◆ 第1章 ― 銀狼の兆し ―
夜明け前の空は、まだ深い藍色をまとっていた。
雲は低く垂れ込み、かすかに地響きのような震えが大気を揺らしている。
その静寂を破ったのは、一本の赤い警報灯だった。
E.O.D本部・総合管制室。
大型スクリーンに浮かび上がる“異常震動波形”の反応に、
スタッフたちは次々と端末へ向かって走っていく。
「震源は……浅層。深度一キロ未満。自然地震じゃありません!」
オペレーターの叫びが室内に響く。
指揮卓の前に立つのは、E.O.D司令官・九条玲奈。
端正な顔の奥に緊張と冷徹が宿る。“災獣”の存在を最初に世界へ警告した人物でもあった。
「災獣の兆候――またか……」
玲奈はスクリーンに映るゆらぎを睨みつけた。
地殻がうめくように動き、波形が急上昇する。
「出現予測地点を割り出して!
スカイ・パレットは待機状態に!」
「は、はい!」
そのころ、蓮は基地外周の訓練場で一人、走り込みをしていた。
まだ薄暗い朝の空気を切るように駆け、吐く息が白く伸びる。
訓練を終えると、手首の通信端末が軽い音を鳴らした。
――緊急配備。
「……来たか」
蓮は息を整える間もなく、走り出した。
彼はE.O.Dの中でも野生動物の行動学に詳しい現場隊員で、
災獣との初期交戦および民間避難誘導を主に担当する。
“戦闘部隊”ではない。
だが、彼だけが災獣の発生を「嫌な悪寒」で感じられる――奇妙な体質を持っていた。
基地のゲートが開き、スカイ・パレットの戦闘機が次々と滑走路へ並ぶ。
蓮は車両部隊の装甲車へ乗り込みながら、
遠くの地面がほんのわずかに震えているのを感じた。
「……やな震えだな……今日のは」
呟いた瞬間、地中から“鼓動”のような震えが伝わってきた。
ドン……ドン……ドン……
装甲車のフロントガラスがビリビリと震え、
地平線に黒い岩塊のようなものが突き出した。
「災獣、出現!」
司令部の声が全隊に響く。
大地の裂け目から這い出すように姿を見せたのは、
岩盤と獣を混ぜ合わせたような巨体だった。
高さはビル数階分。
角のように尖った岩片が背中から突き出し、黒い泥のような体表が滴っている。
「……災獣……」
蓮は呟いていた。
姿を見るより前に、その“痛み”のようなものが胸に広がっていた。
「蓮、前へ出すぎるな!
お前は第一誘導班だ、近づくな!」
車内の隊長が怒鳴る。
「分かってます!」
――それでも、胸の奥がざわつく。
(あいつ……泣いてる……?)
頭の中に、何かの断片が流れ込むような違和感。
災獣から“感情”のようなものを感じるという、蓮だけの奇妙な感覚だ。
だがその瞬間。
――彼女が現れた。
黒い災獣の向こう側、砂煙の中から、
白い影がゆっくりと歩み出てくる。
長い白髪。
淡い青の瞳。
白銀の狼を従えた少女。
リエナ。
だが蓮はまだ、その名を知らない。
少女は災獣など存在しないかのような足取りで立ち止まり、
両手を胸の前で軽く組み、目を閉じた。
瞬間、空気が震えた。
風も音も消える。
蓮は思わず息を飲んだ。
「……何だ……?」
少女の周囲に淡い光の粒が浮かび、
ひとつ、またひとつと大地へ沈んでいく。
その光は災獣へ吸い込まれ――
災獣の体表に、苦悶とも怒りともつかぬ振動が生まれた。
「っ……やめろ!」
蓮は叫び、装甲車を飛び出した。
制止の声が背後で響くが、足は止まらなかった。
(あの子……危ない!)
だが少女は、蓮を一瞥もしなかった。
その瞳にはただ――
“地球の痛み”だけが映っていた。
災獣が、咆哮した。
大地が裂け、破片が空を舞う。
衝撃が蓮の体を吹き飛ばし、視界が白く染まった。
耳鳴りの中、蓮は感じた。
――脈動。
自分の心臓ではない、
地中深くから届く、巨大な心臓の鼓動。
ドン……ドン……ドン――
蓮の手が、突如として熱く光った。
掌の中心に、淡い白銀の紋が浮かび上がる。
「な……何だ、これ……!」
《……呼ぶ……?》
頭の奥で声がした。
蓮自身の声でも、少女の声でもない。
もっと深い、もっと原始的な響き。
“地球”そのものの声。
蓮の視界が白く弾け――
体が大地に沈むように重く、しかし軽くなった。
次の瞬間。
大地が、呼応するように光りだした。
裂け目から白銀の粒子が噴き上がり、
狼の影が形を成し――
鋭い一本角が天を突き、白銀の毛が風を巻き起こす。
雄叫びが大気を震わせ、雲を裂いた。
《ビオォオオオオオオオオッ!!》
その姿は――
ビースト・フェンリル。
白銀の巨狼。
地球の意思と蓮の意思が共鳴し生まれた守護獣。
災獣が後退し、砂塵が渦巻く。
少女は静かに目を開け、巨獣を――蓮を見上げた。
「……フェンリル……」
彼女がそう呟いた瞬間。
蓮と地球の意識が混ざり合い、
フェンリルの金色の瞳が災獣を捉えた。
風が鳴り、地面が震え、
新しい“物語”が動き出した。
――第1章・完。




