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第三夜 光り輝く未来

わたしが出ていったと知って、お父さんや由美さんからは恐ろしいくらいに着信とメッセージが送られてきた。



きっと、わたしの身を心配する連絡ではない。


明日からの家事をどうするのだという怒りのメッセージだろう。



ずっとスマホが震えっぱなしだったから、わたしはそれらすべてを拒否設定にした。




それから数日後。


わたしはネットカフェに泊まりながら、新たな職を探していた。



少しなら貯金はある。


だけど、この子を生み育てていくとなると全然足りない。



幸い、わたしの学歴でも雇ってもらえそうなところはいくつかあった。


しかし、妊娠していて満足に働くことができないというハンデで、なかなか仕事は見つからなかった。




――富士川家を出て10日後。


今日は、初診で予約していた産婦人科に通う日。



しかし、1週間ほど前からつわりがひどく、食べることができずに吐いてばかりだった。


日によっては、ずっと船酔い気分のままのときもある。



最悪なことに、それが今日だった。



でも、産婦人科の予約は10時半。


なんとしても…行かなくちゃ。



わたしは、よたよたとおぼつかない足取りでネットカフェから出る。



歩いて15分ほどの距離。


たったそれだけなのに、めまいがするわたしにははてしなく遠い道のりに感じた。



行き交う人々が波のように見えて、人酔いしそうになる。



と思ったそのとき、突然目の前が真っ白になった。


…あれ?と思ったときには、全身の力が抜けて――。



気づいたら、わたしはだれかの腕の中にいた。



「…大丈夫か!?」



この声は……。



わたしがゆっくりと目を開けると――。



「こんなところでどうした…!?」



それは、心配そうにわたしの顔をのぞき込む名取くんだった。


わたしは、名取くんに抱き起こされるような体勢で歩道に倒れていた。



「名取くん…、どうして…」


「ちょうどそばを車で通ったときに、倒れそうになってる澪を見かけたんだ」


「…そ、そっか。でも、わたしなら大丈――」



そう言いかけて、わたしは意識を失った。




* * *




眠りから目覚めると、見えたのは白い天井。


違和感がして目を向けると、腕には点滴の針が刺さっていた。



ここは…、病院……?



まだぼんやりとはしているけれど、道で倒れたことを思い出した。



「…気がついたか?」



そんな声が聞こえて、わたしの視界に名取くんの顔が映る。



「名取くん…」



わたしが弱々しくも声をもらすと、名取くんは安堵したように頬をゆるませた。



「…名取くん、ずっとここにいてくれてたの?」


「当たり前だろ…。澪の意識がないっていうのに、仕事なんて手につかないよ」



名取くんは、どうやらあのあと車でわたしを近くの病院まで連れていってくれたらしい。



「でも、…ごめん。会社には、澪が目を覚ましたら戻るとは伝えてあるから、そろそろ行かないと…」


「ううん、謝らないでっ…。わたしのほうこそ、迷惑かけちゃって…ごめんね」


「いいんだよ、そんなこと。…これ、俺の名刺。体調が心配だから、落ち着いたらここの連絡先にメッセージ送って」



そう言って、名取くんは名刺を床頭台に置いた。



「…澪、働きすぎじゃないのか?少し休みをもらったらどうだ?」


「そう…だね。お父さんに話してみるよ」



わたしは心配かけさせまいと、無理に笑ってみせる。



名取くんはもちろん知らない。


わたしが富士川家を逃げ出したことは。



「くれぐれも無理しないように…!仕事が片付いたら、またくるからっ」


「ありがとう。でも、ただの疲労だろうからわざわざいいよ。それよりも、名取くんは早く会社に戻って」


「…ああ。じゃあ、澪…」


「うん」



わたしは、名取くんに微笑みながら手を振った。



今回は偶然名取くんに助けてもらったけど、本来ならもう名取くんにも会わないつもりでいた。


わたしが名取くんの子どもを妊娠しているとなったら、名取グループに迷惑がかかるかもしれないから。



だから、名取くんと会うのは本当にこれが最後。



名取くんが病室のドアを開けると、ちょうど看護師さんを連れた病院の先生がやってきた。



名取くんは軽く会釈すると病室から出ていった。



代わりに、先生が入ってくる。



「小坂さん、体調いかがですか?」


「…はい。今はだいぶ楽です」


「それはよかったです。検査の結果、突然倒れられたのは妊娠による貧血が原因ですね」


「そうですか…」



…薄々そんな気はしていたけど。



そのとき突然、閉まったばかりの病室のドアが開け放たれた。


驚いて目を向けると、そこに立っていたのは…なんと帰ったはずの名取くんだった。



「…澪。今の話…、本当?」


「名取…くん」



わたしは思わず口ごもる。



「…ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど、病室のドアが閉まる直前でそんな話が聞こえたから…」



…どうしよう。


名取くんに聞かれてしまった…。



「失礼ですが、…あなたは?」



名取くんに視線を向ける先生。


すると、名取くんはわたしのそばへとやってくる。



「僕は、彼女のパートナーです。彼女が妊娠しているというのなら、それは僕の子です」



名取くん、急になにを…!



「そうですか。でしたら、彼女の体調にもう少し気をつかってあげてください。きっと、体力的にも精神的にもつらかったと思いますよ」


「違うんです…先生!これはわたし1人の問題で、彼はなにも悪くは――」


「すみませんでした。彼女がこんなことになったのは、すべて僕の責任です」



どうして名取くん…、そうまでして――。



そのあと、名取くんも含めてわたしの体調についての説明があった。



わたしはつわりにより脱水症にもなりかけていたので、数日入院することとなった。



「お腹の赤ちゃんは元気ですので安心してください。今は、ご自身の体を大切に」


「…はい、ありがとうございます」


「ありがとうございます」



わたしと名取くんは、病室から出ていく先生に頭を下げた。


ドアが閉まり、名取くんが腰を下ろす。



「…名取くん、会社は――」


「今日はもう休むことにした。仕事なんかよりも、こっちのほうが重要に決まってるだろ」



そう言って、名取くんはわたしのお腹に視線を移す。



「…澪。こんな大事なこと…、どうして言ってくれなかったんだ」


「それは…」


「澪のことだ。また俺に迷惑がかかるとでも思って、このまま隠しておくつもりだったんじゃないのか?」



悔しいけど、名取くんにはすべてお見通しだった。



「迷惑だなんて思うものか。驚きはしたけど、むしろ今はうれしく思ってる。ここに…、俺と澪の子がいるんだから」



名取くんは、やさしくわたしのお腹に手をあてる。



名取くんの手、…温かい。


名取くんがわたしとこの子をやさしく包んでくれているようで、うれしくて涙があふれた。



「ありがとう…、名取くん」



名取くんが、この子の存在を喜んでくれている。


幸せ者だね、キミは。



「…でも、ダメなの」



わたしはそうつぶやくと、名取くんの手をそっとはらった。



「名取くんの言葉は…とってもうれしい。だけど、認知してもらおうとは考えてない。この子は、わたし1人で育てるって決めたから」


「…どうして。だってその子は――」



そのとき、病室のドアが勢いよく開いた。


目を向けると、そこにいたのはお父さんと由美さんと愛理さんだった。



「お…、お父さんっ…」


「澪!勝手にいなくなったと思ったら、突然病院から連絡がきて…。驚いただろう!」


「…ごめんなさい」



わたしは小声をもらしてうつむく。



…お父さんに居場所を知られてしまった。



お父さんは、血相を変えてズカズカと病室に入ってきたけど、名取くんの存在に気づいて瞬時に表情を変える。



「どうして、結弦くんが…ここに!?」


「そ、それは…!たまたま通りかかられたときに、わたしを助けてくださったんですっ…。それだけです…」



わたしの話を聞いて、名取くんにペコペコと頭を下げて謝るお父さん。



「結弦さん、あたしからもお礼申し上げますわ。澪さんったら、いい歳して家出して困ってたの〜」


「…家出?そうだったのか?」



愛理さんの言葉に、名取くんがわたしの顔をのぞき込む。


わたしはとっさにうつむく。



そして愛理さんは、ここぞとばかりに続ける。



「それに聞いてくださる?結弦さん。さっきお医者さまから聞かされたんですけど、澪さん妊娠されてるようなの〜!清楚を装ってるみたいだけど、ねぇ〜…」


「相手がだれかもわからない子を身ごもって、それで恥ずかしくなって家を飛び出したのかしら?」



蔑むように、口に手をあてて笑う愛理さんと由美さん。



「澪、これは大事なことだぞ。逃げたって、なんとかなる問題じゃない。ちゃんと現実と向き合いなさい」


「ちゃんと向き合ってる…!だから、1人で生む覚悟を決めたのっ」


「なにをバカなことを!結婚もしていないというのに、どこの馬の骨ともわからない男との子どもなんて、早く墮ろして――」


「…そんなことはしない!絶対に…!!」


「なにをムキになって…。それじゃあ、せめて相手がだれか答えなさい!」



お父さんの追求に、わたしは口ごもる。



それだけは……言えない。



「どうした、澪?子どもの父親くらい、見当はついているだろ?」


「それは…」


「まさか、本当にだれの子かわからないのか…?」



不審そうな視線をわたし向けるお父さん。


そして、深いため息をつく。



「…見損なったぞ、澪。…相手がだれかすらわからないなんて」



お父さんは、完全にわたしのことを疑っている。


まさか、自分の娘がそこまでふしだらな女だったとは…とでも思っているのだろう。



でも、これでいいんだ。


この子がだれの子かさえ知られなければ。



そう思っていた、――そのとき。



「富士川社長、申し訳ございません…。澪さんの相手は、この僕です」



突然の名取くんの告白に、一瞬病室の中がしんと静まり返った。


だれもがそれを理解できず、口をぽかんと開けている。



わたしだってそうだ。



…どうして名取くん、そんなことを――。



「は…い?結弦くん、今…なんと?」


「ですから、澪さんのお腹の子の父親は僕です」


「なっ…名取くん…!!」



名取くんは、お父さんたちとわたしとの間に壁になるようにして立ちふさがる。



「…ちょっと待ってくれ、結弦くん。急になにを言い出すんだ。そもそも、澪と君に接点なんて――」


「澪さんは、高校時代の僕の恋人でした。別れてからもずっと忘れられなくて…。それで、この前のパーティーで再会したのがきっかけです」



名取くんは包み隠さずすべてを打ち明ける。



「…うそ。澪さんと結弦さんが…?じゃあ、結婚を考えている高校生のときから好きな人っていうのは…」


「そう、ここにいる彼女のことだよ。愛理さん」



そう言って、わたしに目を移す名取くん。


それを聞いた愛理さんといったら――。



「そんなの嘘よ…。澪さんのお腹の子の父親が…結弦さんだなんてっ」



口がパクパクと開き、放心状態。



「…きっと澪さんが言い寄ったに違いないわ!!それで、結弦さんが仕方なく…!そうに決まってる!!」



愛理さんは到底納得できていない。


むしろ、現実を受け止めたくないといった様子。



「…恥ずかしながら、僕もさっき澪さんが妊娠していることを知りました」


「そうなの、澪さん…?どうして、こんな大事なこと…結弦さんに話さなかったの?」



由美さんはそう言うけど――。


…そんなこと、話せるわけがない。



今のような騒ぎになるのはわかっていたことだから。



「彼女がこうなってしまったのも…すべては僕の責任です。申し訳ございませんでした…!」



名取くんは、深く頭を下げた。


なにも悪いことなんてしていないのに…。



「子どものことやこれからのことについて、改めてご挨拶にお伺いします。澪さんも疲れていることでしょうから、今日のところは…」


「…そ、そうだな。こんなところで、立ち話でする内容でもないしな」


「ええ…!後日、ゆっくとお話しましょう…!」



名取くんがこの場を収めてくれたから、お父さんたちは名取くんに連れられて帰っていった。



1人になった病室で、わたしはお腹をなでる。



…知られてしまった。


名取くんだけではなく、お父さんたちにも。



『澪さんのお腹の子の父親は僕です』


『子どものことやこれからのことについて、改めてご挨拶にお伺いします』



名取くんがお父さんたちに向かって堂々とああ言ってくれたときは、…正直うれしかった。


この子は愛されているんだって。



…だけど、本当にこれでよかったのだろうか。




次の日から、お父さんや由美さんの態度が一変した。



「澪、具合はどうだ?」


「澪さん、無理しちゃダメよ。あとのことは、私がするから〜」



これまではわたしに無関心だったお父さんと由美さんが、やたらとお見舞いにくるように。



経験したことがないくらいに甘やかされる。



でも、その理由はわかっている。



『名取グループとの間に子どもさえできれば…。その子を理由に結婚も強く迫れるのにね』


『そうだな。それが手っ取り早い方法ではあるが』



愛理さんに言っていたことが、そのままわたしの身に起きたから…。


2人はなんとしてでも、名取グループの血を引くこの子がほしいんだ。



あれから、お父さんはすぐにわたしを富士川家の養子として迎え入れる手続きをした。



わたしはもう…『小坂澪』ではない。


『富士川澪』だ。



今だって大切にしてくれているけど、それはお腹の子のため。


わたしに対してじゃない…。




わたしは数日かけて徐々に体調がよくなり、明日退院することとなった。


その日、仕事の合間を見つけて名取くんがお見舞いにきてくれた。



名取くんがきてくれて、…うれしいはずなのに。


わたしは素直に喜ぶことができなかった。



「…ねぇ、名取くん。どうしてあのとき、お父さんたちに自分の子だと言ったの…?」


「そんなの、本当のことなんだから隠す必要もないだろ?」


「でも…お父さんたちはこの子の存在を利用して、…名取グループに取り入ろうとしているの。だから…、だれにも知られたくなかった」


「富士川家から逃げ出したのは、それが理由…?」



わたしは、ゆっくりと首を縦に振る。



「たまたま聞いてしまったから知ったけど…。そうじゃなかったら、俺にも伝えないまま…?」


「…うん。わたしにできるのは、黙って名取くんの前からいなくなることくらいしか――」


「…どうしてそういうことになるんだよ!!」



すると突然、名取くんに抱きしめられた。



「俺…、前に言ったよな?『あのとき別れたことを今でもずっと後悔していた』って」



たしかに言われた。


まさか、名取くんがこの7年そんなふうに思ってくれていたとは知らなくて。



「だから、もう同じ後悔はしたくない。二度も俺の前から消えるなんて…絶対にさせない」



名取くんは、強くやさしくわたしを抱きしめた。



そのぬくもりに、我が身を守ろうとしていたわたしの心の鎧が溶かされていって――。


ぽろぽろと涙があふれ出した。



「澪はもう1人じゃない。俺がずっとそばにいる。だから結婚しよう、澪」


「…名取くん」



わたしがどれだけ突き放しても、名取くんは決してわたしを見放さなかった。


それは7年たった今でも変わっていなかった。



「来週、富士川家に挨拶に行く予定をしてるんだ」


「えっ…」



思わず、わたしの口から不安の声がもれた。


そんなわたしをやさしい微笑みで包む名取くん。



「大丈夫、澪もお腹の子も俺が絶対に守るから。だから、俺を信じてすべてを任せてほしい」



心強い名取くんの言葉。



7年前のわたしはお母さんに支配されて、名取くんを信じることができなかった。


今だって、お父さんや由美さんのたくらみのことを考えたら、わたしだけ消えてしまいたいくらい。



――だけど。


名取くんの真剣で熱いまなざしがわたしを捉える。



もう7年前とは違うと語りかけているかのように。



だから――。



「わかった。わたしも…もう逃げない。名取くんを信じる」



わたしは立ち向かう決心をした。




そして、わたしは無事に退院し、戻りたくもなかった富士川家へと連れ戻される。



お父さんと由美さんは、気持ち悪いくらいにやさしい。



それに対して、愛理さんだけがわたしを受け入れなかった。


当然の反応だ。



わたしが、名取くんとそういう関係にあったと知って。


さらに、お父さんと由美さんが必要以上にわたしに構うものだから。




そうして、ついに“あの日”が訪れた。



「今日は、お時間をいただきましてありがとうございます」



富士川家に名取くんがやってきた。



応接室で、ソファに腰かけるわたしの隣に名取くん。


その向かいにお父さんと由美さん。


そして、同席するように言われ嫌嫌やってきた愛理さんが座る。



名取くんは、この前の病室で語ったことをもう一度丁寧に説明をしてくれた。



お父さんたちは静かに聞いている。


いや、むしろ少し頬がゆるんでいる。



「本音を言えば、子どもができるできない関係なく、澪さんと再会したときすでに、僕の中で将来の相手にしたいと決めていました」



その言葉に、お父さんと由美さんははっとして顔を見合わせる。



「ですので、澪さんとの結婚を許していただきたく、本日お伺いしました。お腹の子も含めて、必ず幸せにします」



名取グループの御曹司からの結婚の挨拶。


だれがそれを断るだろうか。



「結弦くんが相手というのなら、こちらとしてはそれはもう…!なっ、由美」


「ええ、もちろん!」



頬がゆるみっぱなしのお父さんと由美さんの隣で、不服そうな態度の愛理さん。



「…澪さんもずるいものね。子どもさえできなかったら、結弦さんと結婚するのはあたしだったのにっ」



あえて聞こえるようにして、小言をもらしていた。



今のお父さんと由美さんにとっては、愛理さんよりもわたしが名取くんと結婚することのほうが大事。


きっと2人の頭の中には、名取グループとの繋がりを手にすることしか考えていないのだろう。



わたしは、名取くんと結婚できるのなら…うれしい。


でも同時に、それはこの2人も喜ばせることとなる。



「結弦くん。澪と子ども、それと富士川電機を末永くよろしくお願いします」


「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」



お父さんと名取くんはガッチリと握手を交わす。


これで、内側から名取グループと繋がりを築くことができた。



お父さんは、万が一富士川電機になにかあったとしても、ナトリホールディングスがどうにかしてくれると思っていることだろう。



「つきましては、こちらをどうぞお納めください」



そう言って名取くんが取り出したのは、漆塗りされた艶のある黒色の箱。


その箱を開けて中身を見たお父さんと由美さんは目を丸くした。



そこには、帯封がついた札束がいくつも重ねられていた。



「結弦くん…、これは?」


「もしかしてっ、結納金…!?」



由美さんの言葉にうなずく名取くん。



「このような場でお渡しするのは大変不躾なこととは承知で、どうしても本日受け取っていただきたくお持ちいたしました」



なにかの手違いではなく、名取くん自ら用意した額であると知って、大興奮の由美さん。



「重雄さん…!結弦さんもこう言ってくださってることだし、ここはありがたく…」


「そ…そうだな。返すというほうが失礼か」



お父さんは由美さんにこくんとうなずくと、結納箱を自分のほうへと引き寄せた。



「それでは、こちらはありがたく頂戴します」


「よかった…。受け取っていただけなかったらどうしようかと思いました」



名取くんは、安堵したように表情をゆるませる。



これで、公私ともに名取グループと関係を持つことができた富士川家。



さらに、名取くんからは多額の結納金。


きっとこの結納金も、自分たちの私腹を肥やすためだけに使われるのだろう。



こんな、お父さんたちにとって至れり尽くせりの状況があるだろうか。



なにも名取くんも、そこまでしなくたっていいのに…。



わたしはうつむきながら、きゅっと唇を噛んだ。


――そのとき。



「ちなみに、受け取っていただいたそれは結納金ではありますが、同時に手切れ金でもあります」


「そうですか、手切れき――…手切れ金!?」



お父さんは目をぎょっと見開けて名取くんを二度見する。



「ゆ…結弦くん。手切れ金というのは…」


「そのままの意味です。澪さんはこれから、名取家の一員として生まれてくる子どもといっしょに僕と暮らしていきます。しかし、そこにあなたたちとの繋がりは一切ありません」



名取くんの話に、お父さんたちはごくりとつばを飲む。



「この場をもって、澪さんと富士川家との関係は切らせていただきます」


「か、関係を切るとは…!いくら結弦くんであっても、そんな勝手を許すわけにはいかない!澪は私の娘だ!」


「こういうときだけは、都合よく“娘”扱いですか。申し訳ないですが、富士川家のことは調べさせていただきました」



そうして、名取くんは話し始めた。



本当は、この家でわたしがどのような扱いを受けていたのかという――。


そのすべてを、すでに名取くんは知っていた。



「このことは、父にも報告済みです。こちらとしましては、仕事でも親族としてでもお付き合いするつもりはありません」



名取くんの毅然な態度と厳しい口調に、お父さんの顔はどんどん青ざめていく。



「…ま、待ってくれ、結弦くん。“仕事”というのは――」


「ナトリホールディングスは、今後一切富士川電機とはお取引いたしません」



その言葉に、お父さんと由美さんはこれでもかというほどに口を大きく開ける。


興味なさそうに聞いていた愛理さんも事の重大さを理解したのか、ものすごい形相で名取くんに瞬時目を向ける。



「そんな…!」



大口顧客のナトリホールディングスがあってこそ、今の富士川電機が成り立っているようなもの。


そのナトリホールディングスから切られるということは、富士川電機にとっては倒産の危機。



由美さんの父親から引き継いだ富士川電機をお父さんが潰すことになる。


そうなれば、当然今のような暮らしもできない。



「結弦…さん。なにかの冗談よね…?」


「いえ、本気です」



由美さんに冷たく言い放つ名取くん。



「…ちょ、ちょっと結弦さん!そんなのあんまりだわ!」


「あなた方が澪にしてきた行いのほうがあんまりです」



名取くんの鋭い視線に、愛理さんは口をつぐむ。



「結弦くん!考え直してくれ…!…いや、考え直してください!このとおりです…!!」



お父さんは床に正座したかと思ったら、頭を下げて土下座した。



「お前たちも結弦くんに頭を下げるんだっ…!早く!」


「ど、どうして私たちまで…!」


「…そんなこと言ってる場合か!ナトリホールディングスに切られたら、ウチはおしまいなんだぞ!!」



お父さんは由美さんと愛理さんの腕を引っ張ると、頭を押さえつけて無理やり土下座させる。



「どうかっ…お願いします!!取引だけはっ…!でなければ、何百…何千という従業員たちを路頭に迷わせてしまうことになります…!」



…驚いた。


これまで人を見下してきた人たちが、額が床につくくらいに頭を下げている。



でもたしかに、ナトリホールディングスに切られれば、富士川電機で働くなんの罪もない人たちの生活が危ぶまれる。


こんなわたし個人の問題で、そんなことにまで発展してほしくない。



「名取くん…」



わたしは、隣に座る名取くんを見つめる。


すると、不安そうなわたしの表情から名取くんはすべてを読み取ってくれたのか、フッと笑ってみせる。



「…わかりました。取引を切るというお話はなかったことにしましょう」


「本当ですか…!?」



さっきまで今にも死にそうなやつれた顔をしていたお父さんの表情がパッと明るくなる。



「…ほらね!結弦さんならどうにかしてくれると思った〜」


「そうよね。なにも、私たちが頭を下げなくたってよかったのにっ」



愛理さんと由美さんは、その脇でぶつぶつと小言をもらしている。



「ただし、それには条件があります」


「…条件?」



神妙な面持ちで聞き返すお父さん。


そんなお父さんに、名取くんはやさしく微笑む。



「はい。富士川社長…あなたが社長職を辞任し、今後会社の経営には一切関わらないこと。この条件を呑んでくださるなら、取引は継続しましょう」


「…なっ」



名取くんから突きつけられたとんでもない条件に、お父さんは開いた口が塞がらなかった。



「まっ…待ってちょうだい、結弦さん!富士川電機は、私の祖父の代から続く大事な会社…!それを…他人に譲れと!?」


「そのとおりです。しかし、条件を呑んでいただけなければ、その大事な会社ごとなくなります。そうなれば、あなたたちは会社を潰した愚か者として富士川家の親族から一生言われ続けることになるでしょうね」



名取くんの話に、由美さんはごくりとつばを飲む。



「…あたしは絶対にイヤよ!もしパパが社長じゃなくなったら…」


「社長でなくとも、生きてはいけます。…まあ、今のような暮らしはできないとは思いますが」



愛理さんは愕然としていた。


身につけているものすべてがブランド物である愛理さんにとっては、今の暮らしが維持できないということは耐え難い屈辱だった。



「…あなたたちが僕ではなく、誠心誠意をもって澪に頭を下げたのであれば考え直すつもりでした。でも、そうはしなかった。自分のことしか考えられない方たちとは、これ以上付き合いきれません」



名取くんは乾いたため息をつく。



「ちょっと…パパ!どうにかしてよ…!!」


「わ、わかった…結弦くん。澪に謝ればいいんだな…?」


「もう遅いです。パフォーマンスだけの謝罪は結構」



名取くんはそう言い放つと席から立った。



そして、わたしに手を差し出す。



「行こう。澪の居場所はここじゃない」



そうして、わたしを富士川家から連れ出してくれた。


本当の意味で。




その後、名取くんに言われたとおりにお父さんは社長職を辞任。


富士川電機とナトリホールディングスの取引は何事もなく継続しているけれど、長年続いた富士川家の親族経営はここで途絶えた。



噂では、お父さんたちは家と土地を売却。


愛理さんをなんとか音大へ通わせながら、賃貸マンションで暮らしていると聞いた。



きっともう会うこともないだろう。



わたしはというと、名取くんの家族から快く迎えられ、家族という温かみに日々幸せを噛みしめている。




* * *




そして、いよいよそのときが訪れる――。



分娩室に響く力強い産声。



この日、わたしは元気な男の子を出産した。



「澪、…ありがとう!それにお疲れさま」


「…お礼を言うのは、わたしのほうだよ。結弦がわたしをあの家から救い出してくれたおかげで、こうして無事にこの子を産むことができたから。…本当にありがとう」



わたしたちは、額を突き合わせて微笑んだ。




――わたしは、ずっと1人だった。



だけど、あの日結弦と再会して――。


奇跡的にこの子を授かった。



もうわたしは1人なんかじゃない。



これから家族3人で歩むわたしの人生は、まぶしいくらいに光り輝いている。






『このままずっと甘い夜を 〜再会した元恋人は溢れる愛を押さえきれない〜』【完】

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