6-08. メフィストの真意
「ファウストゥス・フォン・エルゼリヒト。それが今の僕の名前だ。ファーストネームは前世と同じだね」
「王族なんですか?!」
「ふふ、そうだよ。第二王子」
驚きの声を上げたグレーテルを、ファウストは愛しげに見つめる。
グレーテルの吐き気騒動によって、場に漂っていた緊張感は緩み、全員の頭に冷静さが戻ってきた。きらびやかな会場から出て、仮面を外す。そして、私室に案内する、と言うファウストの言葉に従い、一行は長く続く廊下を歩き出した。
「記憶を持ったまま、王族に生まれ変わるなんて、本当に悪運の強い奴」
メフィストの隣には、いつの間にか腰に帯剣をしたディートリヒと呼ばれていた紺色の髪の青年がぴったりと付き添っている。メフィストはまるで気にしていないようだが、ディートリヒは油断無く隣の悪魔を睨めつけていた。
「そう言うなよ。前世の記憶があるせいか、髪色と瞳の色が元のままでね。母が不貞を疑われて、王宮内での立場は弱いんだ」
「どうせ、政治に首を突っ込みすぎて、父親にも嫌われてるんでしょ」
「さすが。メフィストは、僕のことよく分かってるね」
ファウストがそう口にした瞬間、ディートリヒの歯ぎしりがギリッと廊下に響いた。その顔には隠しきれない怒りが浮かび、口元がぴくぴくと痙攣している。
気づいたファウストが、肩越しに苦笑を浮かべる。
「ディート、落ち着いて。今世の僕の相棒は、君だろう?」
「っ………! ファウスト様! ありがたきお言葉……っ!」
うおおおお、と雄叫びを上げ、感極まったディートリヒが瞳を潤ませる。あまりの情熱に、グレーテルは思わず言葉を失った。メフィストは小声で「前世で相棒だった覚えはないね」とぼやく。
「ディートリヒ・ワーグナー。彼は僕の護衛騎士だ。前世の弟子と同じ姓というのも、妙な縁を感じるよね」
護衛騎士というより、狂信者の方がしっくりくる。先ほどの夜会で見せた威圧感が嘘のように、寡黙で冷徹な印象は消え失せ、ただただ賑やかだ。
ファウストはある一室の前で立ち止まると、扉に手をかけた。
「使用人も入らないし、ちょっと散らかってるけど……。どうぞ」
招かれて中へ入った瞬間、グレーテルは目を瞬いた。想像していた王族の私室とはまるで違う。
目に飛び込んでくるのは、机上に鎮座する大きなフラスコ。その周囲には、細々としたガラス器具や見慣れない道具が無造作に転がっていた。
その中でも、机の中央には薄桃色の物体がプカプカと浮いた特大のフラスコが鎮座している。
グレーテルの視線に気付いたファウストは、気まずそうに後頭部を掻く。
「最近は魔術より錬金術に凝っててね。ワーグナー――前世の弟子が作ったホムンクルスを見て、僕も火がついてしまって。肉体を作ってみたんだけど、フラスコから出すと、急速に老化して崩壊しちゃうんだよね」
部屋の奥へ進みながら、ファウストはグレーテルに視線を向ける。
「昔は、賢者の石作りに夢中だったんだ。宝石箱に入れて、いくつか渡した輝石は錬金術で僕が作ったものだったんだけど、覚えてるかい?」
問われて、グレーテルは気まずそうに首を振る。宝石箱と言えば、メフィストがくれた天使の涙があしらわれたものを真っ先に思い出す。
ファウストがくれたらしいものは、記憶の中でマルガレーテが零していた「母親が教会へと持って行った」という程度しか覚えていない。
「そっか、グレーテルは前世の記憶がないんだったね。今の名前はなんていうの?」
「グレーテル・クラインです」
「わぁ! 前世の愛称が、本名になったんだ!」
ソファを示され、腰を掛けるよう促される。身を沈めた途端、ふわりと身体が深く沈み込み、これまでに体験したことのない柔らかな感触に一瞬驚いた。
「吐き気は? 無理してない?」
当然のように隣に腰掛けるファウストに、グレーテルは慌てて立ち上がる。
「あ、えっと、大丈夫です! 私、メフィストと一緒に――」
「遠慮しないで。せっかく再会出来たんだ。僕は近くにいたい」
そう言って、手を取られ、再びソファへ座らされる。逃げ場を失ったような心地に、グレーテルは無意識に視線を彷徨わせた。近くにいると、相変わらず矛盾する感情が胸を締めつけるが、直接的な接触が無いからか、吐き気は薄らいでいる。
ファウストは、メフィストとディートリヒには座るよう促さず、立たせたまま口を開いた。
「さて。何から聞こうかな」
ファウストは柔らかく微笑むと、その視線をメフィストへ移す。
「まずは、どうしてメフィストとグレーテルが一緒にいるか、だよね」
「どうしてだろうね」
メフィストが即座に、はぐらかすような態度で応じる。隣に控えるディートリヒの右手がぴくりと動いて、剣の柄に手が伸びた。ファウストがわずかな視線で制すると、その手は名残惜しげに下ろされる。
「当ててあげようか?」
優しげな笑みを浮かべたまま、ファウストは淡々と続ける。
「前世で僕とメフィストの契約を無効にした、グレーテルの力に目をつけたから――そうだろう?」
「……私の、力?」
戸惑ったのは、グレーテルだ。ファウストとメフィストを交互に見比べるが、二人は黙ったままじっと腹を探り合っている。やがて、観念したのか、先に息をついたのはメフィストだった。
「お前は本当に嫌な奴だよ」
「今のやりとりを見るに、グレーテルには何も話してないみたいだね」
ファウストは隣に座るグレーテルの両手を取り、壊れ物を扱うようにそっと包み込む。
「君は、前世で僕の魂を救ってくれたんだ。その祈りで、悪魔――メフィストフェレスに奪われるはずだった魂を助けてくれた」
「私が……あなたの魂を?」
「そう。グレーテルは、僕の恋人だっただけじゃなくて、命……いや、もっと大切な、魂の恩人なんだ」
熱を帯びたファウストの眼差しに、グレーテルは耐えきれず、助けを求めるようにメフィストへ視線を向ける。
その先で、メフィストは低く、くつくつと笑った。
「君と契約したのは、自分の利益のため、と言ったのを覚えているかい?」
グレーテルを捉えた闇色の瞳が、夜明けの色から真夜中の深淵へと巻き戻る。
「俺は君の力を、魂ごと奪うために契約を持ちかけたんだ」




