1-03. 黒尽くめの青年
「ふ、不審者!」
叫ぶと同時に、持っていたドアの取手を勢い良く引く。けれども、閉まるはずだったドアの隙間に、青年が間髪入れずに足の先を差し込んだ。ぎちり、と革靴が軋む音がする。
「第一声から、ご挨拶だね」
「うぐぐ……」
青年はドアの隙間に手を差し入れると、ぐい、と引っ張る。いとも簡単に防衛は破られ、ドアを挟んだ攻防戦は呆気なくグレーテルの敗北に終わった。
部屋の中に押し込まれ、グレーテルはよろめく。室内に二人きりになるのはまずい。そう考え、再度玄関に突進する。
それと同時に、青年がパチン、と指を鳴らした。――カチャリ、と鍵のかかる音がする。
「えっ……何で?!」
鍵を開けようと閂に手を掛けるも、びくともしない。毎日のように開け閉めしているはずの、慣れ親しんだ鍵にも関わらず。その様子を見て、青年がくつくつと喉の奥で笑う。
「取って食いやしないよ。君に良い話を持ってきた」
低く穏やかな声で、青年は歌うように告げた。青年は椅子を引き、まるで自分の家のように無遠慮に腰をかける。
一方、グレーテルは、玄関のドアを背に、青年と対峙していた。右手でドアの横に立てかけていた箒を手繰り寄せる。何かあれば、これで滅多打ちにして対抗するつもりだった。
改めて青年に目を向ける。
艶のある黒髪。雪のように白い肌。人形のように端正な顔立ち。スッと通った鼻梁に、切れ長の瞳。頬には血の気がなく、薄く色づいた唇は、ゆるく弧を描いている。
――まるで、絵画のようだ。
この世のものとは思えないほど美しく、神が造形したかのような存在。しかし、それと同時に、その瞳の奥に揺れる深い闇色は、まるで紫炎のごとく妖しく揺らめき、底知れぬ禍々しさを湛えていた。
人間離れした容姿と鍵を掛けた不思議な力に、グレーテルはあることに思い当たった。どうか予想が外れて欲しいと祈りながら、問いかける。
「もしかして、魔物?」
魔物や妖精と呼ばれる生き物は、人間には使えない不思議な力――いわゆる、魔法を使うと言われている。初めて見たので断言はできないが、鍵を掛けたのは魔法ではないか、と思ったのだ。
青年は、ゆっくりと首を横に振ると、にっこりと笑う。
「惜しい。悪魔だよ」
魔物より、もっと悪いものだった。
悪魔と言えば、女神アウレリアと敵対していると言われている生き物だ。それが、なぜ、こんな辺鄙な土地に?
ミルゼンハイムは魔物すら、ほぼほぼ見かけない土地だ。神官から聞かされる魔物の物語も「ふぅん、他の土地は大変そう」くらいの感想にしかならない。悪魔なんて、生きているうちにお目にかかれるかどうかも怪しい存在だ。
悪魔に効くおまじないは、なんだったっけ?塩をまく?ハーブを軒下に吊るす?――家に侵入された今でも効くのだろうか?
「さて」
悪魔だと名乗った青年の声に、グレーテルの意識が引き戻される。今は、考え事をしている場合ではない。悪魔にこの家からお引き取り願わなければ。
「手短に要件を伝えよう」
悪魔がにんまりと笑顔を浮かべる。
「俺と契約しないかい?」
「悪魔って、本当に契約を持ちかけるんだ……」
あまりにも教会の説教で聞いた通りの展開に、あっ、この流れ聞いたことある! と半ば感動にも似た気持ちを抱いてしまった。
グレーテルは、きっとこれも正解だろうと、逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと口を開く。
「代償は魂?」
青年が目を細める。
「話が早いね」
これも予想通りだ! 当たっていいことは何もないが、思い描いた通りの回答に、何故か問題を解いた時のような満足感を得た。先ほど、彼の正体を外したので、挽回出来たような気分になる。
青年はゆっくりと足を組み、その上に肘をつく。視線がグレーテルより低くなったことにより、自然と上目遣いになる。
「君の言うことを何でも聞く下僕になってあげよう。その代わり、君の魂を俺にちょうだい?」
グレーテルは頭の中で言葉を反芻する。理解するまでに、しばし時間がかかった。
「下僕?」
もっと言いようがあるんじゃないかとか、そもそもなぜ下僕になってまで魂を欲するのかとか、溢れるように疑問が浮かんでは消えていく。
「そう。掃除、洗濯、調理、買い出し、何でも出来るよ。君が望むなら、嫌いなやつを消すことも」
随分と家庭的な内容の最後に何か、おかしな一文があった気がする。グレーテルは固まったまま、何とか言葉を絞り出した。
「えっと……間に合ってます……」
断るグレーテルに、青年はからかうような調子で続ける。
「俺に命令するだけで、何でも叶うんだ。それこそ、王都に住むことだって、あらゆる宝石を手に入れることだって可能だ。君の魂一つでね」
すごくお得であるかのように話しているが、魂を奪われたらどうなってしまうのだろうか? 説教では、悪魔に取られた魂は生まれ変わることが出来ずに、この世界に留まり続けると言われている。そして、擦り切れて消えてなくなるまで悪魔にこき使われるのだと。
「そもそも……なんで私なの?」
魂なら何でも良いのだろうか? 一人暮らしで、付け入りやすそうだった?
グレーテルの疑問に、青年は笑みを深めただけで答えなかった。何も聞こえなかったかのようなフリをして、答えを急かす。
「それで? 契約する? しない?」
「しない!」
即答だった。考える余地もない。断るの一択である。
青年は残念そうに肩を竦めると、椅子から立ち上がった。
「残念。じゃぁ、またね」
グレーテルが驚くくらいにあっさりと引き下がる。そして、瞬きの間に青年の姿は掻き消えた。まるで、最初から、その場に悪魔などいなかったかのように。
グレーテルは、青年が消えた場所から目を離さずに、左手で鍵を探る。小さな閂を動かせば、いつものようにあっさりと動いた。ドアも問題なく開く。
(今日は、マルタの家に泊めてもらおうかなぁ……)
右手に持った箒を元の場所に戻し、グレーテルは大きくため息をついた。