もう十年も…
<前回までのあらすじ>
富永直樹は星条大学医学部の二年生である。
医学部生として多忙な日々を送る富永。
そんな彼には封印していた過去があった。
十年前、大切な人を失ったのだ。
それ以来、富永は外界との交わりを極力絶つようになり、現在は高校時代からの交際相手である平野翠や、やたらと富永に執着する薮朋宏といった限られた人間関係のなかで生きている。
六月十二日。
それは憂鬱な雨の日。
大学での自習を終え、富永は帰宅後の勉強計画を考えながら帰路につく。
I'm feeling my self again...
正門を出たとき、聞き覚えのある歌声がした。
「久しぶりだね、ナオくん」
そこに立っていたのは、十年前に死んだはずの安住萌であった。
*とある回顧録
『あの日から、彼は変わってしまったと思う。
別に、彼のことを特別愛していたというわけではない。彼もまた、私のことを愛していたとは思わない。ただ、自分の心の穴を埋めてくれる存在。学生の恋愛なんてその程度のものに過ぎない。
もともと異性に関心はなかった。将来は結婚したいと考えていたが、それも将来の話で、学生のうちは独り身を謳歌するつもりであった。それでも彼と付き合うことを決めたのは、彼に人間的な興味を抱いたからだ。初めて会った時から、彼は遠くを見つめるようにぼんやりと生きていた。生まれつき感情を持ち合わせていないような、悲しき機械のような人間。これまでこの種の人間に出会ったことはなかったので、私は密かに彼を観察することにした。
気づいたことはいくつかある。まず、彼には友人と呼べる存在がほとんどいなかった。教室に引きこもっているわけではないが、彼はいつも一人で行動する。周囲から避けられているのではなく、彼が周囲を避けているような印象であった。
また、彼は過去について話すことを極端に嫌った。神様のいたずらか、私は偶然彼と共同で研究することになったのだが、過去の話になると彼は急に口をつぐむ。覚えていないという一点張りで、彼の過去について私は何一つ知らなかった。
付き合い始めてからも、彼はほとんど態度を変えなかった。彼の方から告白してきたのだから、私はてっきり彼が感情を取り戻したのかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼が何を考えて私に接近しようとしたのか、その謎めいた行動に、当時の私はますます興味を抱いた。
彼を特徴づける一連の行動の意味が分かりかけた日。
それが六月十二日、彼女が復活した日であった。
あの日から彼は変わってしまった。ようやく感情を持った普通の人間になった。つまり、彼から感情を奪ったのは、間違いなく彼女である。彼らの間に何が起きたのか。知りたいという好奇心は鳴りやむところを知らない。彼らの内情を探ることが、私の当面の目標となった。
そして全てが解き明かされた時、私と彼の物語は幕を閉じるだろう。そこが、私たちの偽りの愛の終着点だ。』
2
十年前、安住萌は死んだ。
明朗活発で、いつもみんなの中心にいて、そのうえ天才的な頭脳を持ち合わせていた安住萌。星条大学附属小学校の生徒なら、彼女を知らない者はいない。小学生にして将来を確約された時代の寵児。周囲の人々は、彼女と親しく付き合いながらも、心のどこかで敬遠しようとしていたに違いない。
一方、天才に臆することなく、一層親交を深めた人もいた。その一人が富永である。きっかけは入学して間もない頃に作られた、最初のグループであった。偶然一緒になった四人は意気投合し、学年が変わっても解散することなく、放課後はいつも行動をともにしていた。言うまでもなく、安住萌はその中心にいた。思い返せば、富永たちを結び付けていたのは安住萌の存在だったのかもしれない。
関係がこじれてきたのは小学三年生の頃。安住萌が大学の研究室にスカウトされてからであった。小学生ながら研究機関に勧誘されることは、名誉を通り越して異常事態であり、安住萌にとっては才能を発揮する、願ってもいないチャンスであった。ただ、当時の安住萌は逡巡していた。せっかく良好な関係であった四人グループを蹴ってまで、研究室で得られることがあるのか。周囲の生徒の嫉妬を買って、小学校で孤立しないか。安住萌を悩ませていたのは、もっぱら友人関係に関することであった。
しかし、富永たち三人の意見は一致していた。「行ってこい」と。これは狭い鳥籠から抜け出す千載一遇の機会である。学校に飼い殺しにされている才能を遺憾なく生かすためには、大学の研究機関に従事することが一番だ。それに、巣立った鳥が生まれ育った場所に戻ってくることに、何の問題があろうか。大学に行っても俺たちが離れ離れになることはない。もし周囲から妬まれても、俺たちだけは安住萌の味方だ。富永たちは彼女を激励し、大学へ送り出した。
約束は半分だけ守られる形となった。富永たちは彼女の味方であり続けたが、彼女が不在の時は集まることがなくなった。安住萌ではなく、他の三人が離れ離れになってしまったのである。やはり富永たちを結び付けていたのは安住萌であった。求心力を失えば、脆く崩壊するのは必然だ。
小学四年生の頃には、安住萌はほとんど帰ってくることがなくなった。富永以外の二人もそれぞれ新しい友人関係を築き、グループは半壊状態となっていた。それでも富永だけは、孤独に現状を維持し続けた。彼女の帰る場所を、自分だけでも守り続けなければならない。明確にそう考えていたわけではないと思うが、無意識の信念が当時の富永を突き動かしていた。
しかし、十年前の六月十二日。唐突に日常は終わった。
安住萌は、永久に帰らぬ人となったのである。
彼女の死を知る者は富永を含め、ごく少数に限られていた。翌日、白衣を着た謎の男性が小学校に来たことを覚えている。安住萌と特に親交が深かった三人が校長室に呼び出され、死という事実を淡々と告げられた。三人もまた、淡々と説明を聞いていた。
「どうして、安住は死んだんですか。」面会中に唯一富永が発した言葉。実はこの時、富永には心当たりがあった。安住萌が死んだ理由に。しかし、白衣の男性が質問に答えることはなかった。彼女の死は、大学によって隠蔽されることになったのである。そのため、必要以上に経緯を知ることは許されなかった。富永もそうだが、星条大学附属の小学生は歳のわりに物分かりが良い。安住萌の死には何かしらの大人の事情が関わっており、それが世間に公表されると不都合が生じるのだと、当時の富永は理解していた。いや、無理矢理にでも自分を納得させようとしていた。
その日、富永は無言で涙を流した。
悔しかったのだ。何もできなかった、無力な自分を恥じたのだ。
安住萌の運命を変えられる人がいたなら、それは富永であった。降り積もる後悔は、富永をさらに孤独にさせた。この悲しみは一生背負っていく。安住萌のことは、生涯引きずって生きていく。そして、大人になったら黒幕を必ず暴いてやる。
そう誓ったはずだった。
いつからだろう、彼女の記憶が風化し始めたのは。現実の富永は、あまりに脆く弱い人間であった。いや、誰かの死を背負って生きていくなど、子供にはあまりにも荷が重すぎたのだ。気がつけば、富永は過去の記憶に蓋をしていた。安住萌が死んだこと、安住萌と過ごしたこと、安住萌との時間の全てを封印していた。そして、長い時をかけて、彼女はゆっくりと富永の心から姿を消していった。
安住萌を忘れたまま生きていれば、富永は幾分か幸福な人生を送ることができたのかもしれない。
しかし、安住萌はここにいる。安住萌は生きている。
見えざる手は富永を離さないのだ。
*
湿気交じりの夜風がぬるりと頬を撫でる。
梅雨前線は呑気なものだ。人々がせわしなく働いている時に、天空から高みの見物を決め込んで動かない。さぞ良い気分だろうと、富永は虚空を睨みつける。
安住萌が謎の復活を遂げてから一週間。世界は驚くほど何も変わらなかった。いつも通り雨は降り、いつも通り教授は教壇に立つ。いつも通りどこかで笑いがあっては、いつも通りどこかで悲しみがある。たかが人間一人が生き返ったくらいで、世界の理には何ら影響を与えない。
しかし、富永の日常は大きく変わった。講義と課題を繰り返す毎日に、安住萌が加わった。今や、安住萌のことを考えない時間はない。富永の生活のどこかしらに、安住萌が存在している。
あの日から安住萌とは会っていなかった。偶然正門前で見かけたきりで、普段彼女がどこで生活しているのかは全く知らない。ただ、白衣姿という状況から推測するに、彼女が大学のどこかにいることは間違いない。とにかく、もう一度彼女と会って、じっくりと話をしたい。この空白の十年間、安住萌は何をしていたのかと。
人混みを縫うように富永は足を進める。約束の時間が近い。
仙台の夜を支配する国分町。ここは毎日午後七時くらいからにわかに活気を帯び始める。仕事の愚痴や客引きの声が飛び交い、聞いているこちらまで世の厳しさを感じてしまう。そんなことを考えているうちに、富永は約束の居酒屋に辿り着いた。
その時、富永の背後から、パッとクラクションの音が鳴った。反射的に歩道の端に避けるが、冷静に考えれば、それほど道路の真ん中に立っていたわけではないことに気づく。振り向くと、そこには古ぼけたシルバーカラーの車から顔を出す男の姿があった。
「うっす」
陽気な声が富永を呼んだ。
「久しぶりだな、越生。」
「トミーこそ、時間ぴったりに来るのは変わらないね。」
「良いから早く車を置いてこいよ。」
「はいよ。二分くらい待っててくれ。」
彼は越生光。富永の数少ない友人の一人である。
五分後、越生は小走りで居酒屋に戻ってきた。二分という宣言はまるでなかったかのように、越生は富永を二階へ案内する。友人の少ない富永は滅多に居酒屋など訪れないので、そのあたりの所作は越生の方がよく知っていた。今回の居酒屋も越生がよく通っている場所らしく、手際よく予約までしてくれた。
「それじゃあ、十年ぶりの再会に乾杯。」
二人はとりあえずレモンサワーを注文し、グラスを鳴らす。居酒屋の想像以上の騒がしさに、最初は落ち着かなかったが、卓につくと雑音も気にならなくなってきた。
やはり、越生には実家のような安心感があった。十年ぶりに対面したとはいえ、気の置けない間柄は変わっていない。富永は一気にレモンサワーを飲み干す。
「最近どうしていたんだよ、トミー。」
一方の越生は、些か恐縮しているように見えた。それも無理はない。極端に人と関わろうとしない富永が、今となって突然越生に声をかけたのである。天地がひっくり返ったような異常事態、越生はそう認識していた。
「別にどうもしてないけど。越生こそ、最近調子はどうなんだ。」
「たしかに、そう言われると答えに困るな。」
越生が星条大学に進学したことは何となく知っていた。越生とは附属小学校からの仲である。直接聞いたわけではなかったが、星条大学に進学するのは必然だ。
二人はお通しのサラダで食いつなぎながら、他愛ない近況報告をしあった。越生が工学部に所属していること、今はロボット開発に従事していること、自分に開発の才能はなく、むしろ営業系の方が得意だと気づき始めていること。友人だと思っていたはずの越生について、何一つ知らないことを富永は痛感する。やはり十年というブランクは大きい。失われた時を取り戻すためには、それ以上の時間が必要なのだ。
「というか、越生。お酒飲んで大丈夫なのか?」
「年齢か?まあ、まだ十九だけど、実質二十歳だからセーフだよ。」
「それもそうだが、車で来たんだろ?飲酒運転はさすがにまずいだろ。」
「ああ、そういうことね。まあ、今日は歩いて帰って、明日の朝回収すれば良いよ。」
駐車料金にこだわらないところが越生らしい。彼は昔から、物事を適当に済ませる性質があった。
「そもそも、あの車ってお前のものなのか?」
「ほお、さすがトミー。鋭い質問だねえ。」
どこが鋭いのか全く理解できなかった。富永はただ、あの車が越生家の所有物なのか、越生光の所有物なのかを聞いただけである。特に深い意味もない、当たり障りのない質問だ。
「ここだけの話、実は俺の車じゃないんだ。」
「親の車ってことか。」
「違うよ。」
越生が悪そうな笑みを浮かべる。
「拾い物さ。空地に放置されていた車を、勝手に使っているんだ。」
「は、はあ?」
富永は越生の正気を疑った。
「それ、犯罪だろ。」
「客観的に見れば犯罪だな。でも、俺が小学生の時からずっと同じ草むらの陰に放置されていたし、車体に蔦が生い茂って、おまけに鍵までつけっぱなしだった。これは捨てられたも同然だろ?」
越生はそう言うが、主観的に見ても犯罪である。占有離脱物の横領は、一年以下の懲役または十万円以下の罰金に処されるらしい。
「車検とかどうなっているのか、少し気になるけどな。まあ、通報されなければ問題ないよ。」
「俺が通報してやろうか?」
「勘弁してくれよ、それは。」
思いもよらず、越生の弱みを握ってしまったが、時間の無駄なので、彼を警察に売るようなことはしない。
「それにしても驚いたよ。突然トミーから電話がかかってきたと思ったら、今度会えないかってさ。」
話を逸らすように、越生が言った。気づけば越生は富永よりも早いペースでお酒を飲んでいた。これでは明日の朝も運転ができないのではないかと心配になる。
「これは、明日死人が蘇っても不思議じゃないねえ。」
越生が冗談らしく言う。富永のグラスを握る手がピクリと反応した。この時まで、彼も安住萌の存在を忘れていたことだろう。校長室に三人で呼び出されたことも含め、彼女に関する記憶は海馬の奥深くに眠っていたはずだ。
いつこの話題を切り出そうか考えていたが、越生の発言をきっかけに、ようやく心の準備が整う。
「それが、本当なんだよ。」
「へ?」
越生の表情が戻る。富永がくだらない冗談を言う質ではないということは、越生が一番よく知っていた。そして次の言葉に、越生は震えあがった。
「安住萌が生き返った。」
「安住萌…!」
静寂。越生があまりにも大きい声を出したせいで、居酒屋の空気が一瞬で凍り付く。周囲の視線が集中し、富永たちは恥ずかしそうに俯くが、幸運にもそこへメインディッシュが到着した。「お待たせしました」という店員の声により、周囲は何事もなかったかのように活気を取り戻した。
「トミー、いつからお前は不謹慎な人間になったんだ?」
「どうして俺の人間性が否定されるんだよ。」
「だって安住萌は十年前に…。」
明らかに越生は平静さを失っていた。それもそのはず、越生も安住萌の死を知っている一人だからである。安住萌が大学にスカウトされたこと、彼女を快く送り出したこと。そして、十年前に突然彼女の死を告げられたこと。越生は富永と全く同じ道のりを辿ってきたのだ。叫びたくなるのも頷ける。
「俺だって分からないよ。でも、本当のことなんだ。」
一方、富永は至って真面目であった。富永と安住萌が友人以上の親しい関係であったことは、越生も覚えている。そんな富永が平然と彼女を語るとは思えない。
「まじかよ…」
越生はレモンサワーを手に取り、一度気持ちの整理をする。疑念は晴れないが、今は富永を信じるしかない。信じなければ、話は始まらない。
「…それで、あずみんはどこにいたんだ?」
トミーという呼び方もそうだが、越生は変わった呼び方を用いる。彼曰く、本名で呼ぶよりも親しみが感じられるということらしい。
「ああ、先週たまたま正門で会ったんだ。」
「何か話した?」
富永は首を横に振る。あの時は動揺しすぎていたせいか、逃げるように体を翻してしまった。当然のことだ。幽霊の存在は信じていなかったが、状況が富永の固定観念を破壊した。素直に再会を喜ぶことはできない。
「それって本物のあずみんなのか?」
「本物…」
実際のところ、富永はまだ確信には至っていなかった。冷静に考えて、死人が生き返るはずがない。安住萌とそっくりな容姿をもつ赤の他人と考えるのが筋だろう。しかし、たしかに彼女は「ナオくん」と呼んだ。富永をこう呼ぶのは安住萌しかいない。彼女は間違いなく、十年前の記憶、富永たちと過ごした記憶を持っている。
「まあ十年も経っているから容姿はともかくとして、ナオくんっていう呼び方は気になるな。」
「ああ。」
「あずみんとは何か話したのか?」
富永は首を横に振る。電話番号もメールアドレスも知らない。幼いころは家族ぐるみで遊んでいたが、安住萌の家族が今どこに住んでいるのかも分からない。彼女と連絡をとる手段は一切なかった。つまり、アナログ的にもう一度彼女を見つける必要があるのだ。しかし、この広い大学でどうやって彼女を見つけ出すか。非効率で、途方もない時間がかかることは明らかである。
「それともあれは幻だったのか…」
富永は無念を晴らすがごとく、酒を浴びるように飲む。せっかく再開できたのに。もう一度話したいのに。あの日、彼女に伝えられなかったことがあるのに。奇跡的なチャンスを無下にしてしまうことが、あまりにも残酷のように感じられる。
「…なあトミー、覚えているか?」
そんな富永を見かねたのか、越生は励ますように話し始めた。
「二年前、尾崎雅彦教授がビッグニュースになったよな。その時の教授のある言葉が、その年の流行語大賞になったんだ。それを思い出してみろよ。」
覚えている。その言葉は、富永に強烈なインパクトを植え付けた。
【我々研究者は、可能性の奴隷です】
越生がパチンと指を鳴らす。
「そうだ。俺たちは可能性の奴隷なんだよ。そこに可能性がある限り、止まることを許されない。つまり、たとえ彼女と連絡する手段がなかったとしても、そこでくよくよするなってことだろ?」
越生の言うことは正しかった。たかが連絡先を知らないというくらいで、安住萌を諦めてはならない。
「それに、トミーは医学部キャンパスの正門で彼女を見つけたんだろう?それなら、あずみんは医学部である可能性が高いってことじゃないか。」
「医学部で俺と同学年…。それならどうして今まで俺は気づかなかったんだ?」
「そんなの単純明快さ。」
富永の疑問を吹き飛ばすように越生は言った。
「トミーがずっと下を向いて生きてきたからだよ。」
友人の指摘に、富永ははっと顔を上げる。越生は自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「良かったな、トミー。あずみんがもう一度お前に、上を向いて歩くことを教えてくれたんだ。」
過去にも戻れず、未来にも進めなかった富永。安住萌は、止まっていた一歩を踏み出す勇気を与えてくれた存在なのだ。
*
越生と話してから既に二週間が経っていた。今日もしとしとと雨が降っている。梅雨前線が別れを惜しむように、最後の輝きを放っているようだ。
時刻は午後二時。ピークが過ぎた人気のない食堂で、富永はいつも通りパソコンと向き合っている。普段は賑やかな食堂も、この時間になると不気味なほどに落ち着きを見せる。自習室が満員で仕方なく食堂へ来たわけだが、案の定、集中力が持続しなかった。
腕を組みながら体を伸ばしていると、そこへ見知った影がやって来た。
「あら、奇遇じゃない。こんなところで。」
「ああ、平野か。」
彼女もまた、自習室から追い出される形で食堂に辿り着いたらしい。平野は静かに富永の前の席に腰かける。いつもそうだが、平野の行動にはいちいち上品さが備わっていた。これまで両親に大切に育てられてきたのだろうと、富永は些か引け目を感じる。
「見たところ、全然進んでないようね。」
富永の窮状を察し、平野が労いの言葉をかけた。
「遺伝学の課題なんだけど、どうもうまく理解できないんだよな。」
富永は再びパソコンに向き合う。
「…嘘ね。」
「え?」
突然の平野の指摘に、富永は首をかしげた。何も嘘を言ったつもりはないが、平野には嘘と感じるところがあったらしい。
「普段の富永くんなら、この程度の問題なんて三十分で終わらせられるはずよ。」
「いや、そんなことはない。」
謙遜ではない。たしかに富永が課題に手こずることは少なかったが、今日に関しては本当に苦戦している。しかし、平野は疑いの目を背けることなく続ける。
「多分、集中力の問題ね。」
「ああ…そう言われてみれば、たしかに食堂だから集中できないのかもしれない。」
「そんな些細なことじゃないわよ。」
図星であった。観念したかのように、富永は視線を落とす。
何故これほど非効率なのか、本当は分かっていた。
理由は明白、安住萌の消息をまだ突き止められていないからである。越生との飲み会以降、富永は周囲に気を遣いながら歩くようになった。キャンパス内にとどまらず、駅のホームでも、仙台の街中でも、常に安住萌を探している。時々自分が馬鹿らしくなるが、今、富永の辞書に「撤退」の二文字はないのだ。
「最近何かあった?」
平野が尋ねる。彼女は富永の悔恨どころか、安住萌の存在すら知らない。ただ、ここで秘密を打ち明けるのは悪手だと思う。平野にまで迷惑をかけるつもりはないし、何より安住萌の存在によって富永との関係に亀裂が生じる可能性もある。無論、十年前に死んだ安住萌が、つい最近生き返ったなど平野が信じるはずない。これ以上面倒事を抱えたくはなかった。
まごまごする富永を見て、平野は眉間にしわを寄せていた。
「私に言えないことなの?」
「別に、平野には関係のないことだから。」
「一応これでも私はあなたの彼女よ。関係ないことなんてあるかしら。」
「俺の問題だから、気にするなって。」
「まさか、浮気じゃないでしょうね?」
平野の言うことはあながち間違っていなかった。好意はともかく、安住萌が復活して気持ちが浮ついていることはたしかである。これ以上誤魔化そうとすると、かえって疑念が深くなると思い、富永は言葉を選びながら話し始めた。
「…実は、人を探しているんだよ。」
やっと白状したかと言うように、平野は耳を傾ける。
「どんな人なの?」
「髪はショートで、猫みたいに大きい目で、背は低めで…あとはいつも明るいオーラが漂っているって感じかな。」
「ふうん、女の子なのね。」
平野が白い眼を向けるので、富永は瞬時に首を振る。
「別に浮気とかじゃないからな。」
「じゃあ富永くんとはどういう関係なの?」
そう言われると反応に困ることに、富永は初めて気づいた。俺と安住萌はどういう関係性なのだろう。幼馴染、小学校時代の級友、仲の良いグループ、思いつく限りのことを平野に伝えたが、自分の中でしっくり来るものがなかった。
これほどまでに安住萌のことを伝えられない自分が恥ずかしい。当然だ。十年間彼女の記憶を封印し、にわかに彼女のことを思い出そうとしているのだ。むしろ、記憶の断片が残っていることの方が奇跡のように思える。
「まあ、大体分かったわ。私だって、何年も会っていない友達がいたら会いたいもの。」
「理解が早くて助かる。」
良い加減な説明であったが、平野は納得したらしい。安住萌なら、謎を究明するまでしつこく問い詰めてくるだろう。最低限の情報が出そろえば、その後は深く入り込もうとしない。そこが平野の良いところであった。
「でも、こんな広大なキャンパスで、どうやってその子を見つけるつもり?」
「それが分かれば、遺伝学の課題なんてすぐに終わっているよ。ただ、医学部にいる可能性は高いから、その辺を歩いていてもおかしくないんだが…」
近くにいるはずなのに会えないもどかしさ。できることをしても成果の出ないむずがゆさ。日々、富永の葛藤は増すばかりである。このままでは、今月末に控える期末テストに支障が出る可能性がある。幽霊に取り憑かれて学業が疎かになるなど、笑い事では済まされないことであった。
外を眺めると、雨はだいぶ落ち着いていた。雨が上がれば、多少は気分も晴れるかもしれない。六月十二日、彼女が復活した日も似たようなことを考えていた気がする。気持ちを切り替えるように、富永は深呼吸をした。
「例えば、あんな感じの子?」
不意に平野が視線を奥にやった。富永も無意識的に後ろを振り返る。
奇跡は、願ってもいないときに起こるものだ。
梅雨の終わりにふさわしい爽やかな短髪、身長とは対照的な大きい目、いつまでもフレッシュ感のある白衣姿。一人の女性が食堂前の通路を歩いている。見間違えようがない、富永は確信する。
「安住萌…!」
「ちょ、ちょっと!」
富永は平野の存在も忘れて立ち上がった。見えない糸に引っ張られるように彼女を追う。そこにある希望を求めて、蜘蛛の糸を伝うように。
*
「安住!」
階段を駆け下り、建物を出たところでようやく彼女に追いつく。最近運動をしていないことに加え、全速力で追いかけたため、既に息は上がっていた。
「あら、ナオくん」
安住萌はゆっくりと後ろを振り返った。驚くほどに、彼女は普通であった。十年ぶりの再会に気持ちが高ぶっている富永とはまるで違う。安住萌は優しい微笑みを浮かべる。
「どうしたの?そんなに焦って。」
「どうしたのって…」
やっと会えた。それなのに、いざ相対するとかけるべき言葉が見つからない。気まずい沈黙。空白の十年間は、そう簡単に埋められるものではない。そもそも、このブランクを重く受け止めているのは富永だけなのかもしれない。普段と変わらない調子の安住萌を見ていると、彼女は富永との再会について何も気にしていないように感じられる。
「お前、安住だよな?」
「うん、私の名前は安住萌です。」
ぎこちないやりとりに、さすがの安住萌も困惑の表情を浮かべる。声のトーンも雰囲気も、十年前と何も変わらない。
彼女は安住萌である。富永は目の前の現実を必死に受け入れようとしていた。死んだはずの安住萌が生きているという現実を。
何とかして、彼女の口からその現実を確かめたい。しかし、十年前に死んだことなど、彼女に聞くことができるだろうか。「あなたは十年前に死にました。あなたは偽物ですか?それとも本当は死んでいなかったのですか?」無礼にも程があり、そもそも相手にされないかもしれない。一旦、このことは念頭から外す必要があった。
とにかく、何か話をつなげなければならない。富永は機能していない思考回路を懸命に働かせる。
「安住、今は何をしているんだ?」
質問したいことは山のようにあるが、それを順序立てて聞けるほど、今の富永は冷静ではなかった。思い浮かんだことをそのまま聞く。
「そうだね、ナオくんとは久しく会ってなかったから、何も分からないよね。」
安住萌が言う。
「昔からそうだけど、今も私は星条大学で研究に携わっている。まあ、内容は極秘事項とされているから、あんまり話せないんだけど。」
相変わらず安住萌は研究漬けの日々を送っているらしい。それを聞くと、講義の課題ごときで悲鳴を上げている自分がくだらないように思えてくる。
「それは、星条大学の学生として研究室に所属しているのか?普段の講義はどうしているんだ?」
「それがちょっと特殊でねえ。一応ここの学生なんだけど、卒業単位数は関係ないって言われてるんだ。特待生みたいなイメージ?だから、仕事に支障が出ない範囲で、私がとりたい授業だけとっているって感じかな。」
聞き捨てならないところは多々あった。しかし、それを問うたところで、ルールだから、大学の制度だからという曖昧な回答が返ってくることは目に見えている。安住萌は富永とは別の次元を生きている。そういうものとして納得するしかない。
富永は頷き、次の質問に移る。
「それで、この十年間、安住は何をしていたんだ?」
これが一番聞きたいことであった。富永にとっては失われた十年である。富永が植物のように生きているなか、安住萌はどのような人生を送っていたのか。これを確認しなければ話は始まらない。
「そっか、十年か。」
少しの間の後、安住萌はぽつりと呟いた。
「私がナオくんたちと離れてから、もう十年も経ったんだね。」
どこか、哀愁漂う声色であった。すると、安住萌は徐に持っていた傘を手放し、スキップをしながら屋根の外へ飛び出した。
彼女は静かに降り続ける雨の中で身を躍らせ始めた。まるで牡丹の上を蝶が舞うように。時折水たまりに足を踏み入れ、軽快に水しぶきが上がる。彼女の頭の中では、何か音楽が流れているのかもしれない。雨音が良い感じにリズムを奏で、日常のキャンパスが一瞬にして幻想的な舞台へ変貌する。
彼女は小学生のように水色の長靴を履いていた。十年前の光景がフラッシュバックする。
そういえば、安住萌は雨が好きだった。小学生の頃、雨が降るといつも彼女は楽しそうであった。多くの生徒は校舎内で遊ぶというのに、安住萌は傘も持たずに校庭に出ていた。
「ナオくんも行こうよ。」幼い安住萌の声が蘇る。一人で外に出ようとする安住萌を引き留めようとした時のことだ。「風邪引くから止めた方がいいよ」と、富永は説得を試みるが、意外と彼女は頑固なところがあった。「どうしてみんな引き籠もっちゃうのかなあ。」安住萌は不思議そうに首を傾げる。「雨に当たるって、すごく気持ち良いことなのにね。」
雨は嫌いだ。今でも安住萌の言葉には共感できない。しかし、あの頃と変わらず雨を楽しむ彼女を見ていると、意外と悪い気分ではないことに気づく。これまでの鬱憤が、跡形もなく消え去っていく感覚は気のせいだろうか。
「ほら、ナオくんも踊ろうよ。」
安住萌の声によって現実に引き戻される。飽きる様子もなく、彼女は軽快なステップを踏んでいた。雨の舞台で舞う気分を味わってみたい気持ちもあったが、さすがに富永は遠慮する。三限の授業時間中であるが、富永たちと同様にキャンパスで空き時間を潰している学生もちらほら見受けられた。良い歳をした男女が、子供のように雨ではしゃぐ姿など、恥ずかしくて見せられない。できることなら、今すぐにでも安住萌に止めるように言いたいところであった。
「なあ安住。」
遮るように、富永は問いかける。
「この十年間、どこで何をしていたんだよ。」
安住萌は雨中に舞うことでお茶を濁そうとしている。富永はそう感じていた。今日、何としてもその答えは得なければならない。執拗なことは百も承知で、富永は安住萌を問い詰める。
事実、彼女は富永から目を背けていた。彼女なりに言いたくない理由があるのかもしれない。しかし、それならなおさら究明する必要がある。十年という穴を埋めなければ、富永たちはいつまでも前へ進めないのだ。
「それがね、あんまり覚えてないの。」
安住は言いにくそうに、重い口を開いた。
「覚えてない?」
「そう、ほとんどの時間は研究の協力に費やしていたから、これといったことはしていないと思う。」
また煙に巻こうとしているのかと、富永は歯痒くなる。しかし、事は想像以上に深刻であるのかもしれない。
「特に十年前、ナオくんと離れてからの五年間は本当に全然記憶がないの。実験室で何かをしていたことはたしかなんだけど、思い出せないのよね。」
解離性健忘。富永は瞬時に思い浮かべる。何か強いストレスによって、記憶に障害が出る症状、それが解離性健忘である。その五年の間に、何か重大なトラウマとなり得る出来事があったのか。まだ断定はできないが、安住萌にとって負の記憶が存在している可能性は高い。
「本当に何も覚えていないのか?」
焦っていたせいか、富永は医者らしくもない質問をする。本来、強いトラウマを無理矢理に思い出させることは悪手であった。強引に鍵のかかった部屋をこじ開けようとすると、鍵が変に壊れ、かえって状況が悪化する可能性がある。富永は質問をした後で、自分の過ちに気づいた。
「うーん、でも、さっきも言った通りだよ。」
しかし、安住萌は気にする様子もなく言った。
「研究内容は極秘事項とされているの。だから、もし覚えていたとしても、それは言っちゃだめだと思うんだ。」
「まあ…」
踏み込みきれない自分の弱さを憎む。
「ごめんね、ナオくん。」
「え?」
「ナオくんのこと、信頼していないわけじゃないんだよ。」
安住萌は申し訳なさそうに富永を見つめた。
「どうして安住が謝るんだよ」と、富永はさらに自分を責めた。彼女は何も悪くない。彼女に気を遣わせてしまった自分の方が余程悪いのだ。そして、彼女の記憶に関わる何かが最悪な存在であるのだ。
梅雨の終わりの生暖かい空気が、富永たちの間に割って入ってくる。
まだまだ安住萌のことは分からない。しかし、彼女と話し、一歩前進できたことは確かであった。
続く




