1-07. ぼぐぼぐ
声が聞こえる。
ぼんやりと霞がかった意識の奥底で、誰かの声が反響する。言葉の内容まで理解出来ないが、その声の主は笑っているような気がした。
「ふふふふふ! はーっはっはっは!!!」
いや、内容も何も無い。ただただ、高笑いをしているだけだ。
「よし! よしっ! これで俺も出世への第一歩を踏み出したぞ!」
ぼぐっ、ぼぐっ。何か柔らかいものを殴るような鈍い音。小麦粉の詰まった麻袋を叩いている音に似ている。
「しっかしまぁ! こんの、ポンコツ!」
声の主は、間違いなくマティアスだった。だが、先ほどとは余りにも口調が異なり、まるで別人のようだ。
「女って言ったのに、女顔の男を連れてきやがって!! あーもう、ほんと、肝が冷えたぜ。家に帰ってくれて良かったぁ」
ぼぐっ、とまたくぐもった音がする。
「まぁでも、おかげで、親無しの女の子を見つけられたし、結果オーライだな! 悪魔にでも攫われたことにすれば、お友だちも諦めるだろ」
グレーテルはゆっくりと瞬きをする。全身の倦怠感が酷く、瞼が重い。どうにかして目を開けると、視界の端で、誰かが動いた。――いや、それは誰かではなかった。
全身が漆黒に染まり、炎のように輪郭が揺らめいている。人の形を模した影が、マティアスの隣に立っていた。見てはいけないものを直視してしまったような、嫌な寒気が首筋を這う。
おおよそ顔にあたる部分。そこには、目のようなものが、ぽつりとふたつ、赤く、じっとりと輝いていた。虚空を見つめる、不気味な赤。
グレーテルの体が、恐怖に震えた。
状況を確かめようと、体を動かそうとするが――駄目だ。転がされたまま、手も足もまるで動かない。麻縄のようなもので、きつく縛られているのが分かった。少しでも動こうとすれば、皮膚に食い込むような鈍い痛みが走る。
そして、ここは――教会の横の宿舎では、ない。
頬の下に感じるのは、硬くざらついた木の床。けれど、壁はない。風が吹き抜ける。湿った夜気が、むき出しの肌を撫で、体温をじわじわと奪っていく。秋の夜は冷たい。どうやら、荷馬車に乗せられているらしい。
「よっし、そしたら俺は宿舎に戻って、明日の朝追いかけるからな。しっかり、その子を連れて行けよ」
グレーテルは重たい首をなんとか持ち上げ、顔を上げた。マティアスが気安い友人にするように、黒い影の肩あたりを叩いている。そして、叩くたびに、ぼぐぼぐ、とくぐもった音がする。
(あれ、肩をばしばし叩く音なんだ……)
「あーはっはっは! 小麦畑の風が気持ちいぃ〜ぜ! あ、そうだ、荷台に布掛けるの忘れんな――」
マティアスと目が合う。「よ」という文の最後の一文字が口から零れ落ちた。
「まじかよ。もう目が覚めてんの?」
驚きを隠せないと言った様子でマティアスが垂れ目を見開く。そして、隣にいる黒い影を軽い調子で叩いた。ぼぐっ、とまた音がする。
「ほんっとさぁ、お前、しっかりしてくれる? もう一度、眠らせて! ほら!」
状況は把握出来ていないが、このままだと、また意識を奪われる。けれど、身体は縛られており、逃げることは不可能だ。
せめて、言葉で、会話で何かこの状況から脱する糸口を見つけられないだろうか?グレーテルは慌てて口を開いた。
「し、神官様! あの、その、隣にいる影は……?」
影を小突いていたマティアスが、手を止める。
「んー、んんっ、ごほん」
軽く咳払いをして、にこりと微笑む。
「わたしの相棒のレムルだ」
今更、表情と口調を取り繕ったところで意味はない。
「えっと……無理にその口調で話さなくてもいいですよ……?」
グレーテルの声は、自分でもわかるほどに引きつっていた。
「あ、そう? じゃ、遠慮なく」
一拍置いて、マティアスは肩の力を抜き、大きく背伸びするような仕草をして、砕けた口調に戻った。
「いやー、あの喋り方、かたっ苦しくて好きじゃないんだよね~。ま、神職なんてやってると、砕けた口調で話してたら怒られるし、威厳も無くなるから、仕方なく、ってやつ?」
グレーテルはマティアスの切り替えの速さに閉口する。人は見かけによらないものだ。
視線をそらすと、そこには未だ無言で立つ影――マティアスが「レムル」と呼んだものがいた。
レムル。
それは、あの黒い何かの名前なのか? それとも、あの存在そのものを指す種族の名か? グレーテルには分からない。
「レムルは、魔物なんですか?」
思い切って訊ねてみれば、マティアスはうーん、と悩む素振りを見せる。
「さぁ? なんなんだろうな、こいつ」
ぼぐぼぐ、とマティアスが雑に肩を叩くたびに、くぐもった音がする。
「俺が考えるに、こいつは――」
「人間の魂の成れの果てだよ」
突如、マティアスの言葉を遮るように、頭上から声が降ってきた。この場にいた誰の声でもない。低く、穏やかに響く声。グレーテルはこの声に聞き覚えがあった。
「悪霊や死霊とも呼ばれる。この世を恨み、囚われ、輪廻に乗れず、彷徨い続ける魂。それがレムルだ」
瞬きの間に、突然現れた青年に、マティアスがぎょっとして後ずさる。青年は荷台の縁に腰掛けて、足を組み、その上で頬杖をついて、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
秋の夜風が、さらさらと青年の黒髪を揺らす。紫炎のような闇色の瞳が、闇夜の中で揺ら揺らと煌めいた。その瞳がマティアスの右手中指にある指輪を捕らえて、細まる。
「銀で出来た指輪かな? 裏側にその可哀想な魂を縛るまじないでも、仕込んでるのかい?」
マティアスが隠すように左手で指輪を覆う。
グレーテルが青年に向かって「悪魔……」と呟けば、マティアスは小さく悲鳴をあげて、レムルの後ろに隠れた。レムルは動揺することもなく、ぼんやりとその場に佇んでいる。
グレーテルが身体を捻って見上げれば、こちらを見下ろす闇色の瞳と目が合う。黒尽くめの悪魔はにこりと笑った。
「助けてあげようか?」
グレーテルの胸に一抹の希望が灯る。
「俺と契約したらね」
一瞬で絶望の底に叩き落とされた。