1-09. 真夜中の逃亡劇(空中)
「ほ、本当に…悪魔と契約しやがった…!」
マティアスが、ひくりと頬を引きつらせ、あり得ないものを見るような目でグレーテルを見つめる。
理不尽だ。胸に手を当てて思い返して欲しい。そもそも、こんな状況に追い込まれたのは、主にマティアスのせいだ。
「レムル! 異端審問官に連絡だ!」
マティアスが叫ぶと、今までぼんやりと立っているだけだったレムルがぴくりと反応して、くるりと踵を返す。
「逃さないよ」
メフィストフェレスが、ぱちん、と指を鳴らす。その瞬間、マティアスとレムルの足元から黒い影がにじみ出し、縄のように絡みついて二人をその場に縫い留めた。
「ひぃん…っ!」
情けない悲鳴を上げるマティアスに、メフィストフェレスは楽しげに目を細める。
「さて。どうしてやろうか? ミンチはご所望じゃないらしいからね。八つ裂きにでもする?」
メフィストフェレスがにこりと笑う。その笑顔が、ぞっとするほど悪辣に見えた。
グレーテルは辟易しながら、遠慮がちに告げる。
「えっと…あの、そういう暴力的なやり方は…ちょっと…」
「どうしてだい? こいつらを消さないと、異端審問官に報告されるよ。そうしたら、君は家に帰れないんじゃないかい?」
それは、その通りだった。
マティアスが教会ならびに異端審問官に、グレーテルが悪魔と契約したことを報告すれば、家には毎日のように教会関係者が押し寄せてくるだろう。かといって、メフィストフェレスに毎回、彼らをどうにかしてもらうわけにもいかない。
一方で、契約してしまった今、マティアスとレムルをここで消したからといって、元の生活には戻れない。どうやっても、マルタやシーベルにメフィストフェレスのことを説明しないといけない。そして、もしこの悪魔が、大切な友人たちに害を加えるようなことがあったら――きっと後悔してもしきれない。
どちらにせよ、グレーテルがミルゼンハイムに留まることは出来ないのだ。
「人間は気が引けるなら、レムルだけでも消してあげようか?」
黙り込んだグレーテルに、メフィストフェレスが気軽な口調で言う。その言葉を聞いたマティアスは、慌てて右手の指輪をレムルに向けた。
「レムル、指輪に戻れ!」
途端に、レムルが黒い霧となり、指輪に吸い込まれるように消えていく。
メフィストフェレスはにんまりと口元に弧を描いた。
「指輪だけ破壊するのは、ちょっと面倒だね」
そう言って、わざとらしく手をひらひらと動かす。
「――指ごと切っちゃおうか?」
にこやかに放たれたその言葉に、マティアスの顔色がみるみる青ざめていく。
このままでは、本当にマティアスに危害を加えかねない。グレーテルは意を決して、メフィストフェレスの服の裾を掴み、ぐいと引っ張った。
メフィストフェレスは振り向きざま、小さく眉をひそめる。
「……なに?」
面倒そうなその声には、あからさまに不満が滲んでいた。まるで、これから始まる楽しい遊びを邪魔をされたかのような。
「神官様がいても、いなくても、もう……家には帰れない。だから――」
グレーテルはぐっと顔を上げ、メフィストフェレスの闇色の瞳を真正面から見据える。
「私を、この場から逃がして」
メフィストフェレスは、すぐには何も答えなかった。ただ、しばし沈黙したあと――ぱちん、と指を鳴らす。マティアスの足に絡みついていた縄状の黒い影が、ふっと消え失せる。
「命拾いしたね」
メフィストフェレスはくつくつと喉の奥で笑いながら、へたり込んだままのマティアスに言い放った。
拘束が解けたにもかかわらず、マティアスはただその場に崩れ落ち、震えながら動けずにいる。
「それじゃぁ、逃げるとしようか」
メフィストフェレスの言葉に、グレーテルはこくりと頷いた。――さようなら、ミルゼンハイム。心の中で故郷に別れを告げ、そのまま街とは反対方向へ歩き出そうとした、その瞬間。
ふわりと浮遊感が襲った。
「ぐぇっ……?!」
潰れた蛙のような声が漏れる。お腹をぎゅうっと圧迫されながら、グレーテルは、自分がメフィストフェレスの肩に担ぎ上げられていることに気づいた。
「あはは、すごい声」
「ちょっと! 突然、なんで?!」
「悠長に歩いてる時間はないからね」
肩に担がれたまま、グレーテルは必死に背中を叩こうと手を伸ばした。けれど、途中で動きを止める。
――その背に、翼があった。カラスの濡れ羽色の、艶やかな漆黒の翼が、大きく広がっている。
「ま、まさか……」
ぞわり、と背筋に寒気が走る。
「飛ん――」
「しっかり掴まっててね」
グレーテルが言い終えるより前に、メフィストフェレスが、くつくつと喉の奥で笑う。次の瞬間、翼がばさりと大きな音を立てて羽ばたいた。
視界が跳ね上がる。足元がぐらりと揺れ、夜空へと吸い込まれるように、二人の身体が浮かび上がった。
(掴まるってどこに?!)
とりあえず手を伸ばして、メフィストの服にしがみつく。
見下ろせば、金色に波打つ小麦畑がどんどん遠ざかっていく。マティアスが豆粒のように小さくなり、ミルゼンハイムの街も、やがて闇の中に沈んでいった。
「こ、怖い怖い怖い! 落ちる! 絶対落ちる!」
「落とさないよ。たぶんね」
「たぶん?!」
グレーテルの絶叫にも、メフィストフェレスは軽く笑うだけだ。空を滑るように、悠々と飛び続ける。
「メフィストフェレスっ――」
「俺の名前、長いから、メフィストでいいよ」
メフィストフェレス――もとい、メフィストは気安くそう言いながら、振り返りもせずに飛翔を続ける。ぐるぐると目を回しながら、グレーテルは必死に叫んだ。
「メフィスト! 絶対に落とさないで……っ!」
「はいはい」
まるで他人事のように、軽い声が返ってきた。
漆黒の翼が、夜空を切り裂き、やがて二人の姿は闇夜に消えていった。