6-03. 完璧な魔除け
「えっ……かわっ……えっ?! かわいい!」
ちょこんと、足元に座る黒いプードルは、抱き上げれば腕の中にすっぽり埋まるほどの大きさだった。ふわふわの毛並みが、見ているだけで癒される。
グレーテルは思わずしゃがみ込むと、両手を広げてゆっくりと手招きする。
「こっち、おいで〜。なんか食べれるもの持ってたかな?」
小さなプードルは、闇色の瞳でじっとグレーテルを見つめたあと、小首を傾げた。
「俺だって、分かってる?」
その声を聞いて、グレーテルはピシリと固まる。聞き間違えるはずがない。毎日のように聞いているこの声色は。
「やっぱり……メフィストなの……?」
広げた両手をゆっくりと下ろして、グレーテルは目の前のプードルを凝視する。
ふわふわで、つぶらな瞳。どこから、どう見てもただの可愛い犬。
(こ……これは、正体がメフィストだとしても……)
グレーテルの手がわずかに震える。
(撫で回したいっ!)
「ごめん……っ! メフィスト……っ!」
グレーテルはプードルに手を伸ばし、そのまま抱き上げる。本物の犬とは違い、いつも通り、真冬の水のように冷たい体温だが、グレーテルは気にせず、わしゃわしゃと頭や背中の毛を撫でくりまわす。
「かわいいなぁ! よーしよしよし……」
相手は動物ではない。メフィストだ。それなら、多少強引に可愛がっても噛まれたり、怯えられたりはしないはず。
案の定、プードル姿のメフィストは何も言わず、グレーテルにされるがままになっている。
(ミカエルさんが、リスになれるなら、もしかして……とは思ってたけど)
ぐりぐりと背中の毛に顔を埋めて、息を吸う。想像とは裏腹に、真夜中のような、静かで、落ち着いた香りがした。
(メフィストの匂いだ)
安心するような、くすぐったいような、不思議な気持ちになる。
「そろそろ、行こうか?」
かわいいプードル姿のメフィストから、低く柔らかい声が響く。グレーテルは慌てて背中から顔を離した。
「そうだね。……このまま抱っこして連れて行ってもいい?」
「あはは、俺の契約者様が犬好きで良かった」
◆
メフィストは大聖堂の脇にある、植栽の茂みに、小さな体を器用に捩じ込んだ。
(さっさと終わらせて、あの子を迎えに行ってあげないと)
大聖堂前の広場に残してきたグレーテルを思う。もう、子供ではないことは分かっている。けれど、見慣れぬ都会の空気に目を輝かせ、きょろきょろと辺りを見回す姿は、どうにも危なっかしい。
大きな都市には、不遜な輩もいる。騙されない保証など、どこにもない。
(あの子が、俺以外のものに騙されるのは、あまり気分が良くないな)
支配欲か、所有欲か。いつしか、メフィスト自身も言葉にしきれぬまま、グレーテルに対して独占欲じみた感情が滲み出てくるのを感じ始めていた。
(――どうせ、嫌われるのに)
メフィストは茂みから飛び出ると、堂々と庭を横切る。
神官らしき者たちが、可愛い侵入者を見つけて、和やかに目を細めた。誰も、外に追い出そうという者はいない。
(一緒にいたい、と言われるのは悪い気分じゃないんだけど)
グレーテルの口から、何度でも聞きたいと思うのだ。そう言われるたびに、メフィストの中にある自尊心がくすぐられる。
(とはいえ、結局はマルガレーテの生まれ変わりだからね)
ファウストの生まれ変わりに出会えば、そちらに心を奪われるに決まっている。そうなれば、かつてのマルガレーテのように、悪魔である自分を忌み嫌うのだろう。
(力は欲しいけど……ファウストの生まれ変わりに会わせるのは愚策か?)
メフィストの考えが揺れ動く。しかし、どれだけ考えても結論は出ない。
薄く開いたドアを見つけ、素早くその身を滑り込ませる。幸いなことに、入ってすぐの回廊には誰もいなかった。
そのまま、あてもなく回廊を進む。しばらくして、ひときわ大きな扉の前で足を止めた。
重厚な扉には、エルゼリヒト王家の紋章――エーデルワイスが彫り込まれていた。正面には頑丈な閂と錠。
そして、何よりも目を引いたのは――
(完璧な魔除けだ)
扉の両側に描かれた、正位置の星を用いた陣。そこから立ち上る気配に、メフィストは内心で舌を巻く。薬草や祈り程度のまじないとは、格が違う。
触れれば、メフィストと言えど、無事では済まないだろう。
(このレベルの魔除けを施せる奴は、ファウストくらいだと思っていたけど)
いつの世にも、魔術に精通した者は現れるらしい。
メフィストは、ゆっくりと来た道を引き返す。
(教会の中に王家の紋章……となれば、考えられるのは墓所か)
教会が歴代王族の遺体を管理しているのだろう。人間の肉体を狙う魔物から守るために、強力な悪魔除けが施されているのも道理だ。
さて、次にどこへ向かおうか、と思案し始めたとき、ふと前方から人の気配を感じる。
メフィストは素早く柱の陰に隠れ、様子を伺った。
現れたのは、恰幅のいい中年の男だった。顎に豊かな茶色の髭を蓄え、のしのしと重そうな足取りで回廊を進んでいる。
一般の神官が着用する紺色の法衣とは異なる、目にも鮮やかな緋色の法衣をその身に纏っていた。
(……大司教)
メフィストは、闇色の瞳を細める。
王都で最も高位にある神官。
気配を殺してやり過ごし、大司教が通り過ぎたところで、一定の距離を保ちながら後を追う。
(教会の最高権威が、人攫いを主導してるのかどうかを確かめるべきだな。ルシフェルの言っていた、異端審問官に配布されている呪いに関しても、詳細が分かればいいけど……)
やがて、大司教は回廊の角にある螺旋階段の塔へと入っていった。ほどなくして、ガチャリと鍵が開く音と共に、バタンと重たい扉が閉じる音が響く。
メフィストは駆け足で階段を上り、扉の前で立ち止まった。
(ここにも、魔除けか)
扉に特に特別な意匠は施されておらず、一見すると普通の部屋に続いているように見える。それにしては、王家の墓所と同等――いや、それ以上に強力な結界が張られている。
しかも、ただの侵入防止ではない。扉から漂う気配には、内部の何かを閉じ込める意図すら感じられた。
メフィストは扉をじっと見据える。
魔法であっても、まじないを破壊することは出来ない。ここで大司教が出てくるのを待ち、捕まえて、吐かせようかと逡巡し――くるりと踵を返した。
(乱暴なやり方は、あの子が好まないだろうからね)




