2-04. 腕いっぱいの荷物
翌朝。
グレーテルは、魔法で綺麗にしてもらったベッドの上で目を覚ました。昨夜は疲れきって泥のように眠り込んでしまったが、長年のパン屋での早起き習慣はそう簡単には抜けないらしい。窓の外には、昇り始めたばかりの柔らかな陽光が差し込んでいた。
ぼんやりとした意識のまま、グレーテルは天井を見上げる。見慣れない板張りの天井と、かすかに漂う木の匂い。ここが自分の家ではないという現実に、若干の失望を覚えた。
(ぜんぶ、夢だったらよかったのに……)
そんな独り言が、心の中にじんわりと滲む。
神官とレムルに連れ去られかけたことも、悪魔と契約したことも、そしてミルゼンハイムを後にしたことも――どうやら夢にはならなかったらしい。
グレーテルはゆっくりとベッドを抜け出し、ダイニングへと向かう。メフィストの姿は見えない。――そもそも、悪魔は睡眠を必要とするのだろうか?
昨夜もらった黒パンと塩漬けのハムを思い出し、軽い朝食にしようと戸棚から皿を取り出す。だが、取り出した皿はうっすらと埃をかぶっていた。一度洗おうと水差しを探すが、見当たらない。
どうやら、井戸まで水を汲みに行かなければならないようだ。
(魔法なら、すぐに綺麗に出来るのかな)
グレーテルは軽く息をつき、手にしたお皿をテーブルに置いた。
魔法は、とにかく便利だった。一度その手軽さを知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。
だが、教会は「悪魔と契約することは罪だ」と説いてきた。確かに、魔法を使って人を傷つけたり、陥れたりするのであれば、それは悪だろう。けれど、こうして家事を少し手伝ってもらう程度であれば、そこまで悪いことだとは思えなかった。
(魂を渡すのが、いけないの……?)
マティアスやレムルのことを思えば、教会の方が余程きな臭く思える。何が善で、何が悪なのか――今のグレーテルには、もうよく分からなかった。
結局、朝食の準備をするのも面倒になり、昨日きれいにしてもらったマグカップにミルクを注いで飲むことにした。
ミルクは生ぬるく、少しだけ臭みを感じた。
◆
メフィストがいない――これは逃げるチャンスでは?
そう思って扉を開けた瞬間、目の前に立っていたのは、まさにその本人だった。既視感。
「不審者……」
「寝起きからご挨拶だね」
メフィストは片眉を持ち上げ、にやりと口の端を吊り上げる。
「さては、俺から逃げようとした?」
「うっ……」
何も答えられず、視線をうろうろと彷徨わせる。メフィストは喉の奥でくつくつと笑った。
「どこへ行こうと、俺は君の側にいるよ。契約に、ちゃんと盛り込んだからね」
「そ、そういえば……そうでした……ね……」
グレーテルは観念したようにため息をつき、メフィストの隣へと歩み寄った。扉を閉めると、ぎしぎしと不穏な音が鳴る。
「村を少し見て回ろうと思うんだけど、メフィストも来る?」
「いいよ。一緒に行こうか」
そうして、二人は肩を並べて歩き始めた。どこを見ても、コスモスの花が揺れている。風にそよぐその様子は、どこか牧歌的で、ミルゼンハイムの小麦畑とはまた違った穏やかな空気に包まれていた。
少し歩くと、前方から恰幅の良い中年の女性がやってくる。村の人だろうか。警戒されるかもしれないと、グレーテルは少し緊張しながら軽く会釈をした。すると、女性はためらいもなく、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。
「あんたたち!」
声をかけられ、グレーテルの肩がびくりと跳ね上がる。
「聞いたよ! 大変だったねぇ。昨日は、少しでも休めたかい? 掃除に人手が必要なら、いつでも言ってちょうだいね! ところで、魔物に村をやられたって聞いたけど、どんな魔物だったんだい?」
息をつく暇もない勢いでまくし立てられ、グレーテルはたじろいだ。魔物の種類なんて知らない。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。どうしよう、と目を泳がせたそのとき、隣にいたメフィストが口を開いた。
「お気遣い、ありがとう。俺たちの村に来たのは、茶色い……枯れたオオカミみたいなやつだったよ」
その場をさりげなく収めたメフィストの横顔を見て、グレーテルは心の底から安堵した。自分には、こんなふうに咄嗟の嘘をつく器用さはない。
女性はうんうんと頷きながら、メフィストとグレーテルの肩を慰めるようにぽんぽんと優しく叩いた。まるで長年の知り合いに接するかのような、自然な手つきだった。
「ヴェルトヴルフかねぇ……。この村の近くの森にもいるけど、あれに群れで来られたらたまったもんじゃないよ。あっ、そうだ」
そう言って、手に持っていたバスケットを開き、中から紙に包まれた何かを取り出す。
「これ、持っておいき。うちで焼いたアップルシュトゥルーデルなんだけどね。落ち込んでる時は、美味しいもの食べて、ゆっくり休むのが一番だよ」
渡された包みはほんのり温かく、ふわりとバターと林檎の甘い香りが立ちのぼった。
「あ、ありがとうございます! すごくいい匂い……!」
お礼だけでもしっかり伝えたい。グレーテルが感謝を込めて頭を下げると、女性はにこりと目を細めて微笑んだ。
その場を辞し、二人は再び村の中を歩き出す。すると、すれ違うたびに声をかけられ、食べ物や日用品を手渡される。気づけば、グレーテルとメフィストの両腕は、頂き物でいっぱいになっていた。
「……一度、家に戻ろっか」
両手の荷物を見下ろしながら、グレーテルが提案する。メフィストも素直に頷いた。
「それにしても、噂が広まるのが早い村だ」
「昨日の夜に着いたばっかりなのにね……」
「今だって、まだ早朝と言っていい時間だけど」
「まぁ、でも、ミルゼンハイムでもこんな感じだったかも」
事件や変わった出来事があると、誰が言い出すでもなく、瞬く間に情報が行き渡る。どこの村でもそういうものなのだろう。グレーテルは苦笑しながら、そう思った。
「そういえば、ヴェルトヴルフって?」
間借りしている家に向かいながら、グレーテルはメフィストにたずねた。魔物の名前らしいことは分かったが、どんなものかまでは想像がつかなかった。
「オオカミの姿をした魔物だよ。見た目は骨と皮の枯れ枝みたいだけど。その辺にいくらでも生息してる、大して珍しくもないやつだね。ヴェルトヴルフが通ったあとは、植物が枯れて死に絶える」
「そんな魔物がいるんだ……。ミルゼンハイムでは、魔物は全然いなかったから……」
メフィストはふっと息を吐き、口の端を上げた。
「ミルゼンハイムには、魔物がいない。みんながそう思っているから、そうなる」
「……?」
意味がよく分からず、グレーテルはきょとんと瞬きをした。詳しく聞こうと口を開きかけたが、その時、抱えていた荷物が腕から滑りかけ、そちらに気を取られてしまう。
「ほら、気をつけて」
そう言って、メフィストがグレーテルの腕からいくつか荷物を受け取った。結局、先ほどの言葉の真意は聞きそびれたままだった。




