1-02. 気持ちを伝えること
パン屋の仕事は日が落ちるより前に終わる。朝からお昼にかけて客足が多く、その後はまばらになっていくのだ。
グレーテルは家のドアを開け中に入ると、マッチを使って燭台に明かりを灯す。窓から差し込む日があるうちに火をつけないと、何も見えなくなるのだ。
マルタの両親から分けてもらった、余りのパンをテーブルに置き、家の中を見回す。
こざっぱりした室内は、人間が一人暮らすには十二分な広さだった。母親がいなくなってから、幾度となく感じていた物寂しさも、今では薄れている。
母親がいなくなったのは、グレーテルが15歳の時だった。あれから2年が経過し、今では17歳だ。
ミルゼンハイムでは、15歳で働いているのは普通であったし、なんなら、グレーテルも年が二桁になった頃から母親の仕事の手伝いや、家の用事をこなしていた。そういう意味では、グレーテルとしては、母親がいないことが原因で生活に困窮することは無かった。
あらかじめ煮沸しておいた井戸水の入った水差しを手に取る。そして、コップに水を注ぎ、テーブルについた。
今日、帰り際にもらったパンは、グレーテルの大好きなプレッツェルだ。バターをたっぷり挟んで食べるプレッツェルは、格別だった。
「いただきます」
呟く声に、答える人間はいない。それでも、グレーテルが寂しさをあまり感じないのは、いつも隣で支えてくれている、シーベルとマルタの存在が大きかった。
◆
その日の夜、グレーテルは夢を見た。
懐かしさ、寂しさ、そして、後悔。押し寄せる感情に、グレーテルは夢の中にも関わらず、胸の前でぐっと拳を握った。
母親が失踪した日。家に帰って来なかった日の夢。
「お母さんなんて、大嫌い!」
その日、グレーテルは母親の背中に向かってそう言い放った。
何が原因だったかなど、覚えてすらいない。どうせ、朝ごはんが気に入らなかったとか、お気に入りの服を洗ってもらえてなかったとか、そんな感じの取るに足らない理由だ。
それでも、はっきりと、母親に向かって投げかけた言葉だけは覚えているのだ――だって、それが、母と交わした最期の言葉なのだから。
神官が来る、月に一度の日。信心深かった母親は、グレーテルと一緒に行くつもりだった。けれど、グレーテルは機嫌が悪くて拒否した。そして、大嫌いという言葉を投げつけたのだ。
困ったような顔をした母が「じゃぁ、お母さんだけで行ってくるわね」と遠慮がちに言ったことを覚えている。グレーテルはその時、返事をしなかった。無視を決め込んだのだ。
(あの時、一緒に行っていれば……)
不機嫌になって、意地を張って。その後、どうにもならない後悔に苛まれるとも知らずに。家から出て行く母親に、なんの言葉もかけなかった。
(本当は、お母さんのこと大好きだったのに)
いつものように、グレーテルと同じ茶色の髪を揺らして。ひと昔以上も前に流行した形のワンピースを着て。手首にはグレーテルが贈った不格好なミサンガをつけて。母親は外に出た。
――そして、帰ってこなかった。
だから、グレーテルは気持ちを言葉にすることを躊躇わない。好意なら尚更だ。
隣にいつもいてくれた人は、突然消えてしまうかもしれないのだから。
◆
くあぁ、とグレーテルは大きな欠伸をする。ベッドから降りると、窓から入る朝の日差しを浴びながら、ゆっくりと身支度を進めた。
(久しぶりにお母さんの夢見た)
ぼんやりとした頭で、グレーテルは考える。今日が、神官の来る日だからかもしれない、と。少しのきっかけで、唐突に夢を見たり、思い出したりすることは良くあることだ。
今日はパン屋の仕事はお休みだ。説教のある日だから、とマルタのご両親がシーベルとグレーテルに計らってくれたのだ。
一方、当然のように、マルタは働くことになっていた。「せっかく朝から、グレーテルたちと遊ぼうと思ってたのに」 とぶちぶちと文句を言っていたマルタの顔が脳裏に浮かぶ。
もそもそと着替えに手を通して、昨日の残りのパンをかじる。口の中で咀嚼しながら出かける準備をしても、お行儀が悪いと咎められることもない。
(今日の神官様、もう到着してるのかな?)
説教前に少し世間話でも出来ると嬉しいな、とグレーテルは考える。
その時、トントン、と玄関のドアがノックされた。
(シーベルかな?)
昨日は特に約束をしなかったが、一緒に行くために、家まで迎えに来てくれたのかもしれない。
グレーテルはパンを飲み込むと「ちょっと待ってね!」と声をかけ、ささっと着替えを済ませると、玄関のドアを開けた。
「お待たせ、シーベル。わざわざ家まで――」
視界に入ってきた姿に、言葉が引っ込んだ。
全身を黒で統一した装いの、見知らぬ青年が立っていた。
上半身は、金具とボタンがさりげなく輝く、軍服風のジャケット。下は脚にぴたりと沿う漆黒の布地。そのまま光沢を帯びた黒革のブーツへと繋がり、青年の立ち姿に隙はなかった。
見上げれば、グレーテルの顔一つ分ほど上の位置にある目と視線が合う。扉を叩いた青年は、にっこりと笑みを浮かべた。
グレーテルは、気持ちを言葉にすることを躊躇わない人間だ。
「ふ、不審者!」
好意的に解釈すれば、グレーテルは裏表がなく素直だとも言える。