4-02. 馬車の中の地獄
「あく――」
マティアスが口を開くと同時に、メフィストが小さくぱちん、と指を鳴らす。途端にマティアスは口をつぐみ、ぴたりと沈黙した。ウルリッヒがちらりと見たが、特段気に掛ける様子はない。
グレーテルの隣では、メフィストがにやにやと悪どい笑みを浮かべている。
「わたしの友人で、神官のマティアスだ」
ウルリッヒの紹介に、わざとらしくメフィストが反応する。
「へぇ。神官様か。よろしくね」
白々しく差し出された手に、マティアスが頬を引きつらせて首を横に振る。
メフィストが笑みを深め、闇色の瞳を細めると、マティアスは何かに引っ張られるようにして右手を差し出した。
メフィストとマティアスが、がっしりと握手を交わす。
(魔法……! 絶対に魔法使ってる!)
グレーテルは慌てて隣のルシフェルに助けを求めるが、ウルリッヒとの会話に夢中で、マティアスの様子には気づいていない。
馬車が、ガタリと揺れてゆっくりと動き出す。たたらを踏んだマティアスが、諦めたように座席へ腰を下ろした。ウルリッヒに何かを訴えるような視線を向けているが、メフィストが遊んでいるのか、両手を膝の上にきちんと乗せ、足を揃え、背筋をぴんと伸ばして固まっている。
(じ……地獄!)
グレーテルは冷や汗を拭いながら、深く深く呼吸を整えた。
今すぐ顔を伏せてしまいたかったが、それでは確実に馬車酔いする。しかたなく、正面を向いたまま目だけを泳がせる。とてもではないが、マティアスの顔を見れない。
「王都へ? 教会は随分と急に赴任辞令を出すんだな」
ルシフェルは腕を組んで、ウルリッヒと楽しくお喋りに興じている。
「まぁ、今回は特別だな。詳しいことは混乱が起きるから、ここでは言えないが――」
ウルリッヒがマティアスに視線を向ける。お行儀よく座っている姿に、首を傾げた。
グレーテルがぎくりとする。
「マティアス。どうした? 今日は随分と大人しいな」
バレる。絶対にバレる。
グレーテルがひやひやしてると、横でメフィストが小さく指を動かす。すると、マティアスがぎこちなく首を横に振った。
「酔ったのか?」
メフィストが指を動かす。同時にマティアスがこくりと頷いた。
ウルリッヒは「そうか。無理するなよ」と言って、再びルシフェルとのお喋りに戻る。
グレーテルの隣で、メフィストがくつくつと笑い声を漏らした。それから、そっと耳元へ顔を寄せ、まるで内緒話をするように囁く。
「あの神官。このまま裸にひん剥いて、気が狂ったことにして馬車から落としてみようか?」
耳朶にふわりとかかる吐息がくすぐったくて、グレーテルは思わず肩を竦める。
すぐさま、楽しげに笑うメフィストの足を、グレーテルはぺしん、と軽く叩いた。
「絶対にやめて……」
そう囁き返すと、メフィストは「なんだ。つまんない」と呟きながら距離を戻した。
本当にこの悪魔は時折、とんでもない提案をしてくる。ギーアモッテから守ってくれたのは夢か何かだったのだろうか?
けど、とグレーテルは思う。
(やめて、と言えば絶対にやらないんだよね)
それは、グレーテルが契約者であり、メフィストが何でも言うことを聞く下僕という建て付けだからなのだろうか?
そっと様子を伺えば、メフィストは時折、指を小さく動かして、まるで操り人形のようにマティアスで遊んでいる。
やめさせようと、グレーテルがその指に手を伸ばした時だった。
「うわぁぁぁぁぁ!」
御者席から突然、悲鳴が上がる。直後、馬が甲高く嘶いた。
続いて、馬車の幌が、ぎしり――と不気味に軋んだかと思うと、次の瞬間、ばりばりと音を立てて引き裂かれた。
「えっ…?!」
頭上に突き出した鉤爪。その異様な大きさに、グレーテルの身体が凍りつく。
ルシフェルとウルリッヒがいち早く立ち上がり、外に飛び出て、叫んだ。
「ブルートガイヤーだ!」
「ハゲワシどもが! 私が乗る馬車を襲うとは、この不届き者が!」
馬車の中から、次々と悲鳴が上がる。外に逃げ出そうとする者、恐怖に硬直して身動きが取れない者――場は一瞬で混乱に包まれた。
切り裂かれた幌から見えるブルートガイヤーという魔物は、まるで巨大なハゲワシのような姿だった。だが、羽根はどす黒い紫に染まり、ところどころに泥のような茶色がまだらに混ざっている。生き物とは思えない、毒々しく不吉な色をしていた。
「なんで、ブルートガイヤーが……?」
隣にいるメフィストが、上を見上げて呟く。
「どういう意味?」
グレーテルが問い返すと、メフィストは眉をひそめたまま答えた。
「あいつらは、死肉に引き寄せられる魔物なんだ。生きている人間や、ましてや、馬車を襲うのは、おかしい」
外ではすでに、ウルリッヒとルシフェルが、魔術で応戦している。甲高い指笛のような音が立て続けに聞こえた。
グレーテルは頭をかばいながら、メフィストに尋ねる。
「どうやったら、追い払えるの?」
「さぁ? 魔法で片付けるのが一番てっとり早いけど」
「メフィストは、ルシフェルさんみたいに、魔術は使えないの?」
「無理。興味もないね」
そう言って、メフィストは悠然と足を組み、天井の裂け目を見上げる。
ブルートガイヤーはどうやら馬車への興味を失ったらしく、外でルシフェルとウルリッヒに襲いかかっていた。
二人が上手く注意を引いてくれているのだろう。
その隙に、車内の様子に目を向けたグレーテルは、不自然に背筋を伸ばし、両手を膝にきっちりと揃えて座っている男に気づいた。
マティアスだ。
垂れ目を精一杯吊り上げて、こちらを見据えるその視線は、怒っているようにも、必死に助けを求めているようにも見える。とにかく、何かしらを訴えているのは明白だった。
(メフィストが、魔法をかけたままにしてる……!)
グレーテルは、ぱしぱしとメフィストの腕を叩いた。
「メフィスト! 神官様、神官様!」
「ん?」
メフィストが、まるで今気づいたように顔を上げる。
わざとらしく、ゆっくりとマティアスの方へ視線を向けた。
「どうかした?」
「解いてあげて!」
メフィストはあからさまに不本意そうな顔をして、のろのろと右手を持ち上げた。そして、ぱちん、と指を鳴らす。
その瞬間、マティアスの身体がぐらりと傾き、前のめりに崩れそうになる。そして、怒りを露わにして叫んだ。
「悪魔と魔女め! よくも魔法を……っ!」
その言葉が発せられた瞬間、馬車の中が凍りついたような静寂に包まれ、次の瞬間には一斉に悲鳴があがった。
「え、魔女!?」
「悪魔!?」
「誰が!?」
「ここにいるのか!?」
パニックに陥る乗客たち。逃げ場のない馬車の中で、叫び声とざわめきが渦を巻く。
その様子を見ながら、メフィストは肩を震わせて、喉の奥でくつくつと笑った。
「あーあ。神官様の有難いお言葉で、大混乱だ。大変だねぇ」
「…………メフィスト、楽しんでるでしょ」
グレーテルがじとっと睨むと、当の本人は、とぼけたように「まさか」と笑った。




