ゆめゆめお忘れなきよう
「マリーアンヌ! 君との婚約を、」
そこまで言った殿下の唇に指を一本当てて、わたくしはにこりと笑みを浮かべます。
殿下の横にぶら下がっている平民の小娘には視線も向けず、まずは挨拶をいたします。
「ごきげんよう、殿下。本日もいいお天気ですわね」
そうして、唇から手を離してカーテシーをします。この間に、優秀な王家の者たちが、ランチタイムに集まっていた学生たちを食堂の外に追い出しました。
身分社会のしっかりしたこの国で、王家の指示に従わぬ者はいません。
「すぐ済みますから」と言った王家の者たちの言葉を信じて、食事を置いたまま席を立ちます。皆様分の食事を後程新しく提供し直して、昼食の時間を少し伸ばしてもらうように学園長に交渉しなければ、と思って横を見ると、王家がわたくしにつけた侍従が一人、頭を下げて去って行きました。とても優秀で好ましいです。正直言って王子なんてどうでもいいです。この国の統治。それはなんて美しく魅惑的で甘美な言葉なのでしょう。大臣たちと議論を交わし、法案を作り、この国をより良くする。新たな課題を設定して、さらに良くする。なんとやりがいのある仕事なのでしょう。うっとりとそんなことを考えていたら、食堂の異変に気がついたように殿下がキョロキョロと見渡します。
「殿下? わたくしとの婚約は、王命で決められたもの。わかっておりますよね?」
小さく頷いた殿下に、笑みを深めて頷きます。
「……しかし、私は、ここにいる聖女リリエラに恋をしてしまったのだ!」
「恋……?」
せっかく施政者として生まれ落ちたのに、そんなものに惑わされるなんて……殿下に少し失望しながら、わたくしはプランを考え直します。
「でしたら、殿下の愛妾になさればいいではありませんか。わたくしは施政に励みますから、お二人は後継者作りをお願いいたしますね」
髪をぱさりと後ろに振り払いながら、わたくしがそう言うと、殿下は顔を真っ赤にして反論した。
「こ、後継者作りなど! そんなことを言って、恥ずかしくないのか!?」
「あら? 殿下しかできぬ、大切なお仕事でしょう?」
首を傾げ、扇をすすすと殿下の頬に滑らせます。
「それとも、殿下にはできないのですか?」
「で、できる!」
殿下を丸め込んだところで、小娘が声を上げます。
「そ、そもそも! 好きな人と結婚できないなんておかしいのよ! あんた悪役令嬢でしょ!? なんでヒロインの断罪劇を壊しているのよ!」
「あら?」
思わず目を細めて小娘を見つめます。単なる平民の聖女としか見ていなかったけれど、小娘ももしかしたら使えるかもしれない。そう思って、わたくしは、殿下に向けていた扇を小娘には向け直します。
「貴女、なにか使える記憶はあって? 残念ながらわたくし、施政が楽しいという記憶しかありませんの」
「別に、大したことは覚えてないわよ! 水道の仕組みとか、このゲームで起こる天災の流れとか隣国との関係とか」
次々とあがる重要情報に、わたくしは小娘……いえ、ヒロインの頬をそうっと撫で上げます。
「貴女。単なる聖女だと思っていたけれど、とても優秀だわ」
うっとりとしたわたくしの表情に、顔を赤く染めたヒロインを見て、焦ったように殿下が声を上げます。
「に、逃げるんだ、リリエラ!」
「……へ?」
ヒロインが惚けた表情で殿下を振り返りますが、もう遅いです。わたくしは、ヒロインを囲い込むことを決定したので、いつの間にか戻ってきていた侍従に視線を送り、ヒロインを王宮にご招待するように目だけで指示をします。
「そうそう、殿下。この小娘、聖女と言ってもちっぽけな魔力ですわね。……この国の礎となる結界の魔力が尽きてきているのはご存知かしら? そんなちっぽけな魔力でこの国を守れるとお思い?」
「それは、その……」
陛下たちが苦労している様子を思い浮かべて、殿下は顔を曇らせました。
わたくしは、手の上に魔力の塊を生み出して、殿下ににこりと微笑んで問いかけます。
「殿下とわたくしの婚約は、王家がわたくしのこの膨大な魔力を求めてのものですこと、ゆめゆめお忘れなきよう」
悪役令嬢から闇落ちしてラスボスになる、このわたくしが幼い頃から鍛えた魔力量に、単なる聖女程度の小娘が勝てるとお思いかしら?