。なくさないでくださいね」
「いや、それは・・・」
「じゃあ先生の家行きますね」
「・・・もらいます・・・」
琥珀がじっと私の目を見る。
顔が近づく。
唇が触れそうな距離に、琥珀がいる。
くらくらする。
琥珀は私の額にデコピンをくらわせた。
「いたっ」
「まずは寝てください。じゃあ、あとでね。先生」
琥珀が保健室を出ていった。
いつも琥珀が私の感情を動かす。
私の鼓動がうるさい。
琥珀が合鍵をくれた。
私しか家を知らないって言った。
キスされるかと思った。
横になりたいところだが落ち着かない。
そうだ。職員室に行かなければ。
「青山先生・・・」
青山先生は私の顔を二度見した。
「早退したいときって誰に言えばいいでしょうか」
「具合悪いんでしょ。ひどい顔色」
「実は、さっき教室で倒れちゃって」
「うわうわ。他の国語の授業は自習で周知しとくから大丈夫だよ」
「ありがとうございます。今抜けてきちゃったんでそれ終わったら帰ります」
「やめなさいって。私今空いてるからフォローしとくよ」
甘えさせてもらうことにして、青山先生に宿泊研修の班決めをすることを伝えた。
「了解。最近、疲れた顔してたもんね」
青山先生が小声で「あとでLINEするね」と言ってくれた。
「・・・ありがとうございます」
青山先生が手を振って、私も手を振った。
私が腑抜けてる間も、こうやって気にかけてくれる人がいる。
気持ちを立て直さないと。
外に出ると、誰かが外に出てきて私を呼び止めた。
振り向くと、市川くんだった。
「どうしたの?」
「ファイル忘れてるよ」
そういえば、あのまま教室にファイルを忘れていた。
「どうも」
「浮かれてるんだね。憧れのお姫様抱っこに」
「ふーん、先生浮かれてんの?」
その言葉に、私より早く市川くんが振り返った。
琥珀がいた。
「琥珀!?びっくりさせんなって」
そう言った市川くんを、琥珀がじっと見る。
「・・・え、何?」
市川くんには少し動揺の色が見える。
「今、湊がいないって話になってるんだけど、空き教室で二人が密会してたって噂が流れてるらしいね。注意したほうがいいよ」
「・・・それで来たの?」
「賢くやらないと自滅するよ。タメ口はやめたほうがいいね」
「いや、俺はこんな・・・先生のこと全く好きじゃないから」
「もう噂話に懲りてるでしょ?気をつけな」
そして私を冷たい目で見た。
「先生もです。こいつ俺の大事な友達なんで、身の振る舞いに気をつけてくださいね」
冷たい目のままふっと目線をそらし、琥珀は戻って行った。
市川くんは琥珀を見送った後、私を見て笑い出した。
さっきまで私に向けていたまなざしとはうってかわっていた。
「疑われてんじゃん!(笑)琥珀に嫌われるのも時間の問題かもね」
市川くんが嬉しそうに言う。
目の前で自分のことかばってもらって嬉しいもんね。
でも舐めてもらっちゃ困る。
「あんたも琥珀に嫌われる前に噂を消さないとね」
「そんなの自分でどうにかしなよ(笑)」
「別に私はあんたとの噂なんてどうでもいいから(笑)現にあんたも琥珀に疑われてるんだから早く誤解解かないと。それとも私の奪い合いしたいの?(笑)」
吹っ飛んだ。
と、同時に左頬に衝撃が走る。
市川くんの拳が当たったせいだ。
口の中が血の味する。
そして、市川くんが私をにらみつけている。
怒りのせいか、息切れしている。
ほら。お前はまだガキなんだよ。
その顔が見たかったとばかりに、私は笑ってみせた。
「どうしたの?冷静になりなよ(笑)停学になりたいなら好きにしていいけど、誰に見られてるか分かんないんだから気をつけたほうがいいんじゃない?琥珀がまだいたらどうなってただろうね」
「俺のこと舐めてるからだろ」
「あっ、琥珀だ」
市川くんが慌てて後ろを振り返った。
もちろん嘘だ。
「舐めた態度取ってんのはお前だろ、クソガキ。琥珀に知られたくないなら早く戻んな。もうお前の顔見たくない」
うんざりして車に向かう。
「逃げてんじゃねーぞ!」
うん、腹立つよね。煽ってるもん。
そういえば、誰かが昔言ってたな。
『人に嫌われないようにしている人は、嫌われ方も知っている』
『人を褒めるのが得意な人は、けなすのも得意だ』
と。
さんざん煽っておいて、キレてるのは私も同じだ。
怒りでアドレナリンが湧き出ているせいで、今は痛みがない。
ただ、頬が繰り返し脈打つような感覚だけが残っている。
それでも、本当は殴り返してやりたかった。
でも殴ったらあいつと同じ土俵に立ってしまう。
これでよかったんだ。
殴られたことは何度もある。それも、自分の親に。
でも、それだけだ。慣れているわけではない。
悔しい。腹が立つ。
だから、殴る人の心理をどうしても理解したくない。
それでも、もしかして自分のクソ親の血をどこかで受け継いでいるのではないかと不安だった。
だから、言葉で仕返しをするのが精いっぱいの自己防衛だ。
今はこれしか自分を守る方法がない。
人間が嫌いになっていく。
私のことなんてほっといてほしいのに。
シャッターがどんどん閉じていく。
夕方になり、着信音で目が覚めた。
うっかりソファーで寝てしまったらしい。
着信は琥珀からだ。
「・・・もしもし」
「今帰ってきた。何でいないの?」
「ん?」
「家で待ってるって言ったのに」
「・・・うん・・・でも自分の家に帰ってきちゃった。体調良くなくて」
「何かあったの?」
「何もないよ。ごめんね」
そのまま電話を切った。
琥珀が家に来ることは絶対にないと断言できる。
この気持ちはなんだろう。
どうして私は行かなかったんだろう。
合鍵もらって、あんなに嬉しかったのに。
どうしてだろう。
琥珀はやっぱり家には来なかった。
でも次の日出勤すると、玄関に琥珀がいた。
「秋月くん。おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「・・・」
そうだよね。昨日来なかったもんね。
また怒られるだろうか。
「これどうしたんですか?」
琥珀が私の左頬をそっと撫でた。
「あー・・・虫歯で」
「・・・虫歯?」
虫歯で歯茎が腫れて、頬も腫れている人を見たことがある。
昨日から考えていた嘘だ。
でも、もしかしたら何も言われないかもしれないなと思った。
琥珀は黙っている。
目も合わない。
「あの、特に用事はないのかな?じゃあ私行くね」
腕をつかまれた。
「えっ、ちょっ、と・・・」
そのまま連れていかれたのは屋上につながるドアの前だ。
「・・・なに・・・?」
いわゆる壁ドンをされた。
琥珀が私の顔の左側の壁に手を置く。
「空き教室で湊に何されたんですか?」
「秋月くん・・・ここ学校だよ」
「告白されたんですか?」
「違う。でも個人情報だから言えない」
どうしたらいいんだろう。
「でも別に、誤解されるようなことは何もないから」
「湊に直接聞きますね」
「やめて。そんなの逆効果だから。てか何も知らないくせに、身の振り方考えろって私のこと睨んだのは秋月くんじゃん。何で理由を知りたいの?」
「・・・俺は」
「市川くんをかばって私にひどい態度とったくせに」
「怒ってるんですか?」
「怒るよ。当たり前じゃん」
思ったより声を張り上げてしまった。
「何が『俺んち来てください』だよ。そんなことされて、わざわざ行くわけないじゃん」
「俺なりに守ったつもりなんですけど」
「なんで?市川くんを?」
「てか先に俺のこと避けてきたのは先生ですよね」
「いや、それは」
「LINEしたいって言ったくせに控えようとしたり、意味わかりません」
「私もどうしたらいいかわかんないって言ったじゃん」
「どうして今まで通りじゃだめなんですか?」
「怖いからだよ。私だって琥珀のこと守ってるつもりだから」
「避けたいなら何で保健室で俺のこと拒まなかったんですか?」
「それは・・・拒めなかったから」
「どうしてですか?」
「・・・わかんない」
琥珀の顔が近づく。
「今は?」
「・・・だめ」
琥珀がそっと髪を触った。
「そうやって俺のこと、あんまり振り回さないでください」
「こっちのセリフ」
「じゃあ、俺のこと避けないでください」
「・・・誤解されたくないだけだから」
「誤解されるようなことはしません」
「じゃあ、太ももに当てちゃだめ」
「これは・・・不可抗力なので」
ぐっ、と強く当ててくる。
くらくらする。
「わかった。わかったから」
「もう避けないでくださいね」
「わかった」
「LINEは?」
「・・・内容によっては」
琥珀がそっと離れた。
「わかればいいんです。じゃあ先に戻っててください」
「何で?一緒に・・・」
うっかり見そうになり、目線をずらした。
「わかった。少し話そう」
「後で戻るから先に行ってていいですよ」
「・・・まだ時間あるし」
とはいえ、何を話せばいいのか。
・・・そうだ。
昨日、青山先生が心配してLINEを送ってくれた。
そのやりとりで、黒板に書かれた班のメンバーの写真を送ってくれたのだった。
何かお返ししなきゃと思って話すと「宿泊研修で夜の自由時間に一緒に飲もう」と言ってくれた。
桐沢先生も連絡をくれたことを話すと、「春高」という三人のグループLINEを作ってくれた。
・・・という浮かれ話は置いといて。
「あのさ。青山先生が宿泊研修のグループの写真を送ってくれたんだけど、市川くんって琥珀と同じ班?名前がなかったんだけどさ」
「あいつは参加しないですよ」
「え、そうなの?」
「中学の時も修学旅行来てないんで」
「・・・なんで?」
「俺は知らないです。別に聞いてないので」
何か事情があるんだろうか。
・・・いや、私には関係ない。
「とりあえず、不参加ってことで把握しとく」
「多分ですけど」
「そっか」
「楽しみですね、宿泊研修」
「へえー、楽しみなんだ」
「何でだと思いますか?」
「・・・私と一緒にいられ」
「初めて温泉に入れるからです」
「温泉ね!私も初めてだわ!」
「先生、なんて言ったんですか?もしかしてうぬぼれて・・・」
「うるさい!!」
琥珀がクスクスと笑った。




