3-06. 異端審問官
「火を焚け!」
やばめの怖い人――もとい、ルシフェルが鋭く声を張り上げ、周囲の人々に指示を飛ばす。喝を入れられた人々は我に返り、手近なランプや燭台を引っ張り出し始めた。
ルシフェルは袖で鼻と口を覆いながら、懐から取り出した小さな布袋を、火を灯した人々に次々と手渡していく。
「これを燃やせ。中身は乾燥させたミントの粉末だ。ギーアモッテに効く」
グレーテルたちがいた露店の店主も、手早くろうそくに火を灯す。そこへルシフェルが近づき、布袋を一つ手渡した。そのまま視線を落とし、地面にしゃがみ込むメフィストの姿に気づく。
「何をしてるんだ? お前も手伝え」
「……契約者様が虫が嫌いなようでね」
「なるほどな。まぁ、そういうことなら見逃してやろう」
「そもそも、俺は魔術に明るくないんだけど」
布袋を燃やすたびに、宝石に群がっていたギーアモッテたちが嫌がるように飛び立ち、少しずつ数を減らしていく。
不意に通りの向こうのざわめきが大きくなった。
その場に現れたのは、濃紺の法衣をまとった男。大柄な身体に、額から頬にかけて大きな傷跡がある。丸刈りにした頭部にも、細かな傷が複数残っていた。
外套の胸には黄金に輝く異端審問官のバッジをつけている。男は、大きな斧を手に、ゆっくりと歩みを進めた。
そして、ギーアモッテの群れに斧を振り下ろす。羽が切断され、鱗粉を撒き散らしていた魔物が地に落ち、姿を消した。
「異端審問官が来てくれた。もう大丈夫だ」
店主がほっとしたように息をつく。反対に、グレーテルはびくりと肩を震わせた。
「――ミントの香り……。誰が対処を?」
男の声は低く、よく通る。誰かが答えようと口を開きかけた時、ルシフェルが一歩前に出た。
「私だ。全ての虫どもを追い払うには、量が足りない。ミントを漬け込んだ水があるなら、それを撒いてくれ」
異端審問官はゆっくりと頷いた。
「魔術師殿、ご協力感謝する。あとは、わたしに任せて欲しい」
◆
異端審問官の活躍によって、ギーアモッテの群れはほとんど姿を消していた。ようやく騒ぎが落ち着いたころ、グレーテルはメフィストの胸から顔を上げる。
「はぁ……死ぬかと思った」
メフィストはそっと腕を解き、グレーテルの顔を覗き込んで笑った。
「おでこ、真っ赤になってる」
「えぇ……強く押し付けすぎからかなぁ……」
メフィストはグレーテルの首元に手を伸ばし、ネックレスを外して露店の店主に返す。店主はそれを受け取り、大きくため息をついた。
「いやぁ、運が悪かったな、嬢ちゃんたち」
商品を隠していた布を取り外し、ネックレスを元の位置に戻す。
「以前はこんなにギーアモッテが来ることもなかったんだが……。ここだけの話――」
そう呟いてから、周囲を見回し、声をひそめる。
「あの丸坊主の異端審問官が来てから、街に魔物が出ることが増えた気がしてな」
グレーテルは視線を異端審問官に向ける。その先では、ルシフェルが向かい合って仲良くお喋りをしていた。
「魔術師殿。この度は、誠に感謝する」
「うむ。ギーアモッテは、人を襲うことはないが、鱗粉が厄介だからな。あの虫どもが宝石を好む以上、この街にやってくるのを防ぐのは難しい。なるべく、ミントを使った香を常時、焚いておくのがいいだろう」
ちゃっかりアドバイスまでしている。
じっと見つめていると、ルシフェルが気づいたのか、グレーテルを手招きする。
(えっ……なんで?!)
異端審問官など、今や絶対に関わりたくない職種の人間だ。グレーテルは困ってメフィストを見上げたが、無言で背中を押された。行って来い、ということだろう。
仕方なしに、グレーテルはルシフェルの元へ行く。メフィストも来るかと思えば、何故か露店の店主と話を始めた。助ける気はさらさらないらしい。
「この娘は、グレーテルだ。あと、向こうで話をしているのがメフィスト。私はルシフェルだ」
「ウルリッヒ・ブラントだ。よろしく頼む」
差し出された異端審問官の手に、グレーテルは思わず冷や汗をにじませながら、そっと自分の手を重ねた。
「あ、えっと。こちらこそ、よろしくお願いします……」
固すぎず柔らかすぎない握手が交わされ、すぐに手が離れる。グレーテルは胸をなで下ろすように、小さく息を吐いた。
「ところで、私たちは旅の途中でな。この街でうまい酒が飲めるところを知らないか?」
場の空気が和らいだのを見て、ルシフェルが口を挟む。ウルリッヒは顎をさすって、考える仕草をする。
「酒か……。それなら、広場の屋台がいいかもしれない。蝋燭の火で宝石が輝いて、室内で飲むより気分よく飲める」
「なるほどな。ありがとう」
ルシフェルは満足気に頷き、口元に笑みを浮かべた。
ウルリッヒは「では」と短く挨拶を残し、その場を去る。何もバレなかったことに安心したグレーテルが、大きく息をついた。
ルシフェルの眉間にシワが寄る。
「緊張しすぎだ」
「だって、異端審問官ですよ?」
「奴らに契約者かどうかを見抜く術などない。現に、何も気づかれなかっただろう?」
「もしかして……」
堂々としていろ、とルシフェルは言っていた。異端審問官と握手を交わしても、正体がバレることはないということを教えてくれたのだろうか?
「ありがとうございます」
グレーテルがお礼を言えば、ルシフェルはその口元を緩める。
「さて、そろそろ私たちも行くか。おい! メフィスト!」
ルシフェルが声を掛ける。
メフィストは店主から品物を受け取り、懐にしまう。グレーテルとルシフェルはそれには気づかない。
「ネックレスじゃなくて本当にいいのか?」
店主の言葉に、メフィストは笑う。
「ああ。彼女の思い出の品は、宝石箱だからね」




