1-01. パイと友人と証拠隠滅
朝の柔らかな日差し。人々が本格的に活動を始める前の静けさ。そして、焼き上がったパンの香り。バターがたっぷり入っているのがよく分かる、美味しい匂いをグレーテルは胸いっぱいに吸い込み、ほぅ、と息をついた。
分厚いミトンを左手にはめ、天板を持ち上げる。カリカリに焼き上がったプレッツェルをトングで取り上げ、丁寧にバスケットに並べていった。
「マルタ! 洗った天板、ここに置いとくよ!」
「ありがと、シーベル!」
店のカウンターの奥から、幼馴染みたちの短いやりとりの声が聞こえてくる。
マルタは焼き上がったパンに、粉糖をふるったり、グレーズを塗ったり、仕上げを担当している。シーベルは小麦粉の袋を運んだり、天板を洗ったり、主に力仕事が担当だ。
そして、パンの生地を作ったり成形するのは、マルタの両親が担当していた。2人はカウンターの更に奥、厨房でせっせとパンを作っている。
ここは、ミルゼンハイムにある小さなパン屋。マルタの両親が経営するお店だ。グレーテルは、このお店で働かせて貰っていた。シーベルも、グレーテルと同じく雇われ従業員だ。
2年前に母親が失踪してから、父親が元々いなかったグレーテルは、自分で食い扶持を稼がねばならず、哀れに思ったマルタの両親が仕事を与えてくれたのだ。
ミルゼンハイムは比較的豊かな土地で、町の周囲には小麦畑がある。今の時期は、黄金の穂を揺らして収穫をいまかいまかと待っている小麦で溢れているのだ。
秋はミルゼンハイムが最も活気づく季節だった。
「マルター。プレッツェルの品出し終わったよ」
空になった天板を洗い場に置きながら、グレーテルは声を掛ける。マルタといえば、もともと吊り目がちな目を更に吊り上げて、必死の形相でフルーツパイの上にグレーズを塗っていた。三角巾の下で、薄紫色のショートヘアが小さく揺れる。
「待って! あとちょっと! ちょっとで終わるから!」
「あ、グレーテル! 手が空いてるなら、洗った天板を拭いてくれる?」
ひょこ、っとマルタの後ろから顔を出したシーベルがグレーテルに布巾を投げる。グレーテルは慌てて手を伸ばし、受け取った。
「もう! 急に投げないでよ」
「ごめんごめん」
ふわふわの柔らかな金髪を揺らしながら、シーベルが笑う。全く反省していない顔だ。
黙っていれば、女にも見えなくもない顔立ちをしているが、シーベルはとにかく動作が雑だった。とはいえ、手先は器用な方で、小さい頃はグレーテルやマルタよりも上手く花冠を編んでいたのを覚えている。
グレーテルはマルタの横に積まれた天板を拭きながら、そういえば、と口にした。
「明日は、神官様が来る日だけど、2人も行く?」
「行く行く」
「んー」
シーベルが軽い返事をしながら、小麦粉を抱えて厨房へと運んでいく。マルタは仕上げに必死で、返事どころではないようだ。
ミルゼンハイムには教会がない。けれども、月に一度だけ神官がやってきて、説教をしてくれるのだ。
主には女神アウレリアと天使に纏わる話や、アウレリアと敵対する邪神と悪魔の物語であるが、人によってはミルゼンハイムから遠く離れた町の話や与太話もしてくれる。娯楽に飢えたこの場所では、外から来た人間の話というのは非常に貴重かつ面白いものだった。
「まぁでも、この前のお爺ちゃん神官のコボルトの話はイマイチだったな」
厨房から戻ってきたシーベルが、よいしょ、と次の小麦粉の袋を持ち上げながら、そう零す。
「家に住み着くっていう魔物だっけ?」
「そうそう。あれさぁ――」
「でーきたー!! グレーテル!! 品出し、よろしく!!」
シーベルは言いかけた言葉を呑み込み、小麦粉の袋を一旦降ろすと、マルタの元にある天板をグレーテルにサッと手渡す。そして、新たなパイの乗った天板をマルタの前に差し出した。
「はい、次はこれ、アプリコットジャム乗せて」
「終わったばっかりなのに……!」
「早くしないと開店時間になっちゃう」
シーベルはジャム瓶とスプーンをマルタの手に押し付けて、小麦粉の袋を持ち上げ、厨房に去っていく。
グレーテルは手渡された天板からフルーツパイを取り上げ、並べながら、マルタに話を振った。
「マルタはこの前の神官様の話、どうだった?」
「んー、あたしは、普通。それより、明日来る神官様は、若い人だといいな」
「なんで?」
「最近の大きい街での流行り事とか、そういうの聞きたい」
なるほど、とグレーテルは納得する。
確かに、若い神官の方が、王都の流行りの話や、他所の都市での事件などを与太話として、意識して話してくれることが多いかもしれない。ミルゼンハイムが東南端にある辺境の街であることを意識してくれているのだろう。
「さすがにもうそろそろ、女神とか天使とか悪魔とかいい加減聞き飽きたわ。何年も聞いてりゃ、同じ話も出てくるし。あーぁ! ミルゼンハイムにも辻馬車の駅が出来てくれたら――あっ!」
ゴトン、クシャッと音がして、流暢に喋っていたマルタが焦った声を出す。手元を見てみれば、アプリコットジャムの瓶が天板の上に落ちたようで、パイが一つ潰れていた。
ふむ、とマルタが考え込む。
「証拠隠滅っ!」
潰れたパイを取り上げて、マルタがかじる。そして、グレーテルの口にも食べかけのパイを突っ込んだ。
「むぐ……っ!」
グレーテルは口の中に入ったパイをかじり取る。
バターの豊かな香りと、瓶から溢れ出たジャムの甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がった。
「共犯ね、グレーテル」
マルタがにやりと笑う。グレーテルは口の中のパイを咀嚼して飲み込むと、小さく笑った。
「じゃぁ、僕も」
パクリ、と厨房から戻ってきたシーベルが、マルタの手にあるパイにかぶりつく。唇の横についたパイ生地の欠片をぺろりと舐めて、いたずらっぽく笑った。
くすくすと笑い合って、お互いの顔を見合わせる。グレーテルは、こうして幼馴染みたちと過ごす時間がたまらなく好きだった。
「えへへ、二人とも大好き」
感じた気持ちを素直に伝えれば、シーベルとマルタは不思議そうな顔をする。
「突然?」
「グレーテルって、たまに突拍子もなく好意を伝えてくるよね」
「まぁ、僕は嬉しいけど」
「もちろん、あたしも嬉しいわよ」
きょとんとしている二人に、グレーテルは曖昧に微笑む。
グレーテルは知っているのだ。
きちんと言葉にしないと、思いが伝わらないことも。ある日突然、永遠に言葉が届かなくなることも。