5-07. おらぁっ!
ローレライの歌や、川に落ちるどぼんっ、という音が聞こえてくる中、グレーテルはそわそわと舞台上を見つめていた。
フリッツが足の高い台を運び、舞台の中央に据える。そこへローズが近づき、そっと手を伸ばすと、肩の上からヴァイセルがぴょんと飛び降りた。
赤いシャコー帽をちょこんと被り、金飾りのついた立派なジャケットを身にまとっている。小さな体で台の上に立ち、胸を張ったその姿に、観客から笑い声があふれた。
フリッツがホルンを、ローズがフルートを構える。両脇ではスネアを首から下げたエルマーと、体躯の倍以上あるコントラバスを抱えて椅子に座るハイダ。
四人が軽く目配せを交わし、中央にいるヴァイセルに注目した。
小さなリスがきゅっと片手を上げる。四人がぴたりと楽器を構えた。
そして、体躯に似合わないダイナミックな指揮と共に、演奏が始まった。
「………………」
隣に立つメフィストから、うめき声ともため息ともつかぬ声が漏れる。やはり、ヴァイセルに何か思うところがあるらしい。
音楽が広場いっぱいに響き渡り、聴衆は旋律に合わせて手を叩き始めた。ローレライの歌声はいつの間にか消え、川に落ちる音もしなくなっている。
グレーテルも手拍子を打ちながら、音楽に身を任せる。
(こんな楽しい演奏、はじめて!)
心が踊るようなリズムに合わせて、自然と体が揺れる。耳元では、イヤーフックの鈴がチリンチリンと弾むように鳴った。
フルートを吹くローズが、中央に進み出る。そして、旋律の中で一拍置いて、まるで風が流れを変えるように、澄んだ音色でメロディラインを奏ではじめた。
その瞬間に、ざわりと空気が揺れる。
びりびりと鼓膜を刺激する音に、明らかに普通の演奏とは違う何かを感じる。
隣で聞いていたメフィストも唖然として、ローズを見つめていた。その身体がふらりと傾ぐのを見て、グレーテルは慌てて手を引き、支えた。
「だ、大丈夫? メフィスト」
演奏の邪魔にならないように、こっそり声を掛ける。メフィストは鷹揚に頷いた。
「今のところ、問題ないよ」
そう返事をしながらも、メフィストは視線をローズから外さない。
「けど、なんであのリスが一緒にいるのかよく分かった。彼女の音楽は魔を寄せる」
「見ててごらん」とメフィストがローズを示す。グレーテルには意味がよく分からなかったが、促されるままに、舞台上を見つめた。
――ざばんっ
舞台の後ろ、川の方向から、水の音がした。観客席から小さなどよめきが上がる。
川底から這い出てきたそれは、人間に限りなく近い形をしていた。淡い水色の髪は、毛先にいくほど金色へと色を変え、肌はうっすらと緑がかっている。白目のない瞳は、紺碧に深く染まり、じっと舞台を見つめていた。
「ローレライが寄ってきた」
「あれが、ローレライ?!」
グレーテルははっとする。さっき、川底で見えた水色と金色――あれは、ローレライの髪だったのだ。
『みーんな、寄ってくるんだよ!』
という、エルマーの言葉を思い出しながら、グレーテルは目を回す。
(みんな、って魔物も含まれるの?!)
川から這い上がってきたローレライたちは、ずるずると滑るように、ローズに近づいていく。
心配になったグレーテルは、思わずメフィストの袖をきゅっと引っ張った。
「ローズ、大丈夫? 助けたほうがいい?」
「リスがいるから平気」
「え?! ヴァイセル?!」
リスはローレライに対する魔除けになるんだろうか? 混乱しながらも、はらはらした気持ちでグレーテルは舞台に視線を戻す。
すると、ローレライに気づいたヴァイセルが、動きを止めた。小さな手による指揮は止まるが、演奏は止まらない。
ローズも、フリッツも、エルマーも、ハイダも。明らかに異様な存在が迫っているにもかかわらず、誰ひとりとして怯えることなく、音を紡ぎ続けていた。
ヴァイセルは慌ただしく台から飛び降りると、どこかへ姿を消してしまう。
(に、逃げた……?!)
本能に忠実な動物としては正しい行動だろう。けれど、残ったローズたちはどうするのだろうか?
「メ、メフィスト……やっぱり……」
不安になって隣を見上げれば、メフィストは動じることなく成り行きを見守っている。
「大丈夫だよ」
ぽん、とグレーテルの頭に冷たい手が置かれた。優しげな仕草に、グレーテルは思わずドギマギする。
(でも……ローズたち、危ないんじゃ……?)
心配とときめきが入り混じって揺れる中、舞台の横で突如響いた声が、空気をぶった切った。
「おらぁっ!」
驚いて声のする方に視線を向ける。そこには、ローレライの襟首を掴んでは、躊躇いなく川に投げ入れる青年の姿があった。
そして、その容姿には非常に見覚えがある。
「金髪の、ルシフェルさん?!」
グレーテルが思わず声を上げるが、聴衆のざわめきの中へ飲み込まれる。
服こそ真っ白だが、左肩に垂れた長い三つ編み、翡翠色の瞳。なにより、顔立ちがルシフェルにそっくりだ。ただ、眉間にシワはなく、満面の笑みでローレライに掴みかかっている。
その光景にぽかんとしていると、隣でメフィストが喉の奥でくつくつと笑った。
「ルシフェルの双子の弟、ミカエルだよ。ヴァイセルの正体」
グレーテルは目を見開いたまま、言葉を失う。
それは、すなわち、天使では? 天使がリスになれるなんて、初耳だ。
(も、もしかして……ルシフェルさんが蛇に、メフィストが犬になれるっていうのも……)
いつかの酔っ払いの戯言を思い出して、グレーテルは黙り込む。そこに、メフィストが付け加えるように、そっと耳打ちした。
「楽団の人たちには内緒だよ」
「内緒も何も、ヴァイセルがいなくなった途端に人が出てきたら怪しすぎるよね?!」