6-07. 逃げよう!
「ファウスト……」
呻くように零れた名前に、メフィストの表情がわずかに動き、鋭く人混みを見渡す。
仮面の奥に隠された無数の顔を飛び越え、魂を一つ一つ眺めていく。外見は無意味だ。けれど、生まれ変わりがどんな姿であれ、魂だけは偽れない。
――いた。
群衆の中から、まっすぐグレーテルを見据える、一人の青年。
メフィストの闇色の瞳が細められる。その魂は、間違いなく――
(ファウスト……っ!)
生まれ変わりに会わせるのは、後回しにしようと決心した途端に、こんな結果になるとは。メフィストは自嘲し、口の端を歪める。
グレーテルの様子を横目で伺う。その足が、一歩、ファウストの方向にふらりと踏み出されたのを見て、内心で舌打ちした。
(この子の口から嫌悪の言葉が出る前に……今すぐ、魂を半分取ってしまうか?)
そう逡巡した瞬間、ガッと強い勢いで手を握られ、引っ張られる。
「逃げよう、メフィスト」
グレーテルの口から出た言葉に、メフィストは意表を突かれ、目を瞬く。
「えっ」
「こっちに来そう!」
今までになく必死な声で、グレーテルはメフィストを引き連れ、人混みの中を駆け出した。
「どうして……?」
予想外のグレーテルの行動に、メフィストは半ば呆然として問いかける。グレーテルは困ったように笑った。
「えっと……うまく言えないんだけど……記憶がないのに、あの人のことを懐かしいとか、愛してたって気持ちが溢れてきて……」
うーん、と頭を捻り、そして、ひとつ頷く。
「そう、違和感! なんか気持ち悪い!」
グレーテルはきっぱりと言い切り、ちらりとファウストの生まれ変わりである青年を振り返った。走り出した二人を追うためか、人混みの間を縫うように追いかけて来る。
「思い出さないの?」
手を引くグレーテルを見つめながら、メフィストは思わず問いかけた。
「何を?」
「前世の記憶。あいつと一緒にいた時のこと」
「全然!」
宝石箱で前世を思い出したのが嘘のように、一欠片も記憶は蘇らない。感情だけが先走り、思い出が伴わないのは、ただただ気味が悪い。気持ちと記憶のズレに、吐き気のようなものが込み上げる。
会場の出口に向かうが、人混みで身動きが取れない。このままでは追いつかれる。まごつくグレーテルの腕を、メフィストがぐいと引いた。
「こっち。庭園から飛んでいい?」
グレーテルは迷わず頷いた。
「仮面を着けてるし……私たちだって、分からないよね?」
「あはは、君も悪魔の契約者らしくなってきたね」
「い、今は、非常事態だから!」
二人は庭園へと向かう。扉は開け放たれ、月明かりが木々の葉を白く照らしていた。あちこちで、仮面を付けた人々が密やかに語らい、自分たちの世界を楽しんでいる。
あと少しで外に出られる――そう思った瞬間、紺色の長髪を後ろで一つに束ねた男がメフィストとグレーテルの前に立ち塞がった。
最初は、運悪く人混みに当たった偶然のように思えた。けれども、銀色の仮面の下から向けられる視線は、紛れもなくメフィストに狙い定めている。
男の口が、小さく動いた。
「光を嫌う者よ」
途端に、びくりとメフィストが痙攣し、動きを止める。驚いたグレーテルが、隣を見上げた。
「メフィスト?」
闇色の瞳が、悔しそうに眇められる。ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、唸るように声を絞り出した。
「っ……やられた……っ! 俺の名の意味を知ってるってことは、ファウストのやつ……記憶があるのか!」
正面にいる男が、一歩、また一歩と近づいてくる。歩くたびに、首の後ろで結かれた長い髪が、ゆらゆらと不気味に揺れた。
「我が主を侮ったな、悪魔め」
周囲のざわめきに、かき消されるほどの小さな声。それでも、言葉にははっきりと怒気が込められていた。きらびやかや夜会に夢中な人々は誰も気づかない。だが、グレーテルはその迫力に気圧され、身体が竦む。
「ディートリヒ、それくらいで」
背後から、柔らかな声がかかる。グレーテルの肩に、ぽん、と優しく手が置かれた。追いつかれたのだ。
振り返らずとも誰なのか分かった。記憶にないはずなのに、心の奥から喜びが込み上げ、吐き気がするほど気持ち悪い。
「ようやく会えたね。僕のグレーテル。ずっとずっと、探してたよ」
ゆっくりと振り向けば、仮面の奥から覗く吹き抜けるような青色の瞳が、優しく微笑む。
その横で、紺色の髪の男は黙したまま、身動きが取れないメフィストを睨めつけていた。
「万が一を考えて、メフィスト対策をしてたんだけど……。本当に一緒にいるとはね。外れて欲しい予想だったなぁ」
するりと手が伸び、グレーテルの顔に添えられる。ゆっくりと親指の腹で、頬を優しく撫でられた。
記憶にない相手の愛情表現に恐怖を覚えながらも、魂の奥では、相手がファウストであることに喜んで震えている。
相反する感覚がぶつかり合い、胃がぐるぐると掻き回された。喉の奥がきゅっと締まる。
――まるで空を飛んで酔った時のように。
「キス、していい?」
ゆっくりと首を傾げる青年を前にして、グレーテルはパッと手の平で唇を覆った。
「は……」
「ん?」
柔らかな声で、青年が聞き返す。星を溶かしたようなプラチナブロンドが、会場の灯りをふわりと反射した。
「吐いていい?」
一瞬の沈黙が、何万秒にも感じる。
「えっ」
ファウストの生まれ変わりである青年と、メフィストの声が綺麗に重なった。
グレーテル「おえぇ」
ファウスト&メフィスト(ほんとに吐いた……)




