1-06. お仕事の時間
グレーテルとマルテが、シーベルの両親に伝えに行こうかと相談していたとき。ベッドから、むにゃむにゃとした声が聞こえてきた。
「んぁ……ボク……あれ?」
呑気な声に、マルタが振り返った。
「シーベル!」
ベッドの上では、シーベルがまだぼんやりとした顔で、まぶたを重そうに開けていた。
「んー……ここ、どこ……? グレーテル? マルタ……?」
寝ぼけた声で、次々と名前を呼びながら、目を細めて部屋の様子を見回すシーベル。その呑気さに、グレーテルは思わず苦笑した。
「よかった……。目を覚ました」
胸を撫で下ろすようにしてつぶやくと、マルタはベッドの枕元に歩み寄り、腰に手を当ててシーベルをじろりと睨みつけた。マルタの猫目がこれ以上ないほどに吊り上がる。
「こっちは、あんたのこと探して大騒ぎだったんだからね! 神官様にも迷惑かけて!」
「え、えぇ? ごめん……? ボク……道、歩いてて……急に、くらくらして……あれ?」
ようやく事態を思い出しかけたのか、シーベルが額を押さえる。グレーテルが少し身を乗り出し、心配そうに声をかける。
「大丈夫? どこか痛いとこある?」
「んー、頭が、ちょっと……。でも、たぶん大丈夫。マルタが怒ってる方が怖い!」
「な・ん・て?」
シーベルは慌てて顔をそらし、ひぃ、と小さな悲鳴をあげる。その姿を見たグレーテルは思わずくすりと笑ってしまった。緊張と心配の空気が、ようやく少しほぐれたようだった。
その様子を黙って見守っていたマティアスは、水差しからコップに水を注いでシーベルに差し出した。右手の中指にある銀色の指輪が、きらりと光った。
(神官様も指輪とかするんだ)
安心したからか、今まで気づかなかったことに目が行く余裕が出てきた。シーベルはマティアスから水を受け取ると、感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます、神官様」
「目が覚めて何よりだよ。ご両親を呼んでこようか?」
「いえいえ! 自分で歩いて帰れます!」
シーベルはコップをサイドテーブルに置くと、ベッドからゆっくりと降りて立ち上がった。そして、軽くぺこりと頭を下げる。
「ご迷惑をお掛けしました」
「とんでもない。身体に気をつけて」
マティアスは柔和に微笑むと、グレーテルたちを玄関へと導く。そこで、マルタが「あっ」と声を上げた。何事だろう、と全員がマルタに注目する。
「グレーテル、あの話を神官様にしないと」
「あの話?」
グレーテルは首を傾げる。一体なんのことだろう、と頭を捻るが、思い出せない。その様子を見たマルタは呆れたような顔をする。
「悪魔!」
「あっ! そっか!」
「悪魔」という単語に、マティアスとシーベルがぎょっとした顔をする。マルタはシーベルの腕を引っ張ると、そのまま玄関に向かう。
「え、ボクも気になる!」
「あんたは帰るの! お母さんも探してるんだから!」
「そうなの? でも、ちょっとくらい……」
「ちょっとも何もない! グレーテル! あたしは、シーベル送り届けて、親に泊まりのこと聞いてくるから! 直接、家に来て!」
「あいたたたた! 分かった! 分かったから! 腕に爪を立てないで! グレーテル! あとで詳しく教えてね!」
マルタに引きずられながら遠ざかっていくシーベルの姿を、グレーテルは苦笑いしながら見送り、手を振った。パタン、と玄関の扉が閉じたところで、マティアスと向き直る。マティアスは口元に笑みを浮かべてはいたが、その視線は先程よりも鋭くなっていた。
「それで、悪魔というのは?」
グレーテルは小さく頷き、今朝家に悪魔が入ってきたことを簡潔に伝えた。話し終わると、マティアスは難しい顔をして「うーん」と唸った。
「まずは、家の中を清めた方が良いかもしれない。玄関には魔除けを飾るといいけど、悪魔に効くような強力なものあったかなぁ。ご両親にも、もう相談した?」
マティアスは、グレーテルが一人で留守番をしている間に起こった出来事だとだと思ったらしい。グレーテルは首を横に振り、遠慮がちに告げる。
「えっと……両親はいなくて……」
マティアスは察した様子で、申し訳なさそうに眉を八の字にする。
「すまないね。悪いことを聞いた」
「いえ!」
マティアスは垂れ目を細めて朗らかに笑うと、右手の中指にある銀の指輪を、ゆっくりと擦るように撫でる。
「お友達にも、悪魔の話はしたんだね?」
「はい。今日は家に帰らず、泊めてもらおうと思って……」
「君は信心深い?」
突然の問いに、グレーテルは小さく瞬きした。唐突すぎる質問に、胸の奥がわずかにざわつく。けれど、これも――悪魔を退けるために必要なことなのだろうか。
母親の信心深さを思えば、素直に頷くことはできなかった。かといって、教会の教えを軽んじているわけでもない。結局、グレーテルは言葉を選びきれずに、ただ曖昧に首を傾げることしかできなかった。
その様子を見たマティアスは、ふっと苦笑する。
「まぁ、最近の若い子は、そんなもんだよね」
「あ、えっと、すみません……。でも、神官様の説教を聞くのは好きです」
感じていることを率直に伝えると、マティアスは一瞬、意外そうに目を見開いた。それから、ふっと顔を綻ばせた。
「そう言ってもらえると、嬉しいね」
そして、マティアスは「よし」と小さく呟きながら、指に嵌めた銀の指輪を軽く叩いた。その仕草に、グレーテルは違和感を持ちながらも、神官の次の言葉を待つ。
「信心深さはさておき――素直なところは、素晴らしいね。よし、君にしよう」
マティアスは、指輪を嵌めた右手をゆっくりと持ち上げた。その手は、まっすぐにグレーテルを指し示している。
「仕事だ、レムル」
その声を最後に、グレーテルの視界は闇に包まれ、意識はふっと途切れた。