I'm feeling my self again
*とある回顧録
『昔、一人の科学者が死んだ。
彼女を語ることはとても難しい。頭脳明晰、才気煥発、国士無双、どんなに素晴らしい四字熟語を並べても彼女を表現しきれない。敢えて浅薄な言葉を使って伝えるなら、彼女は科学者として天才であった。同じ科学を探求する者として、私は彼女を尊敬しており、憧れを感じていたのかもしれない。
彼女と私はとある研究をしていた。それは世界を救う可能性を秘めた誇り高き研究であり、同時に人類の禁忌に触れる可能性を秘めた恐ろしい研究でもあった。
実際、研究所の中でも賛成派と反対派による激しい議論がなされていた。あの頃は研究どころではなかったと今でも思う。長らく続いてきた私の研究所も、内部分裂で崩壊してしまうのかと、冷や汗をかいていた。
議論に決着をつけたのは、無論彼女であった。彼女は私の研究室で一番若輩であったにも関わらず、他の同志たちをねじ伏せた。それは、未来を担う彼女の情熱的な説得に感化されたことも大きいだろうが、私は彼女のカリスマ性がその場を圧倒していたと考えている。彼女についていけば大丈夫だという信頼、そして、彼女についていかなければならないという畏怖の念が、私を含めた同志たちの胸に宿った。冷静に考えれば情けないことである。
研究は良好に進んでいたと思う。私たちは政府や学生の保護者からの支援金で研究を行っていたため、その内容を公表しないわけにはいかなかった。そのため、時には世間からの批判を全身に浴びることもあった。
過酷な研究に、研究所を辞めていく同志もいた。言うまでもないが、大学の研究所の八割以上はブラックである。それは仕方のないことだ。身も千切れるような努力の末に成功があることは明らかである。この程度で脱落する同志たちには、正直失望したものだ。
当然、彼女は常に私たちの先頭に立っていた。彼女の分析や洞察には何度も驚かされた。これほど優秀な人材が果たして私の研究所に留まっていても良いのかと、自分自身に嫌悪感を覚えたほどだ。
そして研究は佳境に入る。
そこで、彼女は死んでしまった。
しかし、それは彼女の本望であると私は確信している。何も、彼女が死ぬ必要はなかったのかもしれないが、この研究は彼女の犠牲の上に成り立っている。
故に、私は今日も研究を続けている。彼女の意志を無駄にしないためにも。』
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憂鬱な雨の日。
そこに安住萌は立っていた。
十年前の、彼女の予言通りに。
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1
安住萌を定義するには、三つの要素が必要である。
一つ目、彼女は星条大学附属小学校の生徒であった。星条大学は現在、日本における最高峰の私立大学として名を馳せており、狭き門を突破した優秀な学生たちが、日々研究活動に励んでいる。中でも附属校出身の生徒は「エリート組」と呼ばれており、周囲の学生からは一目置かれている存在である。エリート組は、一般学生には考えられない特殊な環境で育っている。それは附属校入学選抜試験から始まり、過酷な進級試験や個人的研究活動など、並の学校生活とは程遠い。こうした常人離れしたような教育を小学校から受けていた安住萌もまた、常人と言い難いことは想像に容易いだろう。
二つ目、彼女は天才的な科学者であった。エリート組を普通の定規では測れないことは言うまでもないが、一学年百人程度の中で、彼女は群を抜いていた。附属校の生徒たちは研究活動を行っているが、それはあくまで個人の活動であり、将来的に大学の研究室で活躍するための練習のようなものだ。安住萌は小学校三年生の時点で、既に大学の研究室の見習い助手として働いていた。早くから開花させていた才能を買った大学教授が、彼女を自身の研究室にスカウトしたのである。小学生のスカウトという先例は当然存在せず、無論学年でも彼女一人であった。しかし、これについては安住萌がもともと教授とのパイプを持っていたとか、研究以外の目的で雇われていたなど様々な噂が存在し、真偽は分かっていない。
三つ目、彼女は富永直樹の初恋の人物であった。安住萌の初恋の相手もまた、富永直樹であった。研究に没頭しているように見えるが、安住萌は日常生活も充実していた。基本的に彼女は研究者気質ではない。明るく、社交的で、誰とでも友達になることができる。満月のような笑顔は彼女の特筆すべき長所だ。一方で、音楽だけはてんでダメ。完全無欠な彼女も、マイクを持たせると一気に凡人になる。このように、天才と呼ばれつつも人間味に溢れる人であったため、彼女は周囲から人気があった。そして、こうした人柄から異性との関係も深め、富永直樹とは両想いだと学年中で囃し立てられていた。小学生の恋愛は、厳密には恋愛とは言えないかもしれないが、安住萌が富永直樹に対して好意を抱いていたことは事実である。
しかし、安住萌はいなくなってしまった。
彼女は今後の研究活動の充実のために、海外に長期留学していることになっている。しかし、それは大学によって捏造されたものだ。彼女に起きた真実を知る者は、ごく少数に限られている。富永直樹もその一人であることは言うまでもないだろう。
*
日曜日に早起きをする人は、世界中を見渡しても半分に満たないのではないか。早朝の街の通りを行き来する人の数から判断するに、この推察はあながち間違っていないと思う。
「明日、朝八時に集合で。」
昨晩、何の前置きもなしに送られてきたメールによって、富永直樹の日曜日は潰えた。
富永は集合場所に指定されたカフェに向かっている。今日、仙台は心なしかぐったりと肩を落としたような天気だ。六月に入り、いよいよ梅雨の時期の入口に立たされた感覚である。
自宅から徒歩二十分、定禅寺通りを少し進んだところに目的地はあった。見覚えのあるシルエットが目に入り、富永は歩調を速める。
「お待たせしました。」
「おはよう。」
平野翠は特に富永と目を合わせることなく、スタスタと店の中へ入っていった。茶色を基調とした部屋のデザインで、窓際には良い香りのする花が並べられている。平野によると、このカフェはつい先週オープンしたばかりで、たしかに日曜日の早朝にしては客の入りが多いように感じられる。
富永たちはたまたま空いていた窓際の角の席に腰かけた。
「どうしても、ここのサンデースペシャルモーニングセットを食べてみたかったのよね。」
やたらと長いカタカナのメニューであったが、よく聞いてみれば大して難しいことは言っていないと気づく。トーストとコーヒーに五百円の価値があるのかと一瞬躊躇うが、付き合い上仕方ないと無理に自分を納得させ、富永は平野と同じものを注文した。
「なあ、日曜日に早起きする人ってどれくらいいると思う?」
ぼんやりと花を眺めている平野に問いかける。富永はまだ早起きを強いられたことを少し根に持っていた。大学生は人生の夏休みと表現されることが多いが、医学部の生活はむしろ逆だ。毎日一限の講義に出席するために早起きし、夜は莫大な量の課題を終わらせるのに精一杯。せめて日曜日くらいはゆっくりと休ませてほしいものである。
「分からないけど、半分にも満たないんじゃない?」
平野はくだらない質問に付き合う気はないといった表情で答えた。平野も富永と同じ感覚を持っていることに安心するが、それでは問題は解決しない。
「俺は早起きをすることは素晴らしいことだと思うよ。早起きは三文の徳とも言うしな。でも、それは逆に考えれば三文程度の徳でしかなくて、それならしっかり日曜日は睡眠をとって、後の一週間で三百文以上の徳を積もうって発想にはならないか?」
「何を言ってるんだか…」
富永の説明を聞き終え、平野は面倒くさそうにため息をつく。
「徳は継続的に積むものでしょ?そんなギャンブルみたいに一気に稼ぐようなものじゃないと思うよ。」
「まあ…でも継続的に物事を続けるために休息は必要だと思わないか?」
「富永くんってそんなに普段忙しいの?私も同じ医学部だけど、毎日しっかり休息は取れているわよ。」
返す言葉がなかった。
「きっと生活の中のどこかに無駄な時間があるんじゃない?」
平野は感じたことをはっきり言えるタイプである。出会ったばかりの頃は、彼女のこうした言動に戸惑うことも多かったが、今はもうすっかり慣れてきた。むしろ、彼女の発言は正しいことがほとんどなため、富永はありがたく話を聞くことにしている。
「それより見てよこの花。すごく綺麗よ。」
富永の愚痴を吹き飛ばすべく、平野は足元に佇んでいる花を指差した。若干深みのかかった黄色の花弁、その中心部では黒とも赤とも言えない斑点が強い主張をしている。
「トラみたいな花だな。」
「正解、富永くんって変なところで想像力が豊かよね。これはタイガーリリーよ。」
平野が感心する。実を言うと、富永は想像力でトラを思い浮かべたわけではなかった。デジャブと言うのだろうか。昔、どこかでこれと同じような花を見たことがあったのだ。
日の光に誘われ、地面に溜まった雨水が空に羽ばたいていく。ねっとりした土の感触を楽しみながら、彼女の待つ場所へ。
彼女…?
そこで、富永の回想は途切れるのだ。いつも、唐突に。
「いつだったか忘れたけど、昔見たことがあるかもしれない。」
何事もなかったかのように、富永は会話を続ける。
「へえ、それってすごくラッキーだね。タイガーリリーは一日で咲き終わってしまう。だから、開花の瞬間に立ち会えたことはすごく光栄だと思った方がいいわ。」
富永の微細な変化に平野は気づいていない。
それは十年前、富永が封印した記憶に直結するものであったのだ。
*
平野翠とは高校二年生の時に知り合った。富永と同じく、平野も星条大学附属高校の生徒であった。それまで富永は極度に人との関わりを避けていたが、偶然高校の研究活動で研究テーマが重複し、共同で活動をすることになった。たかが研究上のパートナーである。富永はそれ以上平野と関わるつもりはなかった。
しかし、共に活動をしていくなかで、富永は平野の人間性に惹かれていった。一言で言えば、平野は冷たい人であった。常に冷静沈着で、必要以上の関わりは避ける。人間味がないという表現が正しいのかもしれない。
やっと見つけた。ずっと探していた、真逆の存在。富永の心の穴を埋めることができる存在。
高校二年生の冬、富永は平野に告白をした。人間味のない平野であるから、良い回答は期待していなかったが、行動することに意味があると富永は信じていた。行動することで、拭い切れなかった過去の呪縛から解放されると。
意外なことに、平野は富永の告白を受け入れた。大学二年生の今まで、特に何の問題もなく関係は継続しているが、平野が富永にどのような印象を抱いているのかは分からない。否、富永が理解に積極的でないのである。平野が何を考えているのかはさほど問題ではなく、現状が良好であれば良いということだ。
六月十二日。今日は朝から気分が冴えなかった。冴えている日があるのかも怪しいが、昨晩から降り続ける雨が憂鬱さに拍車をかけていた。ただでさえ空気が籠る地下鉄仙台駅のホームは、雨のにおいで充満している。早くここから抜け出したいと、富永は唇を噛む。
「富永直樹」
ようやく電車に乗りこんだ時、背後から声をかけられた。振り返ると、身長のわりに体格の良い男が立っていた。いつも通りの敵意むき出しの目つきに、富永はさらに気分を害する。
「薮か。」
「今日が何の日か知っているか?」
薮朋宏は地を這うような低い声で問いかけた。
富永にとって、薮朋宏は平野とほとんど同じ立ち位置である。星条大学附属高校の同級生で、平野と共に研究活動をしていたパートナーだ。異なる点は、平野は高校から入学してきたのに対し、薮は小学校の頃から附属校に所属していた。すなわち、富永とは実に十年以上の関わりがあるということである。現在も星条大学の医学部で学んでいるので、もう一人の富永直樹と言っても違和感はない。
しかし、富永は薮のことを苦手としていた。何故か。富永は薮に敵視されているのである。薮と初めて話したのは中学生の時であったが、その頃から薮は面倒な存在だった。このような関係性は高校でも変わらず、やむを得ず共同で研究活動をすることになった時も、可能な限り薮とは話さないようにしていた。薮から逃れるために平野に近づいたと言っても過言ではない。
「何の話?」
「だから、今日は何の日か知っているか?」
六月十二日。ぱっと思い浮かぶものはなかった。「梅雨の日」という祝日の候補日とでも答えてやろうと考えたが、冷静に考えれば、わざわざ薮の質問に付き合う必要はない。今更ながら、先日平野にくだらない質問をしたことを申し訳ないと感じる。
「まさか、忘れたとは言わせないぞ。」
そこでようやく富永は思い出す。六月十二日は、毎年薮に同じ質問をされる日であった。去年も一昨年も、これくらいの時期に同じことを聞かれた気がする。しかし、富永は未だにその答えを知らなかった。
「富永、お前はこの一年、何を考えて生きてきたんだ。」
薮はこれほど同じ質問を繰り返しておきながら、いつも肝心の答えを言わずに去ってしまう。恐らく富永自身に思い出させたいという意図があるのだろうが、富永は薮と関わったことをいち早く忘れたいと考えているため、毎年同じことが繰り返されるのである。そろそろこの面倒な連鎖を断ち切りたいと思うが、やはり答えは分からない。
「なあ薮。これだけの時間をかけても分からないんだ。良い加減答えを教えてくれないか?」
「生ぬるい。」
薮はため息をついた。
「お前はその程度の人間だったのか。」
「どうして薮にそんなことを言われないといけないんだよ。」
「失望しているのは俺じゃない。」
薮はさらに鋭利な眼差しで富永を睨みつけた。鬼気迫る表情に一瞬身震いするが、それもほんの一瞬である。富永は感じた悪寒を紛らわすべくイヤホンを耳に入れた。
薮はそれ以上話しかけてこなかった。それでも終始電車の中は険悪な雰囲気であったため、目的地の駅に着くと富永は逃げるように階段を駆け上った。
*
大学生になったばかりの頃は、講義室のスケールの大きさに密かに胸を躍らせていた。まるで海を初めて見た子供のようだが、大学生なら一度は抱いたことのある感情だと思う。しかしその興奮も束の間、いざ講義が始まると異世界に放り込まれた感覚に陥った。同じ日本語を聞いているはずなのに、専門的な話になると急に言語の壁にぶち当たる。教授の話す別言語を頭の中で翻訳するのに精一杯で、とてもノートにまとめることなどできない。これも大学生なら共感できることだろう。
それでも真面目に勉強を続け、気がつけば一年が過ぎてしまった。何かに没頭すればするほど、時の流れは早く感じるものである。あっという間に大学生活も終わってしまうのだろう。
いつも通り、奴隷のように講義を受けながら、富永はぼんやりと思考を巡らせる。
大学卒業後の進路の選択肢は二つあった。一つは医者になること。これは富永にとって大本命の選択肢である。医者の父を持つ富永は、幼少期から洗脳じみた教育を受けてきた。星条大学附属小学校に入学したのも、その英才教育の一環である。事あるたびに「お前は将来医者になるんだ」と説教され、考える余地もなくストレートに医学部へ進学した。
もう一つは大学院に進むこと。医師は、現場で医療行為を行う臨床医と、研究機関で医学に関する研究を行う研究医の二つに分けられる。大学院に進学するということは研究医を目指すことを意味する。この選択肢が富永のなかに急浮上したのは二年前であった。
【尾崎雅彦教授 快挙!】
ニュースでも大々的に取り上げられた出来事が、富永に新たな道の可能性を示したのだ。
尾崎雅彦教授の歴史的快挙。それは世界で初めて、人体の脳の移植に成功したというものであった。これまで心臓や肺などの移植は行われてきたが、脳の移植は行われたことがなかった。何故なら脳は非常に繊細な器官であり、人体から取り出した後の保存が難しいからである。また、脳と体をつなぐ血管や神経は非常に複雑であり、仮に保存できたとしても実際に移植することは容易ではない。こうした要因から、脳の移植は不可能と考えられてきた。
その困難な状況を克服し、尾崎教授は脳の移植に成功したという論文を提出したのだ。
二年経った今でも、尾崎教授の論文は学会で激しく議論されている。もしこの論文の正確性が認められれば、それは医学界に計り知れない革命をもたらすと富永は考えていた。
これだけなら対岸の出来事として動向を見守ることに終始するだろう。富永の人生選択に影響を与えた所以、それは当の尾崎教授が星条大学に研究所を構えていたからである。医学会、ひいては世界を震撼させる挑戦的な研究。それに間近で携わることができるかもしれないという可能性と好奇心が、富永を逡巡させていた。
「ぼんやりしている場合じゃないわよ。」ふとかつての友人の言葉が思い浮かぶ。二十歳にもなって、ようやく彼女の言葉の重みが身に染みてきた。彼女は今、何をしているのだろう。星条大学のどこかにいるはずだが、何年も連絡をとっていないため消息は不明である。しかし、彼女は自らの言葉通り、将来に向けた行動を起こしているに違いない。
近いうちに一度、尾崎教授の研究室を訪問してみるのも良いかもしれない。しかし、実りのある訪問にするために、今は勉学に励まなければならない。結局、結論はそこに落ち着いた。
*
珍しく、薮の言葉がすぐには忘れられなかった。
今日、六月十二日。
富永にとって重要な意味を持つ日であることは疑っていなかった。昔から薮は余計なことを話さない質である。その薮がこれほど粘着質に詰め寄ってくるのだ。
薮との間に何かが起きた日か?否、それは違うと思う。たしかに薮とは長い付き合いだが、それはあくまで年数だけであり、実際に関わり始めたのは高校からである。中身の薄い関係性のなかに、薮を縛り付ける濃い因縁が生じるとは考えにくい。
では、薮自身には関係のないことか。この可能性の方が有力だ。「失望しているのは俺じゃない。」と最後に薮は言った。これは明らかに富永と薮ではない第三者の存在を示唆している。
富永と薮の共通の知り合い。思い当たる人物はただ一人、平野翠しかいなかった。しかし、平野と薮が何か特別な関係を持っていたかと考えると、やはり腑に落ちない。三人で仲良く話していても、富永が途中で席を外したら急に場が沈黙する、平野と薮はその程度の関係だと思う。
窓の外から眠気を誘う音楽が聞こえる。気づけば時計は午後五時を指していた。先程から薮の言葉を反芻していたせいで、課題がほとんど進んでいなかった。山積みになった参考書を見て、富永は長いため息をつく。やはり考えること自体が馬鹿らしいのだと、富永は思考をシャットダウンした。
荷物をまとめ、自習室を後にする。朝から気分を憂鬱にさせている雨はまだ止んでいなかった。水滴がボツボツと傘を打ち、歪なリズムを刻む。
雨は嫌いだ。昔から良い思い出がない。低気圧で頭痛に見舞われるし、湿気が髪の毛にまとまりつく。傘を右手に持って歩くのも面倒だ。この世界から雨が消えては困るが、自分とは関係のないところで降ってほしい。
富永は俯きながら最寄り駅へ急ぐ。帰ったらまずはシャワーを浴びよう。のしかかった鬱憤を晴らしてから、残りの課題に手をつけよう。帰宅後のプランを考えつつ、富永は大学の正門を出た。
I´m feeling my self again…
立ち止まる。
ふと聞こえた声は、無意識に頭の中で再生された。
懐かしい音楽、それが第一印象であった。明るい声、しかし、そこはかとなく感じる寂しげな雰囲気。モノトーンの風景がよみがえる。ここは…小学校の校舎?風景は次々と移ろい、やがて理科室に辿り着く。机に並べられたフラスコや試験管の数々。そして、暗い教室の隅に佇む、一人の女の子。
私のことは…すっかりと、全て忘れてね。
二つの約束。震える声。紛れもない、富永の記憶。
脳が振り向いてはいけないという指示を出す。その指示は一歩遅かった。富永は振り向き、声の主を探す。頭の中でおおよそ人物像は完成していたので、見つけることは容易であった。
黄緑色の水玉模様の傘。雨水の染み込んだ白衣。いつも涼しそうなショートな髪。止まっていた十年の時がにわかに動き出す。自分の頭の中で起きている現象を、富永は言語化できない。様々な感情が集約し、既に脳のキャパシティは限界であった。
富永の視線を感じたのだろう。彼女はゆっくりとこちらを見た。
「久しぶりだね、ナオくん。」
憂鬱な雨の日。
そこに安住萌は立っていた。
十年前の、彼女の予言通りに。
続く




