5-06. 自覚
音楽奉納の当日は、前日までの雨が嘘のように晴れ渡っていた。
「わぁ! いい天気!」
「川も増水してないし、落ちても大丈夫だね」
「落ちる前提で話さないで……」
広場に向かって連れ立って歩きながら、グレーテルはふと気になったことを口にする。
「メフィストはローレライの歌声に惹き寄せられないの?」
「魔物の出す音には、寄せられないよ」
「まじないもあんまり効かないみたいだし、強いんだね」
「そうとも限らないさ。俺に向けて作られたまじないなら、よく効くよ」
「ふーん?」
まじないのことはよく分からない。グレーテルは首を傾げるのみに留め、それ以上は詮索しなかった。
広場に着くと、すでに大勢の人々で賑わっていた。
周囲にはいくつもの屋台が立ち並び、皆が飲み物や軽食を手に、音楽奉納の始まりを今か今かと待ちわびている。
よくよく周囲を見渡すと、ちらほらと耳に鈴飾りをつけている人の姿が目に留まった。
イヤーフックと呼ばれる形の飾りは、動くたびに「チリン、チリン」と小さな音を立てて揺れている。
(かわいい……)
どこかに売ってるのだろうか、と視線を彷徨わせた時、隣にいたメフィストが「あ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「ちょっと待ってて」
思い出したようにサッと姿を消したメフィストに、グレーテルは疑問符を浮かべる。
(屋台にお酒でも売ってたのかな?)
こうしてメフィストが席を外すのは珍しい。これまでは、寝てる間などにふらっといなくなることはあっても、日中は大抵すぐ側にいることの方が多かった。
コスモスの村にいた頃は、メフィストの目を盗んで逃げようと考えていたのに――今では、黙ってどこかへ行ってしまうなんて、想像もできない。
(メフィストも少しは、私のこと、信用してくれてるのかも)
そんなことを思いながら、グレーテルはその場に留まり、舞台へと視線を向けた。
ローズたちの出番はまだのようだった。その代わりに、朝から酒をあおった陽気な人たちが、舞台の前で肩を組み、大声で歌っている。
周囲の人々も手を叩いて音頭を取り、大笑いしていた。
(メフィストが戻ってきたら、私も舞台前に行こうかな)
そう考えていたとき。風に乗って、ふわりと柔らかな音が耳に届く。
その音は、まるで、全身を包み込むように温かで、不思議な韻律を奏でている。恋偲ぶような、誰かを呼び求めているような、魅惑的な音。
(どこから……?)
グレーテルの足がふらりと動く。声が聞こえる方に、自然と引き寄せられる。
(川の方からだ)
メフィストのことを、あの場所で待たないと、という思いが頭を掠めたが、足は止まらない。気づけば、周囲の何人かが吸い寄せられるように同じ方向に向かっていた。
川が見える。その水底では、水色と金色が混ざった何かが揺らめいている。
直感的に理解した。呼んでいるのは、水底にいる者たちだ。
(行かなきゃ)
欄干に、そっと手をかけた。
「あはは、そのまま落ちる?」
両耳が、真冬の水のような冷たい温度に覆われる。聞こえていた音が途切れ、グレーテルが目を瞬いた。
すぐ背後に、メフィストが立っている。ふわりと香ってくる、真夜中のような、静かで、落ち着いた香り。
ギーアモッテから守ってもらった時には、その香りに気づきもしなかったのに。
「……落ちないよ。メフィストが止めてくれたから」
グレーテルは自分の手を、両耳に添えられたメフィストの手の上に重ねる。
ゆっくりと振り返る。視線を上げれば、闇色の瞳がじっとこちらを見つめていた。夜明けのように凪いだその色に、グレーテルの胸が高鳴る。
(天使が恋をするのなら――)
重ねた手に、願いを込める。
(悪魔も恋をするのかな?)
――そうであればいいな、と思う。
畏れ多くて、言葉には出せなかった。けど、いつか、メフィストが魂を取るその時までに。ほんの少しでも希望を持つことを、誰も咎めはしないだろう。
グレーテルが手を離すと同時に、メフィストの手も両耳から離れていく。名残惜しさを感じたその時。
――どぼんっ
目の前の川から飛沫が上がる。そして、周囲では大歓声が上がった。
「ローレライに魅了されて、川に落ちたね」
メフィストがくつくつと笑っている。グレーテルが川に視線を向けると同時に、耳元で、チリンと小さな音が鳴った。
「あれ?」
そっと右耳に手を伸ばす。そこには、広場で見たイヤーフックが掛かっている。
驚いたグレーテルは、メフィストを見あげた。
「ローレライの魅了を和らげてくれるまじないだよ」
「もしかして、これを買いに?」
「落ちるのは、嫌なんでしょう? すっかり忘れてたけど、広場で見かけて思い出してね」
嬉しさが胸に込み上げてくる。この気持ちをどう形容すればいいのか、グレーテルには分からなかった。
「ありがとう、メフィスト」
本当は、ありがとうでは収まりきらない。けど、伝えられる感謝の言葉を、グレーテルはこれしか知らない。
「どういたしまして」
メフィストの双眸が柔らかく細まる。
――どぼんっ
また飛沫が上がり、二人は同時にそちらを振り向いた。新たな歓声が湧き上がる。
「あはは、ほんと酔狂な催しだね」
「でも、みんな楽しそう」
川に落ちた人も、欄干に寄りかかって見学している人も、みな、笑顔だ。
舞台を振り返れば、その上ではローズたちが演奏の準備を始めている。
「メフィスト! 音楽奉納、始まっちゃう!」
「あのリスの滑稽な姿を見届けてやらないとね」
「かわいいのになぁ……」
「犬のほうが、かわいいよ」
「また突然の犬?」
グレーテルはメフィストを見つめる。絵画のように美しいその横顔には、微かに笑みが浮かんでいた。