1-08. 契約
このまま、どことも分からない場所に連れ去られるか、悪魔と契約するか。どちらがマシだろうか?
グレーテルは迷う。けれど、答えは出ない。
「契約はしたくないけど…このまま連れて行かれるのも嫌……!」
「正直だね」
青年がくつくつと喉の奥で笑う。闇色の瞳がグレーテルをじっと見つめ、「それなら」と呟き、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「魂、半分でいいよ」
「半分?!」
思わず、グレーテルの口から、場にそぐわない素っ頓狂な声が出る。半分。魂の半分とは、どういうことだろうか?
青年はグレーテルの混乱に構わず、言葉を続けた。
「君の言うことを何でも聞く下僕になってあげる。そして、ずっと君の魂の側にいる。その代わり、君の魂の半分を貰う」
「条件増えてない?!」
「魂を半分にまけてあげてるんだ。俺としてはかなり譲歩してる方だけど」
追加された条件に、なんの意味があるのか分からない。そもそも契約したら、ずっと側にいるものではないのだろうか? グレーテルはぐるぐると考えを巡らせる。契約するか、それとも、連れ去られるか。
「お、おい! レムル! あの悪魔をやっつけてくれ!」
ぼぐっ、と音がする。正気に返ったマティアスが、レムルに指示を出している。
ゆっくりとレムルが動き出す。ぐんと腕を伸ばし、前のめりに倒れ込むようにして青年に襲いかかる。
「おっと」
青年は余裕の笑みを浮かべながら、ひらりと荷台から飛び降りた。
「さて。どうする? 契約するかい?」
青年はグレーテルの方に顔を向ける。目は笑っていたが、その奥には冷たい闇が潜んでいた。
――もし、断ったら。家に来たときと同じように、あっさりと消えてしまうのだろう。そんな予感があった。
だから、グレーテルは即答して断ることができない。青年が消えてしまえば、マティアスとレムルに連れ去られるしかないのだ。
「今なら、俺に渡す魂は半分で済む。実質、半額だ」
そんなお得みたいに言われても。
「うぅ……。で、でも……」
迷うグレーテルに、青年がさらに甘言を重ねる。
「魂もすぐには取らないでいてあげよう」
のっそりと動き出したレムルが、呻くような音を立てて襲いかかる。その手が地を引っ掻いた直後、青年はひらりと、まるで舞うような足取りで避ける。
いろいろなおまけをつけてくれて、だいぶ悪魔との契約がお得なものに思えてきた。しかし、ここで甘言にすぐ乗るのは良くない。グレーテルは、すぐそばで「行け! やれ!」とレムルに声援を送っているマティアスに、思い切って訊ねてみる。
「あ、あの! 私のこと、連れて行って、どうするつもりなんですか?!」
「そこだっ! そのまま引き裂け! ……ん? え、なに? 君を連れてったあと?」
マティアスはちらりとこちらを振り返り、眉を寄せる。少しのあいだ、「なんだったっけな〜」とぶつぶつ呟き、やがて「あ!」と目を見開いて、手をぽんっと叩いた。
「天使にしてもらえるよ!」
「て、天使……?」
グレーテルが思わず聞き返すと、マティアスは垂れ目を細め、にこりと笑って答えた。
「そ。解体して、くっつけるんだったかな~? 詳しいことは現地で説明があるんじゃない?」
ぞわりと、背筋に悪寒が走る。悪魔との契約か、連れ去られて天使になるか――天秤が音を立てて、ぐらりと片方に傾いた。
グレテールは歯を食いしばり、青年に向かって大声で叫ぶ。
「契約する! します!」
のらりくらりとレムルの攻撃を躱していた青年が、ぴたりと動きを止めてこちらを振り返る。そして、くつくつと喉の奥から笑い声を漏らした。
「――言質はとった」
唇の端をぐいと吊り上げ、青年は嬉しそうに目を細める。瞬間、ぶわりと生ぬるい風が空気を震わせ、グレーテルの周囲を吹き抜けた。
その風に煽られるように、地面に淡い紫色の光の筋が走る。やがて、青年とグレーテル、それぞれの足元に、円形の陣が浮かび上がった。陣の中央には逆さまに描かれた星、周囲には不気味な文字のような線が脈打っている。
まるで生きているかのように、光の陣がゆらりと揺れた。
「君、名前は?」
「グレーテル・クライン!」
名乗った瞬間、青年の目がかすかに見開かれる。ほんの一瞬だけ驚きの色を浮かべ、だがすぐに、何かに納得したようにふっと微笑んだ。
「そう。君にぴったりの、いい名前だね」
声にはどこか、懐かしむような響きが混じっている。そして青年は、グレーテルへと向き直った。淡く紫色に光る陣の中で、その瞳が深淵のように揺れる。
「俺の名前は――メフィストフェレス」
生温かい風が、吹きすさび、周囲の空気をかき乱す。あまりの強さに、グレーテルは思わず目を細めた。マティアスも、レムルも、その異様な気配に怯んだように動きを止める。
「グレーテル・クラインとの契約、メフィストフェレスが応じる」
光る陣が、大きく脈打った。
「悪魔の力を授けよう。代償は――その魂の半分」
光が一層強まる。ぞわぞわと、内側で何かが蠢く気配が走った。グレーテルは縛られたままの体をぎゅっと丸める。
「この契約、破られることなし」
メフィストフェレスがそう宣言した瞬間、陣がひときわ鮮やかな光を放ち、パッと弾けた。あたりは静まり返り、小麦畑をさわさわと揺らす風の音だけが残った。
「契約完了」
メフィストフェレスが、ぱちん、と指を鳴らす。途端に、グレーテルを縛っていた手足の縄が切れ、するすると解け落ちる。
「これは……魔法?」
唖然としたまま、グレーテルがつぶやく。
「人間は、そう呼ぶね」
メフィストフェレスが静かに笑い、すっと視線をマティアスとレムルに移した。
「さて――俺の契約者様のご意向により、君たちをミンチにしてあげよう」
「言ってない! そんなこと、一言も言ってないから!」
グレーテルは、震え上がるマティアスと、ぼんやりと立ち尽くすレムルに向かって、慌てて大声で否定した。