2-03. 便利な力
毛布を抱えて戻ってきた髭の男に礼を言い、それを受け取る。さらに差し入れとして、黒パンにザワークラウト、ミルクを一瓶、そして塩漬けのハムまで持ってきてくれた。
軋む音を立ててドアが閉まると、かすかにカビのにおいと埃っぽさが鼻を突く。けれど、雨風を凌げる屋根の下で夜を過ごせるのだから、贅沢は言えない。
「村の人たち、親切だね」
魔物に襲われたという嘘には、多少の罪悪感がある。けれど、本当のことなど言えるはずもなかった。
「ここに……住めないかな……」
グレーテルは、ぽつりと呟いた。
この村の正確な位置は分からないが、ミルゼンハイムからはそれほど遠くないはずだ。教会もなく、神官も年に一度しか来ないというなら、身を潜めるにはうってつけの場所に思えた。時折なら、ミルゼンハイムにも戻れるかもしれない。
メフィストはそんなグレーテルの横顔を見つめ、小さく頷いた。
「君がそうしたいと思うなら、そうすればいい」
少しだけ、明日からの生活に希望が見えてきた。
とにかく、今は休む準備をしようと、グレーテルは室内を見回す。部屋の中は暗く、月明かりでは家具の輪郭がぼんやり浮かぶ程度だ。燭台はどこにあるのかと目を凝らすが、はっきりとは分からない。
「明かりがないと……。メフィスト、何か火を点けられるもの、持ってる?」
「持ってはいないけど」
言いながら、メフィストがぱちん、と指を鳴らす。途端に、ぼぅっと音がして部屋にある全ての燭台に明かりが灯った。やわらかな光が室内を満たす。
「えっ……すごい……」
グレーテルは、ぽかんと口を開けたまま、明かりを見つめる。
いつもなら、ひとつひとつ手で火を灯さねばならないのだ。驚きに言葉を失ったグレーテルの様子を見て、メフィストは機嫌よく喉の奥でくつくつと笑った。
「これが、君が魂と引き換えに手に入れた力だ。やりたいこと、欲しいもの、何でも俺に言うといい」
「魔法……なんだよね?」
グレーテルの問いに、メフィストはゆっくり頷いた。
「そうだよ」
人間には扱えない、不思議な力。それが魔法。まじないや儀式とは違って、道具も手順も要らず、物理の理さえ無視できる――異質で、強大な力。
「悪魔は契約を結ぶことで、契約者の願いを叶えるために、自らの潜在能力を超える力を引き出せるようになる。そういえば、悪魔と契約した人間は――教会ではこう呼ぶんだっけ?」
メフィストがグレーテルをまっすぐに見つめる。
「魔女」
どきり、と心臓が跳ねた。魔女――それは、決して良い意味で使われる言葉ではない。悪魔と契約を交わした者は、男であろうと女であろうと、等しくそう呼ばれる。教会の説教で何度も聞いた言葉だ。人間には扱えないはずの力を、魂を差し出してまで手に入れた、悪魔を使役する、愚かで、浅ましい、異端の存在。
グレーテルはそっと目を伏せた。
悪いものだと、忌むべき存在だと、繰り返し教えられてきたものに、自分がなってしまった――そう思うと、胸の奥がずんと重くなった。
けれど、メフィストはそんなグレーテルの沈んだ様子に気づいているのかいないのか、関心を見せることもなく、ふう、と一息ついてから部屋を見回す。
「明るいと、よく分かるけど、ひどい有様だね」
たしかに、テーブルや椅子、ベッドといった最低限の家具は揃っている。けれどそのすべてに分厚い埃が積もり、触れるのもためらわれるほどだった。長居すれば、きっと具合が悪くなる。
「あ……うん……そうだね……。とりあえず、掃除しようか……。雑巾あるかな……」
そう言って掃除道具を探そうと身を動かしたグレーテルに、メフィストが「ちょっと待った」と声をかけた。グレーテルはきょとんとして振り返る。
「俺の話聞いてた?」
「え? この部屋がひどい有様だって話?」
「その前」
「えーっと……魔女?」
「そう」
メフィストは呆れたように肩を竦めた。
「君は俺の力を自由に使える。掃除してって、一言、言えばいい」
グレーテルはぎょっとして、思わず言い返す。
「え、この部屋ぜんぶをメフィストに掃除させるのは……さすがに酷くない? 私も手伝うよ」
「さっき、その目で見たものを忘れた?」
魔法――そう、メフィストは魔法を使えるのだ。とはいえ、魔法で掃除まで出来るなんて、思いもしなかった。
グレーテルは、じゃぁ……と遠慮がちに口を開く。
「なんか申し訳ないけど……。そしたら、掃除……お願いしてもいい?」
メフィストは小さく笑った。
「随分と控えめにお願いするんだね。まぁ、そのうち慣れるかな」
そう言って、メフィストがぱちん、と指を鳴らす。次の瞬間、分厚く積もっていた埃がすべて消え、床はまるで磨き上げたようにぴかぴかになった。
ベッドも、まるで新品のように清潔感を取り戻している。
「す、すご……! すごい、メフィスト! 本当にすごいね!」
グレーテルが目を見開いて感嘆すると、メフィストは楽しそうに笑った。
「あはは、そうやって素直に驚いてくれると、やりがいがあるね。他には?」
「え? 他? えーっと……」
グレーテルはうんうん唸りながら考えるが、何も思いつかない。
「掃除してもらっちゃったし……特にやるべきことは、もうない気がするけど……」
その様子に、メフィストは黙って台所の戸棚へ向かい、古びたマグカップを取り出す。テーブルにそれを置いて、ミルクを注ぎ、指をぱちんと鳴らした。
「はい。何も思いつかない契約者様へのサービス」
マグカップはたちまち新品のように綺麗になり、中のミルクからは湯気が立ち上る。
グレーテルがおそるおそる口をつけると、ふわりとやさしい甘みが広がった。熱すぎず、ぬるすぎず――ちょうどいい、心まで温まるようなホットミルクだった。
「かまどに火を入れずに温かいものが飲めるなんて……!」
あまりの便利さに、頭がくらくらする。先ほど、落ち込んでいた気持ちなど忘れて、グレーテルは至極真面目な表情で口を開いた。
「全人類、悪魔と契約するべきだと思う」
「極端すぎない?」
メフィストが呆れたように笑う。グレーテルは気にせず、目を輝かせて尋ねた。
「ねぇ、メフィスト? もしかして、プレッツェルも出せたりする?」
期待に満ちた声に、メフィストは腕を組み、うーんと唸ったあと、あっさり言い放つ。
「出来ないね」
「えっ……」
どうやら、魔法は万能ではないらしい。グレーテルは肩を落として項垂れる。そのあからさまな落胆ぶりに、メフィストは小さく吹き出した。
「表情に出すぎだよ、君」
グレーテルがガチでお願いすれば、メフィストは材料を調達してプレッツェルを作ってくれます。何もないところから、パッと魔法で出すのは出来ない。




