4-03. 観光するの?!
「レムル! あいつらを捕まえるぞ!」
マティアスが、右手を真っ直ぐに持ち上げる。中指の銀の指輪から、ゆらゆらとした黒い影が飛び出てきた。不気味に光る赤いぼんやりとした目。人間のような体躯。
ひぃぃ! と周囲の乗客から悲鳴が上がる。混乱は一気に頂点に達した。
「この状況でレムルを持ち出すの?」
メフィストは明らかに小馬鹿にした様子で、ふん、と鼻で笑う。そして、おろおろするグレーテルを不意に掴むと、肩に担ぎ上げて馬車からひらりと飛び降りた。
「ぐぇっ……!」
お腹に圧がかかり、お馴染みの声が漏れる。グレーテルはメフィストの背をばしばしと叩いた。
「持ち方、変えてって言ったのに……!」
「そういえば、そうだったね」
メフィストがくつくつと喉の奥で笑い、グレーテルを軽々と持ち替える。肩から降ろし、そのまま横抱きの姿勢に移行した。背と膝裏を支えられてはいるが、非常に不安定だ。グレーテルは戸惑いながら手のやり場に困った。
「首にでも縋り付いておいて」
「す、縋り付く……?」
グレーテルはおずおずと手を伸ばし、そっとメフィストの首に腕を回す。まるで自分から抱きつくような形になると、その距離の近さに気づき、息を詰めた。
「な、なんか……。は、恥ずかしい……!」
ゆっくりと頬に熱が集まる。顔を背けたくても、距離が近すぎて逃げ場がない。
そんなグレーテルの顔を覗き込み、メフィストは愉快そうに目を細めた。
「あはは、君にも人並みの羞恥心はあるんだね」
「どういう意味?!」
「いたっ…。耳引っ張るのやめてくれない?」
メフィストは言いながら、ちらりと外の状況を確認する。
上空にはブルートガイヤーが飛び回り、背後にはレムルが迫っている。
馬車の近くではウルリッヒとルシフェルが魔物相手に指笛で対抗していた。甲高い音が響くたびに、ブルートガイヤーが嫌がるように身を捩らせ、二人から距離を取る。特にウルリッヒは、乗客を庇いながら斧を振るっていた。
一方で、マティアスはブルートガイヤーに目もくれず、明らかに敵意を剥き出しにしながら、グレーテルとメフィストの方へとまっすぐ向かってくる。
「ど、どうしよう。神官様、追いかけてくる」
メフィストの肩越しに背後を覗いたグレーテルが、焦りを浮かべる。メフィストはマティアスと距離を取りながら、ふむ、と思案した。
「魔法、派手なやつ使ってもいい?」
「え、で、でも……」
「どうせ、あの神官には、悪魔と魔女だってバレてるんだし」
メフィストの顔に悪辣な笑顔が浮かぶ。
「見せしめに、五体バラバラに引き裂いてあげた方が、大人しくなっていいんじゃない?」
「駄目! 絶対に駄目!」
グレーテルは慌てて声を上げ、ぎゅっとメフィストの首に回した手に思わず力を込めた。ぐ、とメフィストからくぐもった声が上がる。
「……分かったから。首絞めないで」
グレーテルは手を緩めると、ごめん、と小声で呟いてから、小さく息を整える。
「このまま、どこかに隠れてやり過ごせない?」
メフィストは考えるように黙り込む。数秒の沈黙の後、「あ」と軽く声を漏らした。
「そういえば、この辺りに坑道があったね。地底湖が綺麗だから、ついでに見ていこうか」
「観光するの?! この状況で?!」
「あんな神官とレムルごとき、魔法を使えばどうとでもできるし」
メフィストは街道から逸れて、雑木林の奥へと突っ込んでいく。
「あ! こら! レムル! あいつら、曲がったぞ! なんで真っ直ぐ行くんだ!」
背後からマティアスの声が追いかけてくるが、どうやら違う方向へと声が遠ざかっていく。もしかしたら、このまま撒けるかもしれない、とグレーテルはほっと息を吐いた。
林を少し進むと、岩肌が露出した斜面が現れる。斜面の下にはぽっかりと口を開けた黒い穴があった。
「宝石は掘り尽くされて、今じゃただの廃坑だけどね。まぁ、俺がいれば危険もないよ」
メフィストはそう言いながら、抱えていたグレーテルを地面に下ろし、自分は先にひょいと坑道の中を覗き込んだ。
「おいで」
メフィストが手招きする。グレーテルは、一瞬ためらった。
襲われた馬車やルシフェルたちを放って、観光なんかに勤しんでもいいのか、と葛藤する。とはいえ、地底湖にも興味はある。
悩んだ末に、グレーテルはそっと一歩、坑道へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。壁には昔の松明の跡が黒く残り、ところどころに崩れた木製の支柱が横たわっていた。坑道の奥は真っ暗で、何も見えない。
「ここ……進むの?」
不安が声に滲む。グレーテルが怯んで足を止めれば、メフィストが首を傾げた。
それから、気付いたように、小さく笑って、指をぱちんと鳴らす。すると、古びた松明跡に沿って、小さな炎がぽつぽつと灯っていく。坑道の中が柔らかく照らされ、奥へと続く道が浮かび上がった。
「はい。これでいい?」
「ありがとう、メフィスト」
照らされた松明の灯りの下、二人は並んで坑道の中を歩き出す。しんと静まり返った空間に、時折、ぴちょん、ぴちょんと、リズムを刻むように、水滴が岩から垂れる音が響いた。
「この坑道は、トンネルのようになっているんだ。真っ直ぐ進めば、反対側に抜けられるよ」
「へぇ……。地底湖っていうのは――」
「でかした! レムル! いたぞ!」
唐突に背後から聞こえた声に、グレーテルが反射的に振り返る。坑道の入口に、マティアスとレムルが立っていた。
「もう追いついてきたの? すごい執念」
メフィストは喉の奥でくつくつと笑いながら、振り向くこともせずに言った。
「よし! そのままやれ! レムル!」
マティアスの怒声が坑道内に響く。その手が、ぼぐぼぐとレムルの肩を叩いた。
レムルの赤く濁った目がぎらりと光り、坑道の奥にいるグレーテルとメフィストを捉える。そして、全身がぐらりと揺れたかと思うと、無音のまま膨れ上がっていった。
「お、大きくなってる……」
「肉体がないからね。好きな形になれるんだよ」
メフィストが軽く肩をすくめた。
レムルの腕がうねるように長く伸び、触手のように坑道の天井を撫でる。その爪先が岩肌を掻き、ぱらぱらと土砂が降ってきた。
次の瞬間、巨大な腕が二人に向かって振り下ろされた。メフィストはグレーテルを抱き寄せ、素早く身を翻して跳ぶ。
「わっ!」
レムルの爪が坑道の地面をえぐり取り、衝撃音と共に土煙が舞う。坑道全体が激しく揺れ、天井から大量の石と土砂が崩れ落ちてきた。
「あーあ。やっちゃった」
メフィストがせせら笑う。その余裕をよそに、マティアスは顔を引きつらせてレムルに駆け寄った。
「おまっ……! ばか! レムル! 何やって……!」
途端に、坑道の入口が轟音と共に崩れた。土煙が舞い、外の光が完全に遮断される。
――しばらくして、静けさが戻った。
坑道の奥に取り残されたグレーテルとメフィストは、落盤によって入り口が塞がれたことを悟る。そして、マティアスとレムルも一緒に坑道内に取り残されていた。
「あーっ! もう! 誰が落盤起こせって言ったよ!」
ぼぐぼぐ、とマティアスがレムルの背を叩いている。メフィストはその背後にそっと近づくと、マティアスの耳元に口を寄せ、優しく囁いた。
「落盤事故で神官が一人死んだことにしちゃおうかなぁ」
「ひぃん……!」




