5-03. あ?
宿のロビーでは、ひとりの少女がフルートを吹いていた。
真紅の髪が演奏に合わせてふわりと舞い、まるで音楽そのものと踊っているかのようだった。笛の音は清く軽やかで、聴く者の心をすっと澄んだ気持ちにさせる。
グレーテルは、自然とその音に引き寄せられ、人だかりの輪に加わる。視線を少女の方へ向けたその瞬間――目を丸くした。
「かっ……かわいいっ!」
少女の足元に据えられた小さな台の上。そこには、音楽に合わせて踊るリスの姿があった。
珍しい真っ白でふわふわの毛並みに、ところどころ黄金色の縞模様が入っている。まんまるとした愛らしい姿が、ひらひらと手足を動かし、旋律にぴたりと合ったステップを刻む。
「すごい……ちゃんと音に乗ってる……」
グレーテルが驚きを共有しようと、隣にいるメフィストを見上げた。
てっきり、同じように驚いているかと思えば、メフィストは、ひくりと頬を引きつらせて、何故かドン引きしていた。
「どうしたの……?」
演奏の邪魔をしないように、グレーテルが小さな声でこそっと訊ねる。
メフィストがリスを凝視しながら、低い声で囁いた。
「どうもこうもないよ。あのリス……」
その時、フルートの音が途切れ、周囲からわっ! と歓声と拍手が上がる。グレーテルも慌てて、それに倣って拍手を送った。
赤髪の少女が優雅に三方礼をする。その足元では、あの白いリスまでもがぺこりとお辞儀をした。
リスが顔を上げる。その動きがピタリと止まった。つぶらなくりっとした瞳が、グレーテルとメフィストを捉える。
その瞬間、リスが跳ねるようにメフィストの顔面に飛びかかった。
「あっ! ヴァイセル! 駄目よ!」
気づいた赤髪の少女が声を上げたが、その時にはすでにメフィストの顔にヴァイセルと呼ばれたリスが、ベッタリと張り付いていた。
「…………っ」
周囲の観客からどっと笑い声が上がる。
「こんの……っ!」
ヴァイセルをべりっと引き剥がすように掴み上げたメフィストは、思わず語気を荒げる。しかし、すぐに思い直したように言葉を飲み込み、意地悪く口の端を上げた。
「どこかの誰かさんみたいに、畜生に向かって怒鳴るのは趣味じゃないからね」
メフィストの手の中で、まるで、ヴァイセルは喧嘩を売るように小さな拳を振り回していた。
慌てて駆け寄ってきた赤髪の少女が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。うちの子がご迷惑を……」
「俺は構わないよ。けど、このリスの名前は、ミカ……いたっ」
「あぁっ! 本当にごめんなさい! お怪我は?!」
どうやら、ヴァイセルがメフィストの指に噛みついたようだ。
「わっ……メフィスト、大丈夫?」
グレーテルが慌てて手元を覗き込む。しかし、出血どころか、血が滲んでいる様子もなかった。
「結構、思いっきり噛まれてたよね?」
「まぁ、そういうものなんだよ」
メフィストが曖昧にはぐらかす。
その様子に、グレーテルは、以前、「肉体がなく血が通ってない」とメフィストが話していたことを思い出した。
メフィストはヴァイセルを少女の手に押し返そうとする。だが、ヴァイセルは離れようとしなかった。小さな前脚でしっかりとメフィストの手にしがみつき、そのつぶらな瞳で、リスとは思えない鋭さの眼差しを向けている。
「…………話をつけてくる」
低くぼそりと呟いて、メフィストはヴァイセルを掴んだまま、ロビーの隅へと歩き出す。
「えっ、リスと?」
グレーテルが思わず声を上げたが、メフィストは振り返りもせず、そのまま行ってしまった。
取り残されたグレーテルと、少女は顔を見合わせる。見れば、周囲の人だかりも疎らになっていた。
「あ、えっと……演奏、すごかったです」
グレーテルが声をかけると、少女はふわりと笑いながら、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。それと……お連れさんに、ご迷惑をお掛けして、すみません」
「あ、いえ。たぶん、大丈夫です」
沈黙が落ちる。気まずい類の沈黙だ。
グレーテルは、場を取り繕うための言葉を探す。目の前の少女は、同じくらいの年頃に見えた。
よし、とグレーテルは一つ気合を入れる。
「あの、私、グレーテルって言います」
そう言って、右手を差し出す。目の前の少女は、少し驚いたように目を見張ったが、倣うように自己紹介をした。
「あたしはローズです」
柔らかく握手を交わす。メフィストと違い、ローズの手は温かかった。
「ローズさんは、音楽奉納を見にこの町へ?」
「あぁ……えっと、違うんです」
ローズはフルートを握り直すと、照れくさそうにはにかんだ。
「あたしたちの楽団が、音楽奉納の演奏をするんです」
◆
ロビーの端に寄ったメフィストは、手の中にいるリスに小声で話しかける。
「あの赤毛の子に、正体隠してるわけ?」
問いかけに、ヴァイセルが頷く。メフィストは面倒そうに目を細めた。
「黙ってろって?」
「そういうこと」
ヴァイセルから、柔らかなテノールが発せられる。場違いな美声だったが、幸いにもメフィストの周囲には誰もいなかった。リスが人語を喋ったという衝撃的な光景は、誰の目にも触れずに済む。
「……貸し一つだ」
メフィストが低く告げると、ヴァイセルの鼻先がピクリと不機嫌に震えた。
「あ?」
「ほんっと、態度悪いよね。あーあ、あの滑稽なリス踊りをルシフェルに見せてやりたいな」
「は?」
ヴァイセルは憤然とメフィストの手をぽかぽかと叩き始めた。が、その時。
「メフィスト? あのね、夕食なんだけど……」
背後からかけられた声に、メフィストは驚く。反射的に、ヴァイセルを掴んでいた手に力がこもった。
「うぼべぁっ!」
とんでもない声がヴァイセルの口から飛び出す。
「な、なんかすごい声したけど大丈夫?」
グレーテルが怪訝な顔でメフィストの手元を覗き込む。メフィストは咄嗟にヴァイセルの口を塞ぎながら、そっと首を横に振った。
「……何でもないよ。で、夕食がどうかした?」
促されて、グレーテルはぱっと表情を明るくする。
「そう! 夕食なんだけど、ローズたちと一緒に食べたいなと思って」
グレーテルの後ろで、ローズがにこにこと頷いている。
メフィストとヴァイセルはさっと目配せをする。けれども、束の間の交流ですぐに友情を築いた女子二人に、理由もなく嫌だとは言えなかった。




