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第二夜 熱い想いをこの夜に

名取くんは、パーティー会場と同じホテルの一室にわたしを連れてきた。



「僕はパーティーに戻ります。ここで休んでいただいて構いませんので。それでは」


「…でしたら、このジャケットを――」


「予備のスーツに着替えますから、そのままで結構です」



名取くんは、部屋に入ってから一度もわたしと目を合わせることなく、背中を向けていってしまった。



もしかして、わたしのことに気づいていない…?


だから、どこか他人行儀でよそよそしかったのだろうか。



いや…。


そもそも、わたしのことなんて覚えていないことだろう。



――もう7年も前に別れた恋人のことなんて。



それに万が一覚えていたとしても、わたしがあのような場にいるなんて夢にも思っていないだろうし。



わたしだけが意識してどぎまぎしてしまったけど、名取くんにとってわたしは、会場内で見かけたただの招待客の1人にすぎない。



他人にもすかさずやさしく接してくれるところは、あのころとなんら変わらない。



わたしは名取くんのジャケットを羽織ったまま立ち上がると、クローゼットへと向かった。


ここに、何着か代わりのドレスを用意させておいたと名取くんが言っていた。



かわいらしいドレスの数々に、思わず見惚れてしまう。



こんなもの…、わたしには着れない。


だけど、今の服のまま帰るわけにもいかない。



わたしは、ラベンダー色のワンピースにそっと手を伸ばした。



さっそくそのワンピースに着替える。


そうして、会場に戻ろうとしたけれど――。



『ヤダ〜!澪お姉さんったら、恥ずかしい〜!』



さっきの愛理さんの言葉、周りから向けられた蔑む目。


それらを思い出したら、わたしはドアノブに手をかけたまま固まってしまった。



結局、わたしはパーティー会場に再び向かうことができなかった。




* * *




気づけば、この部屋へきてから2時間ほどが経過していた。


するとそのとき、ドアがノックされた。



「気分はどうですか?」



そう言って部屋のドアを開けたのは、ネイビーのスーツに着替えた名取くんだった。


さっきのライトグレーのスーツとはまた違う装いだけど、こっちの色も似合っている。



「あ…あの、パーティーは…?」


「さっき終わったところです」



…そっか、もうそんな時間。



「だから、こうして帰ってきました」


「“帰ってきた”…?」



その言葉が妙に引っかかる。



てっきり、招待客の休憩のために設けられたと思っていた部屋――。


しかし、ここは名取くんが取った部屋だった…!



それを聞いて、慌てて支度を整える。



「わ、わたしはこれで失礼させていただきます…!」



パーティーも終わったのであれば、これ以上ここに留まる理由がない。



「ワンピース、お貸しいただき助かりました…!必ずお返しいたしますので」


「いや、わざわざそんなことをしていただく必要はないですが…。それに、雨も降り出しましたよ?」


「…大丈夫ですっ。お気づかいありがとうございます」



早くここから逃げなくちゃ。


名取くんがわたしに気づく前に。



「今日は本当にありがとうございました…!それでは、わたしはこれで――」



と深くお辞儀をして、部屋から出ていこうとした――そのとき。



「待てよ、澪」



そんな声とともに、わたしの体が後ろから抱きしめられる。


驚いて顔を向けると、すぐそばにはわたしを見つめる名取くんの顔が。



「なんで、そんなによそよそしいんだよ。…俺のこと、忘れたか?」



名取くんの吐息が耳にかかり、くすぐったさにわたしは身をよじらせる。



「壇上に上がったときに、すぐ目にとまった。一瞬信じられなかったけど、間違いなく澪だって」



…驚いた。


パーティーの初めの挨拶のときには、すでにわたしのことを――。



「俺…振られた側だから、馴れ馴れしく話しかけないほうがいいのかなと思って遠目に見ているだけだったけど…。澪があんなことになって、放っておけなかった」



“あんなこと”とは、わたしのパーティードレスがずり下がったトラブルだ。



「気づいたら体が勝手に動いてた。あの場では周りの視線もあって他人のフリをしていたけど…」



…そうだったんだ。


そんなことまで考えてくれて。



「平静を装いながらパーティーに戻ったけど、部屋に帰ったら澪がいなくなってるんじゃないかと思って…本当は不安だった」


「…名取くん」


「だって、7年前もそうだったから。勝手に俺の前からいなくなって…」



名取くんと別れてからわたしは学校を辞めて、お母さんと夜逃げ同然で住んでいたアパートを出た。


携帯代も払えなくなって解約したから、名取くんとは一切連絡も取れないまま。



唇をきゅっと噛んでうつむくわたし。


そんなわたしの顔を名取くんがのぞき込む。



「澪。せっかく会ったんだから、ちょっと話さない?」


「え…、でもっ……」


「帰りはウチの運転手に送らせるから。な?」



名取くんがそう言うものだから――。


わたしは少しだけ、お邪魔させてもらうことにした。



名取くんが注文したシャンパンをそれぞれのグラスに注ぐ。



「それじゃあ、乾杯」


「乾杯…」



ぎこちなく、わたしは名取くんとカチンとグラスを交わす。



シャンパンをひと口。



「…えっと。思わず足止めしたけど、もしかして…澪って結婚してたりする?」


「し…、してないよ!そんな…」


「…よかった〜。あ、でも…さすがに彼氏はいるよな?俺と2人でいて、怒ったりしないかな」


「彼氏だって…いないよ」


「そうなの?7年たってさらにきれいになってるっていうのに、男が放ってはおかないだろ」


「…そんなことないよ。だって、名取くんと違ってわたしはなにひとつ変わってないんだから…」



…本当は、ここで名取くんの隣にいるだけで恥ずかしいのに。


今だって名取くんは、わたしにはまぶしすぎるくらい。



「そういえば、澪って今なにしてるの?富士川電機の社長のご家族といっしょだったよな?」


「…う、うん。あれは――」



名取くんは、高校時代のわたしのすべてを知ってくれているからか、今の現状やこれまでのことを話すのにそれほど抵抗はなかった。



「そうだったんだ。富士川電機の社長が…、澪のお父さんだったなんて。でも住み込み家政婦とはいえ、…複雑じゃない?」


「複雑ではあるけど、ちゃんと家族として迎え入れてもらったよ。だから、今日だってこうして連れてきてくれたわけだから」



わたしは笑ってみせた。


名取くんには説明はしてみたけど、すべてを打ち明けたわけじゃない。



事情が事情で、わたしは“居候の姪”として連れてこられたけど、本当のところは家族というよりは家政婦として扱われていること。


愛理さんと由美さんからは、嫌がらせを受けていること。


お父さんはそれを知っていて、見て見ぬふりをしていること。



そんなことまで包み隠さず話してしまったら、きっとやさしい名取くんなら心配するだろうから…。



――だから、話さない。



今はそれなりに幸せに暮らしていると思ってもらわないと、わたし自身が惨めに思えてくるから。



「…あっ。もうこんな時間」



ふと時計に目を移すと、日付をまたごうとしていた。



「名取くん。わたし、そろそろ帰るね」



そう言って、席を立とうとしたとき――。



「澪っ…」



名取くんがわたしの腕をつかんだ。



「…どうかした?名取くん」


「さっき、帰りはウチの運転手に遅らせるって言ったんだけど…」


「それなら大丈夫だよ。タクシー拾って帰るから――」


「いや、そうじゃなくて」



名取くんは、目を伏せて唇を噛む。


不思議に思って顔をのぞき込むと、名取くんの瞳がわたしを捉えた。



「やっぱり…、返したくなくなった」



その言葉とともに、わたしは名取くんに引き寄せられ――。


気づいたら、名取くんにキスされていた。



わたしは驚いて目を丸くする。



「…なっ、名取くん…!なにするのっ…」


「突然でごめん。でも、…気持ちが押さえられなかった」



“気持ち”って――。


なにかの冗談…?



でも、わたしも名取くんも酔っ払うほどは飲んでいない。



「俺、澪のことが…ずっと忘れられなかった。…7年前のあの日から、ずっと」



名取くんがわたしを抱きしめる。


強く強く、でもやさしく。



名取くんの変わらない匂い。


心地よい体温。



懐かしくて、思わず甘えてしまいそうになる。


――でも、だめ。



「…なに言ってるの。名取くんはわたしとは住んでる世界が違うんだから、酔った勢いでこんなこと――」


「俺、自分で言ってることがわからなくなるほど酔ってねぇよ。…これは、紛れもなく俺の本当の気持ち」



その言葉に、わたしの胸がトクンと鳴る。



「も…もうっ、からかわないで。名取くん、パーティーで疲れてるよね。わたしは、これで――」


「…澪!」



足早に部屋を去ろうとしたわたしを名取くんが捕まえる。


そして、荒々しくわたしの唇を奪った。



「んっ…。やめ…、名取く…んっ」


「やめない」



名取くんは噛みつくように言葉を吐くと、わたしをベッドの上に押し倒した。


そして、何度も何度も唇を重ねてくる。



「まっ…て、名取くん…!どうして、こんなことっ…」


「そんなの決まってるだろ。澪のことが好きだからだよ」



その瞬間、わたしの全身に甘い疼きが走る。



わたしのことが…、――好き?



「…そんなわけないじゃん。名取くんだって、この7年でいろんな人と付き合ったでしょ…?」


「まあ…、正直に言うと。でも、みんな長くは続かなかった。だれと付き合っても、俺の一番は澪だって気付かされた」



名取くんはわたしの首筋に顔を埋めると、小鳥がついばむような甘いキスを何度も落とす。



それがとってもくすぐったい…。



「名…取くん、これ以上はダメだよ。せっかくのワンピースにシワがっ――」


「それなら、俺が脱がせる」


「…えっ」



わたしは顔が真っ赤に。


そんな赤くなったわたしの頬をなでながら、愛おしそうに見つめてくる名取くん。



「あのとき別れたことを今でもずっと後悔していた。…今夜はもう逃さない」



名取くんはわたしの手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りしめる。


そして、指を絡ませながら、熱く深いキスをする。



わたしのことを好きだと言ってくれたけど、わたしは名取くんと結ばれるような人間じゃない。



もしかして、一夜限りの関係…?


…そうだったとしたら、それはそれでいい。



だけど――。



「…澪、…澪」



名取くんが切なげにわたしの名前を何度も呼ぶ。



ぽっかりと空いた7年分の空白を埋めるかのように。



「ずっとこうしたかった。…もう離したくない」



それほど酔っていないはずなのに、頭の中がクラクラする。



名取くんのわたしを呼ぶ声。


重なる熱い口づけ。


本能むき出しのわたしを捉える眼光。



そのすべてで、わたしを甘い沼へと引きずり込もうとしている。



「…ダメ、名取くん。このままじゃ…」


「どうにかなっちゃいそう?俺は、もうとっくにどうにかなってるけどな」



名取くんは荒々しくネクタイを解くと、シャツのボタンに手をかけた。



「澪、好きだ」



そう言ってわたしを抱きしめてくるものだから、肌と肌とが密着して温かい体温を共有して気持ちがいい。



「澪は…どうなの?正直、俺は今すぐにでも澪を抱きたいと思ってるっ…」


「わたしは…」



「あと…ほんのわずかな理性なら残ってる。だから、やめるなら今」



名取くんの熱を帯びた瞳。


胸にかかる熱い吐息。


紅潮した頬。



こんなふうに求められたら――。


…断れるわけがないよ。



「名取くん…、きて」



わたしは、消え入るような声をもらす。



「…わかった。もう止められないから覚悟して」



名取くんは荒い息づかいでささやくと、噛みつくようにわたしの唇を奪った。


息もできないくらいの激しいキスに、わたしも必死になって応える。



「…名取くん、名取くんっ…」


「澪…!澪っ…!」



名前を呼び合い、唇を貪り、絡まるように腕を伸ばして抱きしめる。



「澪、好きだっ…」


「わたしも…、名取くん」



我も忘れて、名取くんからの愛を全身で受け止めた。



だって、わたしもずっと名取くんのことが忘れられなかったから。



この気持ちに嘘はない。



わたしたちは時間も忘れて、何度も何度も互いを求め合った。



名取くんに抱かれる今だけは、唯一の幸せを感じた。


こんなに気持ちが満たされたのは、いつぶりだろうか。



このままずっと甘い夜が続けばいいのに――。



わたしはそう願いながら、名取くんからの激しくもやさしい刺激に溺れていった。




* * *




隣で眠る名取くんの体にそっと布団をかけ直し、わたしは静かに部屋を抜け出した。



白み始めた空の下、わたしは足早に富士川家へと戻った。



『ずっとこうしたかった。…もう離したくない』



…無我夢中で名取くんと深いキスをして、名取くんのぶつけられる想いに酔いしれた。



今思ったら、まるで夢のような甘い時間だった。



ずっと好きだった名取くんと再会して。



お互いの気持ちを通わせて。



――でも、もう会うことはないだろう。



だからこそあれは夢ということにして、わたしの胸の中にそっと閉まっておくことにしよう。



シンデレラのように魔法が解けたわたしは、今日からまた家政婦として働くだけだから。



由美さんと愛理さんは、わたしがいつの間にか家に帰っていて、普段と同じように朝食を作ってるものだから、一瞬驚いた顔を見せた。



「あ…あら、澪さん。おはよう」


「おはようございます」


「そういえば澪さん、…昨日はあのあとどちらへ?」



わたしの顔をのぞき込む由美さん。



「昨日は、ネットカフェにいました。途中、服屋さんを見つけたので、そこで着替えて」


「ああ、なるほどね。それならよかったわね」



ファスナーに細工が施されていることを知っていたのに、あえて知らないていで突き通す由美さん。



そこへお父さんもやってきて、朝食の時間となる。



「ねぇ、パパ!あたし、また結弦さんにお会いしたいの。次はいつ会えるの?」


「いつ…と言われてもなぁ」



愛理さんの問いに、困り顔のお父さん。



「だったら、重雄さん!パーティーのお礼も兼ねて、今度ウチへご招待したら?」



由美さんの提案に、わたしの胸がドキッとする。



名取くんが、…この家へ?


名取くんとはあれきりだと思っていたのに、そんなことになったらまた顔を合わせることになってしまう。



「来月は、愛理の二十歳(はたち)の誕生日でしょ?お友達もお呼びしてホームパーティーを計画していたから、そこへ結弦さんも」


「それなら、声もかけやすいな」


「やったー♪」



お父さんは「あまり期待はするな」とは愛理さんに念押ししていたけど、翌週には名取くんも出席してくれるという約束を取り付けて帰ってきた。



――そして、1ヶ月後。



「愛理〜!誕生日おめでとう!」


「みんな、ありがとう!」



愛理さんの友達が続々と富士川家へ集まる。


わたしはというと、今日は招待客のみなさまには絶対にお会いしないようにと言われているから、家の裏の庭で草むしりをしていた。



そのとき、中から甲高い歓声のような声が聞こえた。



「ねぇ、愛理!どなた…!?」


「もしかして、愛理の彼氏!?」


「もう、みんな盛り上がりすぎ!彼は、ナトリホールディングスの御曹司、名取結弦さんだよ」


「「…ナトリホールディングス!?」」



どうやら、名取くんがやってきたようだ。



「今日はお招きいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます!今日は楽しんでいってくださいね」



さり気なく、愛理さんが名取くんの腕を組む姿が小窓から見えた。



わたしはすぐさま顔をそらす。



家の中からは、楽しそうな声が聞こえてくる。


だれも、その裏に泥だらけで草むしりする家政婦がいるとは思ってもいない。



…これでいいんだ。


今日のわたしの仕事は、だれにも気づかれずに目立たないようにすることだから。




* * *




「こんなところにいたのか」



突然、わたししかいないはずの庭にだれかの声が響く。


驚いて顔を向けると、それは名取くんだった。



「なっ…名取くん!どうして…」


「それはこっちのセリフだよ。家政婦として働いてるとは聞いてたけど、こんな隅に追いやられるような扱い…」


「…違うの!今日はもともと、ここの辺りの草むしりをしようと思っていたから――」



と言って立ち上がろうとしたとき、急な立ち眩みでよろけてしまった。



すかさず名取くんが体を支えてくれた。



「大丈夫か…澪。なんだか、顔色もよくないみたいだけど…」


「…大丈夫。たぶん、寒暖差で少し体調を崩しただけだから」



季節の変わり目にはこういうことがある。


食欲不振になったり、貧血っぽくなったり。



名取くんは、近くにあった庭のベンチにわたしを座らせる。



「ありがとう。…でも、意外だった。まさか名取くんがくるとは思わなかったから」


「富士川電機の社長から、『ぜひ娘の誕生日パーティーにきてほしい』って言われたからきたんだ。てっきり澪のことだと思って、出席の返事をしたけど…」



そう。


わたしも、3日前に25歳の誕生日を迎えたところ。



お父さんは覚えてすらいなかった。


だけど、名取くんは違った。



「澪、誕生日おめでとう」



そう言って、名取くんが差し出してきたのは長方形の小箱。



なんとそれは、わたしへの誕生日プレゼントだった。



中には、わたしの誕生石が埋め込まれたネックレスが入っていた。



「かわいい…!でも、…わたしなんかがもらってもいいのかな」


「澪のために選んだんだよ。だから、受け取ってくれないと困る」



名取くんは、私の首にネックレスをつけてくれた。



「…ありがとう、名取くん。大切にするね」



わたしがそう言うと、名取くんはやさしく微笑んだ。



「あとから愛理さんの誕生日パーティーだって知って断ろうとも考えたんだけど、澪にそれを直接渡せるならと思ってきたんだ」


「そうだったんだ。でも愛理さん、名取くんに会えるのを楽しみにされていたから…。わたしのことはいいから、戻ってあげて」


「どうして?俺は澪といっしょにいたいのに」



名取くんはわたしの顔をのぞき込みながら、そっと手を握る。



「俺は、また澪に会いたかった。あの一夜限りだけで終わらせようなんて思ってない」


「ダメだよ…名取くん。わたしが名取くんとは分不相応だってことは、今も昔も変わらないんだから…」


「俺がそんなこと気にするようなやつだと思ってるのか?」


「そうとは言ったって、もう『好き』だけでどうにかなる年齢じゃないんだよ…?名取くんにふさわしい相手は、愛理さんのような学歴も家柄もいい人だから」



愛理さんは名取くんのことを気に入っている。


少しでも名取くんが愛理さんに気があれば、すぐにお付き合いに発展するだろう。



そうして、将来2人が結婚するようなことにでもなれば、取引先としてだけでなく、富士川電機とナトリホールディングスの繋がりはさらに強いものとなる。



だから、そこにわたしという存在は不要なのだ。



「…澪。俺が愛理さんと…なんて、それ、本気で言ってるのか?」



名取くんの問いに、わたしは顔をそらす。



本当は、…そんなのはいやだ。


だけど、わたしといたって絶対に名取くんは幸せにはなれないから。



「澪、聞いてっ。俺の気持ちは、7年前のあの日からなにひとつ変わってない。むしろ、再会してさらに気持ちが高まってる。やっぱり俺は、澪を好きなんだって」



顔を背けていても、名取くんからの熱いまなざしが伝わってくる。



「…でも、いやだった…よな。再会したその日に、ああいうことをしたんだから…」



…そんなことない。


むしろわたしは、すごく幸せだった。



「勝手に暴走して、…悪かった。でも、俺の気持ちは本気だから…!俺は、もう一度澪と――」


「結弦さ〜ん?」



そのとき、名取くんを呼ぶ愛理さんの声が響いた。



芝生を踏む足音も聞こえ、名取くんを探しに庭に出てきたようだ。



こんなところ、愛理さんに見られたら…。



「…名取くん、行って」


「それはできない。俺がそばにいたいのは、澪だ。澪が愛理さんに気をつかうのなら、俺から直接愛理さんに――」


「それはダメ…!」



そんなことをしたら、愛理さんが悲しむ。



名取くんがここから離れてくれないというのなら――。



「…勘違いしないでっ。わたしもあのときは久々に名取くんと会って、少しお酒も入っていたからああいう雰囲気になったけど…」



わたしはきゅっと唇を噛む。



「わたしは、名取くんとはあれきりの関係だと思ってる。だから、わたしのことは放っておいて」



こんな…心にも思っていないようなこと。


本当なら言いたくはなかったけど――。



愛理さんの声がすぐそばまで聞こえてきたから、わたしは名取くんに背を向け、愛理さんとは反対方向へ走って逃げた。



わたしの首元には、名取くんからもらったネックレスが切なげに揺れる。



…すごくうれしかったから。


これだけは外さずにつけさせて、名取くん。




その日の夕食時。



「愛理。結弦くんからなにかプレゼントはもらったのか?」


「うん♪香水をもらったの!とってもいい香りがするの〜」


「そうか。それはよかったな」



お父さんはワインをひと口飲む。


そして、ゆっくりとテーブルに置く。



「ということは、結弦くんとそこそこ距離は縮まったのか?」



お父さんの何気ない質問。


しかしそれを聞いて、由美さんはお父さんを軽く睨みつけながら首を横に振る。



まるで、『余計なことは聞かなくていい』と言っているかのような。



それを悟ったお父さんも、慌てて話題を変える。



「…そうだ、愛理!パパからもプレゼントがあるんだ。夕食が終わったら――」


「好きな人がいるんですって」



お父さんの話を遮る愛理さんの言葉に、にぎやかだった食卓がしんと静まり返る。



「あたし、結弦さんにそれとなく伝えたの。そしたら、『好きな人がいるから、その気持ちには応えられない』って」



目を潤ませながら、歯を食いしばる愛理さん。



これまでの人生、ほしいものはなんでも手に入れてきた愛理さん。


だから、自分の思いどおりにならなかったのは今回が初めてなのだろう。



「あ…愛理、なにも落ち込むことはない。きっと、結弦くんも照れ隠しで思わず口から出てしまっただけで――」


「高校生のときから好きな人らしいわよ。それで、結婚したいとも思ってるって」



その話を聞いて、わたしの胸がドキッと跳ねる。



――“高校生のときから好きな人”。


それに、“結婚したいと思ってる”って――。



『澪、好きだ』



それって…まさか、わたしのこと……?



「だが、相手が認めてもらえる家柄かもわからんしな。気を落とすのはまだ早いぞ」


「そうかなぁ〜…」



愛理さんはいじけたように、フォークでステーキを何度も刺す。


そんな愛理さんの機嫌を取ろうと、お父さんと由美さんはなんとかして励ます。



「本音を言えば、婿養子を取りたいところだが、もし愛理がナトリホールディングスに嫁に行くというのなら、パパもママも鼻が高い!」


「そうね!名取グループと親族になれば、ウチはますます安泰になるわ」


「こんなにかわいい愛理に好意を抱かれて、結弦くんが放っておくわけないだろう?」


「愛理なら大丈夫よ!それに、結弦さんは結婚したいと考えていても、人生ってなにがあるかわからないからね」


「どういうこと?ママ」



愛理さんは、キョトンとして由美さんに尋ねる。



「実はね。本当なら、ママはパパと結婚するはずじゃなかったの」


「…え!?なにそれ、初耳!」



驚く愛理さん。



話によると、その当時、由美さんには縁談の予定があったのだとか。


しかし、すでに会社には秘密で交際していた由美さんとお父さん。



なんとか由美さんの縁談を白紙にしようと取った行動が、先に子どもを作るというものだった。



「それであたしが生まれたの!?」


「そうよ。愛理のおかげで、ママはパパと結婚できたの」


「こんなかわいい娘に恵まれて、パパもママも幸せだよ」



さっきまでの暗いムードから一変。



いつものにぎやかな食卓に戻った。



「パパたちがそれで結婚できたんだから、べつに順序が違ったってなにも言わんぞ」


「それなら、結弦さんと結婚できる!?」



もしそうなれば、ナトリホールディングスとはさらに取引しやすくなるとたくらむお父さん。


名取グループとのパイプができ、周囲に自慢できると考える由美さん。


そして、ハイスペの旦那様を手に入れることができるという妄想を膨らませる愛理さん。



3人はそれぞれ、不気味なくらいにニヤニヤしていた。



「今度お会いしたら、隙を見て押し倒してみようかしら」


「愛理ったら積極的ね〜。でも、名取グループとの間に子どもさえできれば…。その子を理由に結婚も強く迫れるのにね」


「そうだな。それが手っ取り早い方法ではあるが」



子どもって…、そんなことのために生まれてくるものじゃないのに。



自分たちの利益のためなんて、その子がかわいそうすぎる。



聞いているだけで、吐き気がした。




次の日。


この日、3人はディナーを楽しんでくるということで、夜遅くまで帰ってこないと聞かされていた。



やることを終わらせたら、1人の時間をゆっくりと過ごせそうだ。


…といっても朝から体調が悪く、3人が出かけたあと、わたしは部屋で横になっていた。



食欲がわかず、体もほてって熱っぽい。


風邪でも引いたのだろうか。



体温計を取りにリビングへ下りたとき、ちょうどタイマー予約していた炊飯器の蒸気の匂いがやけに鼻についた。


その瞬間、突然の吐き気に襲われる。



わたしは慌ててトイレへ駆け込んだ。



…なんで。


どうして…。



なにかの…感染症?


それとも――。



そのとき、なにかに気づいてはっとした。



そういえば、生理…。


最後にきたのはいつだろうか。



数えてみると、1ヶ月以上きていなかった。



――まさか。



わたしは、自分のお腹にそっと手を当てた。




* * *




――結果は、明らかだった。



わたしが握りしめる妊娠検査薬。


そこには、くっきりと陽性を示すラインが入っていた。



未だに信じられないけど…。


わたし、妊娠してる…?



お腹の子の父親は、もちろん――。



『…名取くん、名取くんっ…』


『澪…!澪っ…!』



あの日、熱くて甘い夜をともに過ごした――名取くんだ。



ここに、名取くんとの赤ちゃんが…。



うれしかった。


好きな人との赤ちゃんを授かって。



――でも。



『名取グループとの間に子どもさえできれば…。その子を理由に結婚も強く迫れるのにね』



『そうだな。それが手っ取り早い方法ではあるが』



昨日の話を思い出したら、決して手放しに喜べるはずがなかった。



もし、わたしが名取くんの子どもを妊娠しているとわかれば――。



いやでも想像ができてしまった。



この子は、きっと利益のために利用される。


だけど、だからといって堕ろすという選択肢は絶対にない。



なんとしてでも、わたしがこの子を守る。


そのために、わたしが妊娠していることを知られてはいけない。



だから、わたしは決心した。


この家から出ていくと。



3人が帰ってくるのが遅いことをいいことに、わたしは支度を整えた。



この子はだれにも知られず、わたしが1人で育ててみせる。



わたしは、出ていく旨を書いた置き手紙だけを残し、富士川家から姿を消したのだった。

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