6-09. グレーテルの力
「前世の君は、人間でありながら魔法が使えた。俺の契約を帳消しにしたり、お兄さんの怪我を治したりね」
グレーテルはふと、コスモスの村での出来事を思い出す。契約した当初は、事あるごとにメフィストが「祈ってみて」と言っていた。
「もしかして……私に祈るように言ってたのは……?」
「力が使えるか確かめるためだね」
会話を続けようとしたその瞬間、ファウストがグレーテルの肩を抱き寄せ、背に隠す。そして、強い口調でメフィストを詰問した。
「待って、メフィスト。契約を交わしたのかい? そうなると、話が変わってくる」
「交わしたよ。お前の大事な大事な恋人とね。その魂の半分をもらうって」
にやりとメフィストが笑みを浮かべる。その笑みは、いつものように優しげな雰囲気はなく、随分と悪辣に見えた。
(メフィスト……なんか、いつもより意地悪だ)
過去にファウストと何があったのかは知らないが、メフィストが「お前」という言葉を使う時点で、思うところがあるのだろう。
「契約の内容は?」
「彼女の言うことを何でも聞く下僕になってあげる。そして、ずっと魂の側にいる。その代わり、魂の半分を貰う」
ファウストは手の平で目を覆うと「最悪だ……」と呟いた。
「メフィストに有利すぎる」
「えっ?」
どこが有利なのか全く分からなかったグレーテルは思わず声を上げる。ファウストの瞳に、僅かに剣呑さが宿った。
「まず、魂を渡す条件を指定していない。メフィストの裁量次第で、いつでも好きに奪えるということだよ。そして、ずっと魂の側にいるということは、その魂すべてがメフィストのものになるまで、何度生まれ変わろうとも付きまとわれる」
ぱちぱち、と気のない拍手がメフィストから送られる。
「さすが、ファウスト博士。天才と呼ばれるだけあって、頭の回転がとても速い」
明らかに馬鹿にした態度に、今度はディートリヒの頰がぴくりと引き攣る。ファウストの制止が無ければ、今すぐにでも斬りかかりそうな雰囲気だった。
グレーテルは困惑しながら、ファウストとメフィストを交互に見つめる。
(ど、どうしよう……! すごく険悪だけど、何か言った方がいいのかな?)
「どうやって、契約に至ったんだい? 僕みたいな酔狂な人間じゃない限り、自ら悪魔と契約を結ぶとは思えないけど」
「契約を結ばざるを得ない状況で、提案しただけさ」
「つまり、無理強いしたってことかい?」
「まさか。彼女が自分で選択したことだよ」
「悪魔祓いは専門じゃないけど、魔術師としての腕が試されるところだね。――それで、契約を破棄する気は?」
「ないね」
メフィストは間を置くこともなく、平然とそう告げる。そして、口の端を歪めて笑った。
「なんなら、今、ここで契約を履行しようか?」
その一言が落ちた瞬間、ファウストの青い瞳がディートリヒを射抜く。合図を受けた護衛騎士は、迷いなく剣を抜き放ち、稲妻のような速さでメフィストへと斬りかかった。
白銀の軌跡が空を裂き、身を捻ったメフィストの右腕上腕をかすめる。鋭い刃は衣服を裂き、鮮血の代わりに黒い羽根を宙に散らした。
「メフィスト!」
悲鳴に近い声がグレーテルの喉から飛び出す。しかし、その肩はファウストに押し留められ、立ち上がることすら許されない。
メフィストは切られた右腕を抑え、痛みに表情を歪める。
ファウストが内ポケットから小瓶を取り出し、口で栓を抜く。そして、中身をメフィストに向かって、ぶち撒けた。
「ぐっ……!」
くぐもった呻き声が上がり、メフィストの胸元から黒い蒸気が立ち昇る。
「精製したローズマリーを満月の光で清めたんだ。効くでしょう?」
「ほんっとに……嫌な奴……っ!」
メフィストが苦悶に顔を歪めるその背後で、ディートリヒが剣を構え直し、突きの体勢に入った。
(このままだと、メフィストが……っ!)
グレーテルの呼吸が止まる。心臓が痛いほどに跳ね、全身が恐怖と焦燥で震えた。
(駄目……! 絶対に、駄目!)
失いたくない。そばにいて欲しい。契約で縛られていることに安心すら覚えるほどに、共に在りたいと願っている。
(お願い、猫ちゃん……っ!)
無意識のうちに、祈りがこぼれ落ちる。
「メフィストを守って!」
淡い、紫色の光が弾ける。
ディートリヒの手に握られた剣がはじき飛ばされ、グレーテルを押さえていたファウストの手が不意に力を失う。
解放されたグレーテルは、迷うことなくソファから飛び出し、メフィストの元へ駆け寄った。その傷ついた体を、強く抱き締める。
右腕と胸元に淡く灯る紫光が舞い、メフィストの裂けた衣服の下から覗く傷を、癒していく。
室内にいるグレーテル以外の誰もが、その光景に言葉を失い、呆然と立ちすくんだ。
「ファウストも! メフィストも!」
グレーテルが二人をキッと睨みつけ、断固とした口調で告げる。
「私の話を、私抜きで進めないで! 私はメフィストと契約したことを後悔してないし、なんなら、今までたくさん助けてもらったの! 今さら、破棄したいと思ってない! 助けてもらったぶん、ちゃんと魂も渡す!」
一気に捲し立て、肩で息をする。もしディートリヒの剣が再びこちらに向けば、と一瞬だけ不安が過ぎったが、幸いにしてファウストがその手を制していた。
グレーテルの腕の中で、メフィストがぽつりと呟く。
「……俺は、今まさに発揮された、その力を目当てに近づいたんだけど?」
「理由もなく契約を持ちかけられるより、よっぽど納得できるよ」
「ファウストは、君を理不尽な契約から救おうとしたんだ」
「でも、メフィストを傷つけた」
「ファウストより、俺を選ぶの?」
「そうだよ! 今まで、一緒に旅して、思い出を重ねてきたのは、メフィストだから!」
「…………そう」
メフィストは、闇色の瞳でまっすぐグレーテルを見つめる。その色は、嵐を抜けたあとの夜明けのように、穏やかに凪いでいた。
そして、低く柔らかな声で言う。
「ありがとう、グレーテル」




