1-01. パイと友人と証拠隠滅
「ねぇ、悪魔が願い事叶えてあげるって訪ねてきたら、二人はどうする?」
友人からの突拍子もない問いかけに、グレーテルはパンを品出しする手を止めた。隣で天板を拭いていたシーベルも、顔を上げる。
問いかけた張本人であるマルタは、猫のような吊り目を細めて笑った。
「あたしはねぇ、王都に住みたいってお願いする!」
「じゃ、ボクは花畑をくれってお願いするかなぁ」
そう答えて、隣にいたシーベルが再び天板を拭く手を動かし始める。
「それなら、私は熱々の焼きたてプレッツェルを毎日食べたいってお願いする」
グレーテルは小さく笑う。そして、再び品出しの作業に戻った。
朝の柔らかな日差し。人々が本格的に活動を始める前の静けさ。焼き上がったパンの香り。グレーテルは、マルタの両親が経営する小さなパン屋で、幼馴染たちと共に働いている。
グレーテルの住む村――ミルゼンハイムは魔物もいない、比較的豊かな土地だ。周囲には小麦畑があり、今の時期は黄金の穂が収穫を待ちわびている。
秋は、ミルゼンハイムが最も活気づく季節だ。
「っていうか、なんで、突然の悪魔?」
天板を片付けながら、ふわふわの柔らかな金髪を揺らして、シーベルが首を傾げる。
黙っていれば、女にも見える顔立ち。そして、グレーテルやマルタよりも器用な手先。花が大好きなシーベルが作る花冠は、小さい頃から、いつも完ぺきだ。
「ほら、明日は神官様が来る日でしょ? それで、この前の説教を思い出しただけ」
三角巾の下で、マルタの薄紫色のショートヘアが揺れる。手元のフルーツパイの仕上げは順調のようだ。
ミルゼンハイムには小さな教会が一つだけある。けれど、あまりに田舎すぎて、司祭はおろか、神官すらいない有り様だった。そこで、月に一度だけ神官が派遣され、村人たちに説教をしてくれるのだ。
「でも、マルタはそんなに天使と悪魔の話に興味なかったよね?」
グレーテルが問えば、マルタはもちろん、と即答する。
「女神アウレリアと邪神の戦い〜とか、悪魔と契約した愚かな魔女〜とか! 魔物すらいないミルゼンハイムで、そんな話されても、つまんないわよ」
「え、じゃぁ、明日の説教は行かない?」
「行くわよ! 神官様から王都とかの流行りの話が聞けるかもしれないでしょ!」
ふんす、と鼻息を荒くするマルタに、グレーテルとシーベルは同時に苦笑した。
神官によっては、ミルゼンハイムから遠く離れた町の話や与太話もしてくれる。娯楽に飢えたこの場所では、外から来た人間のそういった話は非常に貴重かつ面白いものだった。
「……悪魔、かぁ」
グレーテルはマルタからフルーツパイを受け取りながら、しみじみと呟く。この世にはいるらしいが、魔物すら見たことがないグレーテルにとっては、想像も出来ない存在だった。
「魂を取られるって言われてるけど、どんな感じなのかな?」
「ね。ボクも気になる」
「廃人になるんじゃない?」
新たに焼き上がったパイの上に、アプリコットジャムを乗せながら、マルタがにやっと口角を上げる。
「だって、魂がないって、中身がなくなるってことでしょ? でもまぁ、こんな辻馬車すら来ないような、ど田舎から出て王都に住めるなら、それはそれで契約もアリ――あっ!」
ゴトン、クシャッと音がして、流暢に喋っていたマルタが焦った声を出す。手元を見てみれば、アプリコットジャムの瓶が天板の上に落ちたようで、パイが一つ潰れていた。
「あーあ。悪魔と契約してもいいかも、なんて言ってるから、罰が当たったんだ〜」
シーベルが冗談まじりに茶化す。
グレーテルは、パイを覗き込んで被害状況を確かめる。――どこからどう見ても、救いはなさそうだ。不謹慎な話をして商品を駄目にしたなど、マルタの両親にバレたら、怒られるかもしれない。
マルタは吊り目をさらに吊り上げて、パイを睨んで考え込む。そして、不意に声を上げた。
「証拠隠滅っ!」
潰れたパイを取り上げて、マルタが齧りつく。
そして、隣にいたグレーテルの口にも、流れるようにパイを突っ込んだ。
「むぐ……っ!」
グレーテルは口の中に入ったパイをかじり取る。
バターの豊かな香りと、瓶から溢れ出たジャムの甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がった。
「共犯ね、グレーテル」
マルタがにやりと笑う。グレーテルは口の中のパイを咀嚼して飲み込むと、小さく笑った。
「じゃぁ、ボクも」
天板を片付けたシーベルが、マルタの手にあるパイにかぶりつく。唇の横についたパイ生地の欠片をぺろりと舐めて、いたずらっぽく笑った。
くすくすと笑い合って、お互いの顔を見合わせる。グレーテルは、こうして幼馴染みたちと過ごす時間がたまらなく好きだ。
「えへへ、二人とも大好き」
感じた気持ちを素直に伝えれば、シーベルとマルタは不思議そうな顔をする。
「突然?」
「グレーテルって、たまに突拍子もなく好意を伝えてくるわね」
「まぁ、ボクは嬉しいけど」
「もちろん、あたしも嬉しいわよ」
きょとんとしている二人に、グレーテルは曖昧に微笑む。
――グレーテルは知っているのだ。
きちんと言葉にしないと、思いが伝わらないことも。ある日突然、永遠に言葉が届かなくなることも。




