3-09. 悪魔の禁忌
「魔法を使った?」
ルシフェルは小さく呟き、眉をひそめてベッドで眠るグレーテルを見やる。メフィストは無言で頷いた。
宝石箱を受け取った直後に意識を失ったグレーテルを、二人は宿の一室で休ませていた。ベッドの傍らで、声を潜めて会話を交わす。
「けれど、ファウストの恋人だったマルガレーテは人間だろう?」
「そうだよ。それなのに、人の傷を癒やしたり、俺とファウストの契約を無効化したりした」
「……ファウストの魂を取り逃がしたこと、根に持ってるな?」
「当たり前でしょ」
メフィストはすっと視線をグレーテルに向ける。規則正しい寝息を立て、表情は穏やかだ。
「人間は本来、魔法を使えない。それなのに、彼女は不思議な力を使った。その力が欲しくてね。俺の見立てでは――何かしらの神聖な力だと思ってる」
「悪魔の契約を無効化するほどの力……。同じ悪魔由来の力だとは考えられないか?」
ルシフェルの意見を、メフィストは鼻で笑う。
「ありえないね。マルガレーテは悪魔を嫌っていた。契約するなんて、それこそ天地がひっくり返ってもないよ」
その断言に、ルシフェルは「そうか」と小さく呟いた。ルシフェル自身は、マルガレーテという人物を知らない。そのため、メフィストの言葉を否定する材料を何も持っていなかった。
「前世の記憶を取り戻せば、その力も使えるようになるのか?」
「さぁ? 使ってた時の記憶を思い出せば、使えるようにはなるんじゃない?」
メフィストの投げやりな言葉に、ルシフェルの眉間にシワが寄る。
「もう少し真面目に考えろ」
「無理言わないでよ。俺にだって、わからないんだから」
ふてぶてしく言い返すメフィストに、ルシフェルは深く息をついた。
「人間が魔法を使うなんて、本来ありえないことだ。それこそ、放っておけば大騒動になる……。そういえば、マルガレーテの最期はどうだったんだ?」
メフィストは一瞬、沈黙する。そして、小さく息をついた。
「処刑されたと思うよ」
「魔法を使うからか?」
「おそらくね。とはいえ、ファウストが、わざわざ牢獄まで助けに行ったのに、側に俺がいるから嫌だって、泣き喚いて逃げるのを拒否した」
「はは、文字通り、死ぬほど嫌われていたんだな」
「そうだね。視界の隅に入るのさえ嫌だって感じだったかな」
苦笑混じりに言いながら、メフィストは気怠げに壁にもたれ掛かる。
「ただ、今のところ、その力の片鱗すら見えない。力が使えないだけなのか、力そのものが失われたのか判断すらつかないよ」
ルシフェルは顎に手を当てて考え込む。
「グレーテルは、お前のことを『割と好き』だと評していたな」
「あはは、あれか。この子、面白いよね」
メフィストが思わずと言ったように笑い出す。ルシフェルは、真剣な表情のまま疑問を口にした。
「前世と今世でお前に対する評価が真逆だな。霊と魂が同じにも関わらず、そんなことがあるか?」
「そのうち、嫌いになるんじゃない?」
まるで他人事のように、そう言い放ち、メフィストは肩を竦めて続けた。
「仕方なしとはいえ、俺と契約も結んだし。あの力が消えた可能性も考慮すべきかな」
「神聖な力が由来なら、悪魔との契約で相殺されても不思議はないな」
ルシフェルが大仰にため息をつく。
「……お前は、相変わらず損な役回りだな」
「まぁ、今回は魂が半分手に入るし。問題ないよ」
「下僕ごっこが長引くな……」
メフィストがグレーテルを見つめる。そして、喉の奥でくつくつと笑った。
「ファウストと違って、かわいいもんだよ。たまに無茶なことも言ってくるけど、無理に押し通したりしないしね」
ルシフェルがじっとメフィストを見つめる。眉間には深い皺が刻まれた。
「……禁忌を破るなよ」
「なにそれ、自虐?」
メフィストが薄く笑って返す。
「茶化すな。お前を心配して言ってるんだ」
「悪魔が、悪魔の禁忌を破ると思う? 俺たちの性質上、無理だよ」
ルシフェルは黙り込んだ。
室内に沈黙が落ちる。グレーテルのすーすー、という規則正しい寝息が響いた。
やがて、ルシフェルがその重い口を開く。
「――愛を知るべからず」
メフィストが、ちらりとルシフェルを見る。
「悪魔の禁忌は、私にはどうしても容易く破れるものに思えてしまう」
「元天使だからでしょ」
「お前たちと馴染めない一因だな」
ルシフェルが諦めたように目を伏せた。その直後に、グレーテルがもぞりと身じろぎをする。そして、むにゃむにゃと言いながら、何度が瞬きを繰り返した。
「あれ……猫ちゃん……?」
「起きた?」
壁にもたれ掛かっていたメフィストが、ゆっくりと背を離す。グレーテルはぼんやりと周囲を見回し、眠たげに目をこすった。
「宝石箱を受け取ったあと、気を失ったんだよ」
「ん……。そうだったんだ……なんでだろう……?」
「前世の記憶でも思い出した?」
メフィストに問われて、グレーテルは小さく首を傾げる。そして、ぽつりと呟いた。
「私の友達……」
けれど、その言葉に何か違和感を覚えたのか、すぐに首を横に振る。
「ううん。私の、前世……。マルガレーテの友達。猫ちゃんのこと」
「あはは、ファウストのことを思い出したわけじゃないの?」
メフィストが可笑しそうに笑う。グレーテルもふっと息を吐いて笑った。
「メフィスト、契約した時に『君にぴったりの、いい名前だね』って言ってたね。その意味が分かったよ」
ゆっくりと手の平を見つめる。そこにはまだ、柔らかな子猫の毛の感触が残っているように感じた。
「マルガレーテのあだ名。それが、グレーテルだったからなんだね」
じっと様子を見ていたルシフェルが、手に持った宝石箱をグレーテルに差し出す。
「ほら。持っておけ」
「あ……すみません。メフィストも、ありがとう。大事にするね」
グレーテルは宝石箱を受け取ると、そっと胸の前で抱きしめるように握りしめた。
その様子を見ながら、メフィストが軽く口元をゆるめ、「さて」と呟く。
「出かけられそう?」
「今から?」
グレーテルはきょとんと目を丸くする。
メフィストはぐいっと唇を吊り上げ、嬉しそうに笑った。
「楽しい酒盛りの時間だよ」
見ると、ルシフェルもどこかそわそわと落ち着かない様子だ。
その様子に、グレーテルは思わず吹き出した。




