5-02. 足りない
無事に宿の部屋へと辿り着き、グレーテルとメフィストはそれぞれ、思い思いの時間を過ごしていた。
グレーテルは、ベッドの上にうつ伏せになり、天使の涙があしらわれた宝石箱を手に取る。繊細な細工を、指先でなぞるように眺めていた。
一方、メフィストは窓際の椅子に腰掛け、ぼんやりと窓の外に視線を投げている。
魔法で火をくべられた暖炉で、ぱちぱちと薪が爆ぜる音が室内に響いた。
グレーテルは、ちらりとメフィストを盗み見る。
長い睫毛。真一文字に引き結ばれた薄い唇。闇色に輝く瞳に、艶やかに光を反射する黒髪。
無表情にも見えるその横顔に、グレーテルは目を奪われた。
(……綺麗)
初めて会ったときも、美しいと思った。けれど、それ以上に恐ろしさを感じたのだ。
それが、今はどうだろうか? グレーテルは、自身の心に問いかける。
(一緒にいたい)
触れ合えば、胸が高鳴る。気遣われれば心が浮き立つ。
――そんな風に感じてしまう自分がいる。
契約したことを、もう後悔していない。なんなら、メフィストと契約出来たのが自分で良かったと安堵さえしていた。
グレーテルはゆっくりと身体を起こし、ベッドから足を下ろす。そして、宝石箱を手にしたまま、メフィストに歩み寄った。
その気配に気づいたメフィストが、視線をグレーテルに向ける。闇色の瞳が柔らかく細まった。
「……どうしたの?」
グレーテルは小さく笑った。
「別に……どうもしないんだけど、なんとなく」
メフィストの座っている椅子とテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろす。手にした宝石箱を、そっとテーブルの上に置いた。
窓の外では、絶え間なく雨が降り続けている。ざぁざぁという低い音の合間に、キィン、と甲高い音や、遠くから雷の音が混じって聞こえてきた。
会話はなかったが、不思議と沈黙が心地よい。
「音楽奉納、明日なんだね」
宿の主人に聞いた話を思い返して、グレーテルがぽつりと呟く。
「雨、止むかな?」
メフィストがテーブルに頬杖をついた。
「どうだろうね。この調子だと、降り続けそうだけど」
「雨降っててもやるのかな」
「周期が大事だから、日付は変えないと思うよ」
グレーテルは、窓の外に広がる濡れた世界を見つめる。部屋の明かりが反射し、向かい合わせに座る二人の姿が、窓ガラスに映り込んだ。
ざぁざぁと雨音が低く続いている。
「魂ってさ……」
ぽつりと、グレーテルが呟く。
「半分になったら、どうなるの?」
メフィストが頬杖をついたまま、目を瞬く。予想外の問いに、眉をわずかにひそめた。
しばらく沈黙があったあと、頬杖の手を下ろし、腕を組む。
「……正直なところ、俺にも分からないね。半分だけ取るなんて、やったことないから」
「そうなんだ」
「考えられるのは――記憶が曖昧になるとか、人格が消えるとか、そのあたりかな。魂に刻まれたものが、俺のものになる」
グレーテルはテーブルに置いた宝石箱に触れる。そして、指先でそっと天使の涙を撫でた。
「……メフィストのことも、忘れちゃう?」
グレーテルの問いかけに、メフィストの闇色の瞳が、一瞬だけ戸惑ったように揺れる。
「…………さぁ?」
「できれば、忘れたくないなぁ」
グレーテルは、小さくため息をついて、宝石箱から手を離す。俯いた拍子に、髪の毛が一房、さらりと顔の前に垂れてきた。
メフィストが静かに手を伸ばす。その髪に触れ、優しくすくい上げた。
顔のすぐ側にある冷たい手の感触に、グレーテルはどきりとする。
その指先はゆっくりとグレーテルの耳に触れ、すくい上げた髪の毛をそっと耳にかける。
「君さ……」
メフィストの手が離れていく。
「前に俺のこと、割と好きって言ってたけど。今も?」
闇色の瞳がまっすぐにグレーテルを射抜いた。
「今は……割とっていうか……」
グレーテルは言葉を探す。
マルタや、シーベルに向けていたのとは異なる感情。この気持ちをどう表現するべきか、分からなかった。相応しい言葉が、見つからない。
好き、だけでは、足りない気がした。
その時、ふいに、階下から柔らかな音色の音楽が流れてくる。
グレーテルもメフィストもぴくりと反応し、お互いに顔を見合わせた。
「なんの音楽だろう?」
グレーテルが小声で尋ねると、メフィストも耳を澄ませながら首を傾げる。
「宿のホールで演奏会でもしてるんじゃない?」
「前夜祭みたいな感じかな」
グレーテルがわくわくとした様子で立ち上がる。それを見ていたメフィストの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「見に行くの?」
「うん。せっかくだし。一緒に行く?」
グレーテルが誘いに、メフィストが静かに立ち上がる。
「いいよ。一緒に行こう」
そう言って、グレーテルに手を差し出した。




