2-02. やった!(心に留めるべき声)
「宿泊施設、あるのかな?」
グレーテルが不安そうに周囲を見渡す。
ミルゼンハイムでは、教会の横にある建物を神官や巡礼者だけでなく、旅人用の宿としても提供していた。けれども、この村はミルゼンハイムよりもずっと小さな集落に見える。宿のような施設があるとは限らない。
「人に聞くのが手っ取り早いね」
メフィストが軽く顎をしゃくって示した先に、明かりの灯った建物があった。普通の民家ではなさそうだ。賑やかな気配が漂っている――酒場だろうか。
グレーテルはこくりと頷いたものの、どこか不安げに建物を見つめる。夜更けの、見知らぬ村の酒場――足を踏み入れるには、少しばかり勇気が要った。
まごつく様子に気づいたのか、メフィストが喉の奥でくつくつと笑う。
「酒場は初めて?」
グレーテルがこくりと頷く。
「まだ……成人してないし……」
「まぁ、酒が飲めない人間には用のない場所だね」
メフィストは笑みを浮かべると、迷いなく扉に手を掛ける。
夜の静けさを破って、扉の向こうから酒場のざわめきが漏れ出した。暖かな灯りと、人の気配――二人はその光の中へと、足を踏み入れる。
途端に、酒場のざわめきがぴたりと止んだ。中にいた客たちが、酒を口に運ぶ手を止め、一斉にこちらに視線を向ける。まるで値踏みするように。
(あ、警戒されてる)
グレーテルはすぐに察した。ミルゼンハイムでも、旅人は珍しい。だからこそ、この空気――見知らぬ者に向ける静かな警戒――には、覚えがあった。
もっとも、いつもは警戒する側だったけれど。
「えっと……あの、すみません。この村に、泊まれるところってありますか……?」
恐る恐る声をかけると、客たちは互いに顔を見合わせ、少しだけ空気が和らいだ。
「宿はないよなぁ」
「広場の近くの厩は?」
「雨風は凌げるが、あそこにお嬢さんを泊めるのは可哀想じゃないか?」
客たちは皆、顔なじみなのだろう。テーブル越しに、ぽんぽんと意見が飛び交う。
「あそこは? ほら、フローリヒトがよく来る花畑の近くにある空き家」
「あぁ! あそこか。……鍵、誰か持ってたか?」
「俺が持ってるよ」
立ち上がったのは、頬を赤く染めた大柄な中年の男だった。手にしたジョッキを一息にあおり、口元の髭に残った泡を手の甲でぐいと拭い取る。
「案内してやろう。しかしまぁ……」
髭の男はじろじろと、グレーテルとメフィストを交互に眺める。
「あんたら、どういう関係だ?」
グレーテルはぎくりと身を強張らせた。さすがに「悪魔と契約者です」とは言えない。どう答えたものかと口をもごもごさせていると、メフィストが事も無げに言った。
「故郷を魔物にやられてね。身一つで逃げ出して来たのさ。この子は……まぁ、近くにいたから一緒に逃げてきただけで、関係を問われると言葉に困るね」
すごい。まるで息を吐くように、嘘が並べ立てられている。
そして、グレーテルとメフィストが鞄ひとつ持たない軽装であることにも、誰も疑問を抱かなくなった。
髭の男は眉尻を下げ、「そりゃ、災難だったなあ」としみじみ言いながら、手で二人についてくるように促す。酒場でまだ飲んでいた客たちが「気をつけてな」と声を掛け、三人は夜の通りへと出た。
酒場のむわっとした空気が背後に消え、代わりに涼やかな風がグレーテルの髪を揺らす。ちゃんと屋根のある場所で眠れるという安心感が、緊張を一気にほどいていった。
グレーテルは手の甲で目をこすり、ふわぁ、とひとつ欠伸をする。
髭の男は、欠伸をするグレーテルの様子を見て、気遣わしげに目を伏せた。
「疲労も心労も溜まってるだろ。落ち着くまで、空き家は自由に使っていいぞ。――行く当ては、あるのかい?」
そう言って、ちらりとメフィストに視線を向ける。メフィストは一瞬だけ間を置き、穏やかに首を横に振った。
「これから考えるつもりだよ」
「そうか。まぁ、この村は小さいけど、いつでも花が咲いてる、のんびりした場所さ。兄さんみたいな若い男なら、力仕事はすぐに見つかるだろうし、お嬢さんも花編みなんかが合いそうだ。教会もないし、神官様だって年に一度、祭りのときにしか来ないが……」
――教会すらない。神官が来ない。
グレーテルはその言葉に、思わず「やった!」と声を上げた。
途端に髭の男は訝しげに眉をひそめ、メフィストは諌めるようにグレーテルに目配せをする。グレーテルはしまった、と思い口を閉じたが、後の祭りだ。
「……なんか、喜ぶとこあったか?」
「俺たちの住んでたところは、そもそも祭りもなければ、神官様も来ない場所でね。年に一度でも来てくれるなんて、嬉しくて声も上げたくなるね」
メフィストの手厚いフォローに、グレーテルは心の中で盛大に感謝する。
「へぇ……随分と辺鄙な場所に住んでたんだなぁ。ま、でも、教会と神官様がいる場所なら魔物にやられて逃げ出すこともないか」
男はうんうんと頷き、すっかり納得した様子で前方を指さす。
「おっ、見えてきたぞ」
指差す先には、小さな家がぽつんと建っていた。白い漆喰の壁に赤い屋根――のはずだが、漆喰はあちこち剥がれ落ち、屋根は色あせて苔まで生えている。ドアの木は湿気で膨れ、腐りかけていた。
お世辞にも、綺麗とは言い難い。
「まぁ、その……埃はすごいと思うから、軽く掃除しないと寝られないかもな。家具は何点か残ってたはずだが……ベッドは、今日はやめとけ。明日マットを干してから使った方がいい。毛布を持ってきてやるから、それを床に敷いて休むのが無難だろうな」
そう言ったあと、男はふと思い出したように言葉を切った。
「それから――フローリヒトって、知ってるか?」
聞き慣れない単語に、グレーテルは小さく首を横に振る。
「家の裏手にある花畑にたびたび現れるんだが……もし、出会って花を差し出されたら、受け取っとけ。拒否すると怒って、髪やら服やら引っ張られて散々な目に遭うからな」
髭の男はメフィストに鍵を渡すと、「それじゃあ、先に入っててくれ。すぐ戻る」と手をひらりと上げた。
そう言ってくるりと身を翻し、早足で道を引き返していく。去っていくその背中を見送りながら、グレーテルはほっと息をついた。




