第19章 ― 境界の獣、審判の影 ―
蓮は、
“地面のない場所”に立っていた。
いや――
立っているという感覚すら、正確ではない。
足元には白銀の霧。
空には夜と昼が混ざったような、
割れた鏡のような空間が広がっている。
風はない。
だが、何かが“流れている”。
(……ここが……境界……)
呼吸をすると、
肺の奥に冷たい感覚が広がった。
恐怖ではない。
不安でもない。
ただ――
強烈な違和感。
ここは、人の世界ではない。
その時。
霧の向こうで、
重い鎖の音が鳴った。
――ガ……ギィ……
蓮は息を呑み、
音の方へ歩み出す。
白銀の霧が割れ、
そこに――
巨大な影が、
うずくまるように存在していた。
白銀の体毛。
一本角。
鋭い牙と尾。
だが、その全身には――
無数の“黒い鎖”が巻き付いている。
「……フェンリル……」
声が震えた。
影は、
ゆっくりと顔を上げる。
かつて、
幾度となく蓮を守ったその瞳は――
今、深い苦痛と自責に沈んでいた。
《……蓮……
来タノカ……》
蓮は走り出した。
「来たよ!!
約束しただろ!!
絶対に助けるって!!」
フェンリルは首を振る。
《……来ルナ……
ココハ……
オ前ノ居場所ジャナイ……》
蓮は立ち止まらない。
「関係ない!!
お前が苦しんでる場所なら――
俺の居場所だ!!」
フェンリルの瞳が、
かすかに揺れた。
だが次の瞬間。
空間が、
“割れた”。
まるで硝子が砕けるように、
境界の空が裂け、
黒い階段が現れる。
その上から、
一つの影が降りてくる。
長身。
白と黒の仮面。
背後に広がる、無数の影の翼。
志乃も、玲奈も、
誰もいない。
ここでは、
蓮一人だけが対峙する。
影が告げる。
――我ハ、アバターズ第三位階層。
《審判者》》。
声は、
怒りも感情も含まない。
ただ、
“決定”そのもの。
――器ヨ。
汝ハ、境界ヲ侵シタ。
規定違反ダ。
蓮は歯を食いしばり、
影を睨みつけた。
「フェンリルを返せ。
そいつは……
地球の守護獣だ……!」
審判者は、
首を傾ける。
――守護獣?
否。
白銀ノ獣ハ……
既ニ“揺ラギ”ヲ持ツ。
フェンリルの鎖が、
ギシリと鳴る。
《……蓮……
コイツハ……
俺ノ“罪”ヲ……》
蓮は叫んだ。
「罪だと!?
地球を守ったことが!?
人を守ったことが!?
それが罪だって言うのか!!」
審判者は、
一歩前に出る。
――守護ハ、選別ダ。
感情ヲ持チ、
特定ノ“器”ニ肩入レシタ時点デ……
白銀ハ、純粋性ヲ失ッタ。
蓮の胸に、
怒りが燃え上がる。
「ふざけるな……
フェンリルは……
心があるから守ったんだ……!」
審判者の仮面が、
わずかに軋む。
――故ニ、審判スル。
器・蓮。
汝ガ白銀ヲ解放スル資格ヲ持ツカ……
今、試ス。
次の瞬間。
境界の景色が歪み、
蓮の周囲に“光景”が浮かび上がる。
――災獣に蹂躙される街。
――守れなかった人々の悲鳴。
――自分を恐れるE.O.Dの視線。
――フェンリルが暴走しかけた瞬間。
――選ベ。
白銀ヲ解放スレバ……
汝ハ人トシテ、戻レヌ可能性ガ高イ。
拒メバ……
白銀ハ、完全ニ堕チル。
蓮は震えた。
(これが……
“審判”……)
フェンリルが、
必死に声を絞り出す。
《……蓮……
選ブナ……
俺ハ……
オ前ヲ失イタクナイ……》
蓮は、
静かに涙を流した。
「……俺も……
お前を失いたくない……」
だが――
次の瞬間。
蓮は顔を上げ、
はっきりと告げた。
「だから……
選ばない」
審判者が、
初めて動揺した。
――何……?
蓮は一歩前へ出る。
「俺は人だ。
フェンリルは守護獣だ。
でも……
どっちかを犠牲にする選択なんて……
最初から間違ってる」
胸の奥で、
白銀の火花が強く燃え上がる。
「俺は――
“共に戻る”」
フェンリルの瞳が、
大きく見開かれた。
《……蓮……》
審判者の声が低くなる。
――第三の選択ハ……
規定外ダ。
代償ハ……
想像ヲ超エル。
蓮は、
迷わず頷いた。
「それでもいい」
その瞬間。
蓮の身体から、
白銀の光が噴き上がった。
人の姿のまま、
だが確かに――
“守護獣に並ぶ意思”として。
鎖が、
一本――
また一本と、
軋みながらひび割れていく。
フェンリルが吼えた。
《――アオオオオオォォン!!》
白銀の咆哮が、
境界を震わせる。
審判者は、
一歩退いた。
――……器ハ……
想定ヲ……超エタ。
だが――
影はまだ、消えてはいない。
境界は揺れ、
次なる“代償”が迫っていた。
――第19章・終。




