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ラストシーツ

作者: 白桐 岳


ガウンを羽織って、テラスの扉を開けた。


夜の渋谷はどこもまぶしい限りだったが、裏路地のホテルから見える景色は、美しい夜景とは程遠いものだった。

目の前には同じようなホテルが真正面に佇んでいるだけ。

夜なのに町が明るすぎて空が中途半端に暗く、少しも星が見えなかった。

見下ろすと若い女の子がスーツ姿の男と向かいのホテルに入っていったのが見えた。

ここでは日常的な風景なのだろう。


「ラブホなのにテラスあるなんて珍しくない?」


後ろから、葉が抱き着いてきた。

彼女のゆるく巻いた茶髪が頬に触れる。


「あ。今の子絶対パパ活でしょ」


葉はのんきに笑い声をあげるけれど、私は関心すらわかなかった。

葉だって、彼氏に何にも言わずにここにいるじゃん。

優斗がいるのに私とこんなところにきて、なんとも思わないのだろうか。

これって立派な浮気なんじゃないの。

そんなこと言えるわけもない。


「お風呂沸かしたから、中入ろうよ」

「うん」


葉はご機嫌なまま部屋へ戻っていった。


私はいつもこうだ。

心の内を人に打ち明けることなく、なんとなくその場の雰囲気にのまれながら生きてきた。

何も考えず、今日だって彼女に手を引かれるままここに入ってきたんだから。


葉には優斗という恋人がいる。

彼女は、初め優斗になんか全く関心を向けなかった。

何度か告白を断り続けた葉だったが、誕生日に熱烈なアプローチをされたようで、半年ほど前にようやく告白が成功したらしい。


しかし最近の優斗はバイトや卒論で忙しいらしく、葉はそれに不満を抱いていた。

結局今日私は、葉の刺激的な憂さ晴らしに付き合わされているだけ。

でも、別にそれでいい。

私にとっては優斗なんてどうでもよかった。

いつもと変わらない作り物の笑顔で私に問いかける葉に、いつも通りついてきてここにいる。


浴室を開けると、もわっとしたバラのにおいの湯気が体を包んだ。

浴槽には温かいお湯が張っており、たっぷりの泡が浮かんでいる。

この浴槽には、天井に小さいプロジェクタ―がついていて、壁にネオンの夜景を映してくれる。

数分経つと勝手に消えるシステムのようだ。


「葉、お湯沸かしてくれてありがと」


泡の中で楽しげな葉に声をかけた。


葉は誰が見ても魅力的な人物だと思う。

長くてつやのある茶髪に長いまつげ。

笑うと左の頬にえくぼができて、頬には薄くそばかすがある。


弓道のサークルに入っている彼女は後輩の面倒見もよく、

部員にも人気があるそうだ。


いつだったか友達と飲みに行ったときに、入り口の前で数人の部員に囲まれ笑う葉を見たことがある。


そんな彼女とネオンの泡風呂に浸かっているなんて、贅沢な話だろうか。

こんなことで優越感を感じる自分が、あまりにも単純で情けなさを感じた。


「全然、そんなことよりこっち来て」


浴槽で泡にまみれた葉が手招きする。

微笑むと切れ長になるその目と、美しい曲線を描く口元。

葉の誘いを断れる人間なんて、この世には存在しないのではないかと思わされる。


言われるがまま浴槽に足を入れて、葉と向かいあった。

葉の肩に顎を乗せ、背後の壁を眺める。


時間が経ったら電源が消える偽物の夜景が映し出されたネオンの壁。

自分でどうにもできない小さな世界に閉じ込められているみたいで、私にとってはそれが心地よかった。


星が見えない空に対して嫌気がさしていたはずなのに、浴室に映るまがいものには気持ちを揺さぶられてしまうなんて、ばかみたい。


葉が体を引き、私の顔に手を添える。

細い指がやわらかい。

色素の薄い瞳が目の前に迫った。

 

葉は私が普段さらすことのない肌を見るとき、心から嬉しそうな表情を浮かべる。

その表情は決して下品なものではなく、どんな時でも愛しげで、幸せそうな顔だった。

まるで、恋人に向けるかのよう。

 

どうか、私にそんな顔しないでほしい。

私は葉が何月生まれなのかも思い出せないし、誕生日に何が欲しいのかも知らない。

漠然とした優越感だけで隣にいる、空っぽな人間なんだから。

葉が私の体のどこを触れようと、私はじっとしているだけ。

私が葉の体に触れることはなく、彼女が満足するまで私はただ壁や天井を見ている。

それが彼女にとっても、私にとっても都合がいいから。


「え、待ってどうしたの?!」


突然、葉が手を止めた。


「え、何が…」

「何がって!今日なんかやなことでもあった?」


葉が私の頬に手をあてて、親指で目の下をぬぐった。

どうやら無意識に涙が出ていたみたいだ。

今更鼻の奥がつんとしてくる。

なんでだろう。別に悲しいことなんかなかったのに。

 

「あ、ごめん…ありがとう」

「のぼせたら困るし、一回上がろ」

 

葉が私の手を引いて浴室を出た。

広い脱衣所の鏡に、裸の二人が映る。

自分の汗ばむ赤い顔を見て、私は目を伏せた。


葉、私が泣いているなんて、良く気づいたね。

私自分でもわからなかったのに。


「ねぇ。葉」

「どしたの」

「葉って11月生まれだったっけ」

「え、そう!…よく覚えてるね」


葉は楽しそうに笑った。


「優斗さ、なんか勘違いしてて。

サークルで飲んでた時に弟が8月生まれだって話したら、

相当酔ってたのか私が8月生まれだと思い込んでてさ!

サプライズとかしてきて、やばいよねほんとに」


私は適当に相槌を打った。

なんとなく今は優斗の話を聞きたくなかった。

そんな気持ちとは裏腹に、葉はご機嫌に話し続ける。


「めっちゃまわり固められてさ。

先輩とかも、もう絶対付き合った方がいいとかいうの!

ほんとバカすぎない?」


葉は、そこから優斗の愚痴や不満を心底楽しげに話した。

葉の話をただ聞いているだけなのに、なぜか気持ちが楽になっていくのを感じた。

いつのまにか私の相槌にも熱が入ってきて、


「ほんとにありえない!」

「やばすぎ」

 

とか、我ながら珍しくも葉に味方して笑いあった。


ひとしきり笑いあったあとで、私たちはベッドに倒れこんだ。

天井の模様が、今みるとロマンチックに見えなくもない。

私は顔だけ横に向けて、葉に問いかける。


「葉でも、そんな風に思うんだね。なんで別れないの?」


私は何の気なしに聞いた。

正直、葉の愚痴は面白かった。

優斗にそんな不満があったなんて。


「そんなに先輩が怖い?」


葉に問いかける。

彼女は少し悩んで口を開いた。


「うーん…でもやっぱりそんなとこが好きだったりするのかな」


葉は天井を見上げたまま、少し照れ臭そうに微笑む。

私はその答えを聞いて、体の芯が冷えていくような感覚を覚えた。


思いついたかのように葉が切り出す。


「ねぇ、私の誕生日にさ、おそろいのネックレス買いに行かない?

こんな話できる人他にいないし、二人だけの秘密の証明みたいじゃない?」


葉はこっちを向いて私の鎖骨に指をなぞらせた。


「私、ずっとつけておくよ。友情の証に」


自分が何を言っているのか、彼女はわかっているのだろうか。

私は全くほしいと思えなかった。

数か月後に、優斗からもらった別のネックレスをつける葉の姿が思い浮かぶ。

私とのおそろいに何の意味があるというのだろう。


「そうだね、買いに行こ」


私は葉に微笑んだ。


「やった!………楽しみ…」


ひとしきり恋人の愚痴を言ってすっきりしたのか、葉は隣で寝息を立て始めた。

私は明かりを消し、枕元の間接照明をつけて葉に布団を掛ける。


薄暗い間接照明に照らされた葉の顔は、やすらかだった。

私は隣で無理やり目を閉じ、今自分の中にある得体のしれない全てと向き合わないようにした。

この気持ちを、言葉に置き換えるのが怖い。

 

強く目をつぶると、浴槽でみたネオンの夜景が脳裏に浮かび上がってきた。

実物を見ることはかなわず、あの狭い浴槽の中で、数分だけ眺めることができる幻想。


葉、きっとネックレスは私にとっての首輪になってしまうだろう。

なんでかわからない。わかりたくもない。

彼女は残酷だ。

 

「…でも、別にどうでもいいんだっけ。」


すっかり眠り込んだ葉の、ベッドに投げ出された手首にささやく。

葉、また明日ね。

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