幽霊屋敷でドブさらい
貧民街を歩かねばならないなら早朝に限る。それが王都での常識である。
底辺冒険者や出稼ぎの獣人といったならず者が集まる貧民街では、質は悪いが度数の高い酒が出回っており、明日をも知れぬ身の彼らが求めるままに夜通し飲んでいる。そうして酔い潰れた住人たちが新しい朝を受け入れずに寝転がっている日の出前こそが、最もトラブルが少なくて済む時間帯だ。
男が足を踏み入れたのは、棺桶が並ぶ一隅であった。
棺桶のうち一つに刻まれた名を確認し、読み上げる。
「サム・アッカーソン」
間違いない――男はしゃがみ込み、棺桶に拳を、ドンドンと打ち付ける。何とも罰当たりな姿である。貧民街に住まう者は死して尚、敬われることはないと言うのか。その仕打ちを呪うかのような呻き声と共に、棺桶の蓋が持ち上がる。中に納まっていた者、サム・アッカーソンが、緩慢に体を起こした。
「サム・アッカーソンさんですか」
「誰だよ」
「……サム・アッカーソンさんですよね?」
「そうだよ。だからアンタは誰だって訊いてんだ」
なぜ、イエスかノーで答えるひと手間をすっとばすのか。今回は単純に「寝起きで普通に機嫌が悪い」からである。
サム・アッカーソンは死体ではない。冒険者である。
それもただの冒険者ではない。ひと山いくらの三流冒険者だ。
彼のような底辺冒険者は、普通の宿に泊まるような贅沢はしない。ただ寝る場所さえあればいいということで、棺桶に入り、死んだように眠る。そんな「棺桶宿屋」がここである。お代は格安。仕事をしない間、預けた装備を他の利用者との共用物として貸し出すのを了承すれば一泊の値段で連泊が可能だ。
さて、棺桶宿屋までサムを訪ねてきた男は、依頼人であると名乗った。
「是非、サムさんに受けていただきたい依頼がございまして」
「何で酒場に張り出さねえんだよ」
「それは……その」
明らかに口ごもる依頼人に、サムは渋面を作ってみせる。
「どーせドブさらいだろ」
「その通りです……しかし、これは冒険者の方にしかお願いできないことでして。やっていただきたいのは、『幽霊屋敷』のドブさらいなのです」
依頼人は不動産業を営んでおり、『幽霊屋敷』は彼が買い手を探している物件である。しかしそんな通称がつくからには漏れなく事故物件でありかつて屋敷に住んでいた貴族が痴情のもつれで云々……と依頼人は語ったが、眠かったサムは半分しか聞いてなかった。身長が百七十ない男は人権ないよねと言ったメイドがいたのと、屋敷の主人は百六十八だったことは覚えている。
「……というわけで、幽霊が出る、かもしれない、なんて場所を一般人がドブさらいするのはどうにも」
「もういいわかった」
棺桶から這い出たサムは、宿屋の主人から預けていた装備――スコップを受け取ると「請けるよ」と言った。これ以上話を聞くのが面倒だったから、とは言わずにおいた。
「ありがとうございます! いやあ噂で聞いた通りだ、さすが『ドブさらい屋』!」
サム・アッカーソン。二つ名はドブさらいを断らない男、『ドブさらい屋』。
そう呼ぶと「違う。最後伸ばして。『ドブサライヤー』」と訂正を入れる男。
*
件の『幽霊屋敷』は、かつて貴族が住んでいたというだけあって見た目も敷地面積も立派であったが、サムの用事があるのは屋敷の中ではなく、周囲の側溝だ。依頼人からも「ドブの臭いが入ると困るので屋敷内には立ち入らないでください!」と申しつけられている。
長靴、軍手、作業着、マスク、ヘルメットのいつものフル装備に身を包むと、早速スコップを突き立て作業に着手する。広大とはいえ、いつ終わるとも知れなかった被災地でのドブさらいに比べれば何ということはない。
さらったドブは農家が引き取りやすいように、大量のバケツを用意し、小分けに集めていく。バケツの運搬を考えるとアイテムボックス持ちが欲しいところだが、そんな便利な特技のある者は上位パーティに引っ張りだこだし、魔法空間にドブを入れるのを嫌がるだろう。魔物の死骸と大差ないと思うのだが。
「おっ」
と、思わず声が出た。『幽霊屋敷』にあるにはおかしいモノがドブに埋まっていたのだ。依頼人との約束もあったし躊躇したが、このまま持っていてもどうしようもないので、作業を中断して屋敷の扉を開けた。
「おーい」
声をかけるも返事はない。空き家なのだから当たり前だ。それでもサムは、さっき拾ったモノを掲げながら更に声を張った。
「これ、ドブに落ちてたぞ。なくしたら困ると思って持ってきた」
「いるんだろ。えーと、“グラーノ・モロー”さん」
ガタッ。天井で音が鳴る。見上げると、天井板の一部が取り外され、四角い穴から「ぬっ」と人間の頭が出てきた。白髪交じりの中年男性である。
サムはこのオチに予想がついていた。ドブとは、積もり積もった生活排水である。幽霊が生活をするか? 答えは否。が、事実としてドブが詰まっている以上、この屋敷には生きた人間が居着いている。
実は棺桶宿屋をチェックアウトする際に、店主から「あそこ、幽霊いないよ」とこっそり教えられていた。棺桶宿屋は一見セキュリティが皆無なようで、死霊使いたる店主が、常に「見えない警備員」を常駐させている。「人手不足だし、いるならとっくにスカウトしてる」ともぼやいていた。
依頼人も、おそらくは幽霊などいないと感づいているだろう。なのに『幽霊屋敷』ということにしておきたいのは「危険だから冒険者に依頼する」口実を作っておきたいからに他ならないはずだ。誰だってドブさらいはやりたくない。
幽霊がいる。そういうことにしているから、この男がこっそりと住み着いていることに、誰も気づかなかった。あるいは、気づかないふりをしていた。
「兄ちゃん、冒険者かい」
天井裏から降りてきたオッサン――グラーノは、意外にも気さくに話しかけてきた。
「まあな」
「どうしてここに来た?」
「ドブさらいで」
「ドブさらいィ? 何でえ、いい若いモンがそんなしょぼくれた仕事して。ドラゴンを討伐するくらいの気概がないとやってけないぞ」
小言をぼやきながらも、グラーノは礼を言ってサムから落とし物を受け取った。
「うっかり落としちまってな。ちょうど探ししてたんだ」
ウソだな、とサムは思った。ちょっと探しているぐらいで、ドブは詰まらない。だがとりあえず話を合わせておくことにして「この屋敷には依頼で来たのか?」と訊いた。そう、グラーノ・モローは冒険者だ。サムがドブから拾ったのは、彼の冒険者証であった。
「ああ、幽霊が出るってんでな。安心しろ、もう俺が退治したからよ。ガハハ!」
「……」
繰り返すが、ここに幽霊はいない。何を堂々と出鱈目を言っているのか。めんどくさい気配を察し、サムはさっさとドブさらいに戻ることにした。
「待ちな兄ちゃん。ドブさらいなんかより、俺の冒険譚を聞いた方が為になるぜ」
「金にはならねーだろ。俺は仕事に戻る」
「時は金なりってか。わかってるな、ガハハ! よし気に入った、特別に俺の話を」
「聞かねーよ!」
こんな調子で事あるごとに邪魔が入り、作業行程は大いに遅れた。オッサンの説教くさい話は大半を聞き流したのでどうして屋敷にいるのかはわからなかったが、どうせ長居はしないだろうし別にいい。完了報告の際、依頼人に「時間かかりすぎでは?」と嗜められたので、サムは「幽霊のせいだ」と言い訳した。
*
「すみません、またドブが詰まりました」
「冗談だろ」
冗談ではなかった。同じ依頼人、同じ屋敷。そして。
「オッサン、あんたまだいたのかよ」
天井を突いたら落ちてきたグラーノ・モロー。いかに宿に困りがちな冒険者と言えども、空き家に勝手に住み着くのはさすがにプライドが許さないので遠慮する者が多い。あれほど自分語りをしたがるこのオッサンにプライドがないとは思えないからこそ、とっくに去っているだろうとサムは踏んでいたのだが。
「ちょっと幽霊との決戦が長丁場になっててな」
「退治したって言ってたじゃねーか」
「第二形態があったんだよ。知ってるか、上級の魔物にはよくあるんだ。これで終わりだァ! なんてトドメに全力を込めたりすると――」
話を誤魔化しつつ、流れるように知識マウントへと移行する。大した手腕であった。
「兄ちゃんもあれか? 田舎育ちで、まぐれでゴブリンを追い払っちまったもんだから、冒険者になろうって思ったクチか?」
「……まあ田舎はそうだけど」
「よくねえなあそういうの。単独で行動してて、素人でも追い払えるようなゴブリンは、巣をやられて敗走中のヤツだ。生き残りってのは、逃がしたら強くなって戻ってくる。金をケチって素人が何とかしようと思わずに、きちんとトドメをさせる冒険者を雇わないといけねえんだ」
よく聞く話だ、と思ったが、それはサムが冒険者の末席としてそれなりの業界知識が入ってくるようになってからのことだ。故郷の村の中では「ゴブリンは素人でも勝てるザコ」というのが共通認識だった。とはいえ、サムが冒険者になろうと思った理由にゴブリンは関わっていないが。
「今まで聞いた中で、一番実感こもってんな」
つい口から出てしまい、やべえ調子に乗るかもと警戒するサム。しかしグラーノは、フンと鼻を鳴らして不満そうに黙ってしまうのであった。せっかく褒めたのに。
そんなことが繰り返され、さすがのサムもまいってきた。オッサンが説教好きなのはよくある話だが、若者が説教されるのを嫌うのもよくある話である。この需要と供給は永遠に合致しない。聞き流していればいいのかもしれないが、そもそも説教するためだけにドブを詰まらせられてはたまらない。意を決し、根本的な問題であるグラーノを何とかしようと重い腰を上げた。深入りしたところで、ロクなことにはならないだろうとわかっていながら。
*
「そのオッサン、死んでるよ」
冒険者仲間であるヴァシリーの言葉に、サムは絶句した。
「えっ……じゃあオッサン、マジで幽霊だったのか」
「いやそうじゃなくて。ギルドでは依頼中に死んだことになってる」
「じゃあやっぱり幽霊なのか」
「何がじゃあやっぱりだよ、生きて動いてるの見てるんだろ。つまり死んでませんってギルドに報告するのを怠ってるってこと!」
サムから『幽霊屋敷』に住まうオッサンの話を聞いたヴァシリーは、何か興味を引くものがあったらしく、冒険者ギルドでいろいろ調べてきたようだった。酒場でその調査報告を聞いて、サムは訝しんだ。
「何で、死んでないって言わねえんだ」
「バレたら困るからだよ。ギルドが保険金事業もやってることは知ってるだろ。依頼中に死んだら、死亡保険金が支払われるんだよ。始めからそのつもりだったのか、成り行きでそうなったのかはわからないけど、オッサンは保険金をだまし取ってるんだ」
「……ギルドに言った方がいいと思うか?」
「べつに。ギルドにそんな義理ないし。金貰えるわけでもないし」
もっともな話ではある。金、という観点からすれば、サムはむしろ定期的に見込める収入源を失おうとしているのだ。だが、マッチポンプのような真似を続けるのも気が引ける。悩んだ挙句、サムは、せめて保険金支払いの事実だけ確かめようとギルドを訪ねることにした。
「その保険金、支払ってませんよ」
ギルド受付嬢の言葉に、サムはまたしても絶句した。
「えっ……保険はインチキってこと?」
「違います違います! ご家族が、受け取りを拒否してるんですよ」
思ってもいない展開だった。ヴァシリーが描いたシナリオ通りなら、家族はグラーノと結託し何食わぬ顔で保険金を受領するか、もしくは何も知らずに悲しみに暮れながら保険金を受領しているはずだった。
「何で拒否してんだよ」
「そんなこと言えません。聞きたければ直接どうぞ」
「……あんた、まともだな」
「冒険者はロクデナシばっかですけど、受付嬢は正職員ですから」
「支払ってないことは言ってもよかったのか」
「……ヤバいクレーマーの冒険者が大きな声を出したので、受付嬢は誠意の情報漏洩を差し上げた。いいですね?」
「マジかよ俺サイテーだな……」
こうして、次のクエストへとたらい回しにされたのだが、サムは「それなら話は簡単だ」と思っていた。保険金を受け取らない、すなわち、死亡を認めていない。つまり、家族はグラーノの帰りを待っているのだと。グラーノが生きていることを伝えればハッピーエンドだと。
このとき、サムが忘れていた心得をここに記しておく。
――ドブに片足を突っ込むときは、勇み足ではいけない。
そこに危険物があると思って、尻込みしながらやるくらいでちょうどいい。
サム・アッカーソン
何度目かの『幽霊屋敷』のドブさらいに訪れたとき、サムはグラーノにこう言った。
「飲みに行こう。奢るから。こんな話、素面じゃできねえ」
*
「あんた、死んだふりしてんだろ。調べたよ、いろいろ」
「……何でィ、余計な気を回しやがって」
憮然として酒を呷るグラーノ。
「もうすぐ子ども生まれるって話じゃねーか。何でこんなことしてんだよ」
「ああ、ガキが生まれる。だからまとまった金が必要だ。だが俺は冒険者しかやってこなかったもんで、他に稼ぎ方を知らねえ。大口の依頼をこなして一獲千金を狙ったが、実力不足で返り討ちに遭った」
サムにとっても身につまされる話だった。名誉のために躍起になって竜退治の依頼を受けようとしていた頃を思い出させる。
「それで? 死んだのか」
生きてるっつーの目の前でよ。グラーノはツッコんだ。
「俺も死んだと思ったが、どっこい生きてた。装備はバラバラに砕けてたけどな。これはワンチャンあるんじゃねえかと魔物の巣に戻ったが」
「戻るなよ。ノーチャンだよ」
「黙って聞けっての。魔物は、他の冒険者に討伐された後のようだった。巣穴には俺の装備の破片も散らばっていたから、その冒険者が『グラーノ・モローは死んだ』と報告したんだろう」
「親切な奴がいたもんだなぁ」
「で、だ。ふと、依頼中に死ぬと保険金が下りるのを思い出した。縁起でもねえと思ってたもんだが、やっぱり保険ってのは入っておくもんだな。当初の予定からは違っちまったが、まとまった金が入るのに違いはねえ。女房と子どもに金を残すために、俺ァ死んだままでいることにしたのさ」
そこで串焼きにかぶりついたということは、グラーノの話はここで終わりなのだろう。満足しているところに申し訳ないが、サムはその後の話をしなければならなかった。
「あんたの奥さんに会ってきたよ」
「……言ったのか?」
「言ってねーよ、生きてるなんて」
グラーノが言っているはずもないと思ったので、勝手に伝えるのは憚られた。最初から言うつもりはなかったが、結果的には、言い出せる雰囲気ではなくなってしまったというのが本当のところだ。
「保険金、受け取ってないってよ」
「はあ!? どういうことだ、保険はインチキなのか!?」
自分と同じこと言ってるなと気づき、少しげんなりするサムである。
「ギルドは支払おうとしたけど、奥さんが断った」
「……ちょっと待て、意味がわからねえ。何で断る。金は、要るだろ」
金は要る。何と含蓄のある言葉か。その金を跳ね除けてでも、彼女には通したい意地があった。
繰り返しになるが、それは「生きているのを信じて待っているから」というような感動的な理由ではない。グラーノの顔に泥を塗りつける気分で、サムは聞いてきたとおりの言葉を吐き出した。
「金だけ残して消えた奴に、たとえあの世であっても父親面してほしくないってさ」
そこから、ちびちび酒を飲むだけの時間が始まってしまった。
サムは後悔していた。別に、グラーノが抱える問題を解決しようとして動いたわけではない。『幽霊屋敷』から出て行ってほしかっただけだ。そのために、帰るべき場所の筆頭である家族のもとをあてにしたら、とんでもないドブに頭から突っ込んでしまった。ひょっとしたら知るはずのなかったオッサンまで巻き込んで。いや、オッサンは当の本人なんだが。
「考え直してみないか」
意を決して、サムはドブにスコップを突き立てた。
「冒険者として金を残そうってこだわってるからドツボにはまってんだよ。だから、こう」
「冒険者辞めろってか。女房みてえなこと言いやがる」
やっぱり言われていたのか。言うだろうな、当然のことだ。
「辞めろっていうかさ、例えば、趣味でやったらどうなんだよ」
「あァ?」
「普段は普通に働いて、休みの日だけ冒険者やるとかさ」
「バカ言うな、んなみっともねえことできるか」
「そうでもねーよ。俺やオッサンのランクなら、請けられる依頼的にもそうしても問題ないって。それに好きでやってるなら仕事でなくなっても続けられるだろ」
舌が回ると酒も進む。サムの熱量に呑まれて、グラーノもペースを上げていく。
「それ一本で食ってるからこそ箔が付くんだろうが」
「んなことできるのは一流だけだ。一流じゃなきゃダメか? 二流三流が胸張って生きて何が悪い。一流のヤツらがドブさらいできんのか?」
「ドブさらいは冒険者の仕事じゃねえだろうが!」
「あァ!? なんだテメェ」
酒が入るとすぐケンカ腰になってよくない。これまでの人生で身に覚えがありすぎる二人は、肉を頬張って小休止を入れた。結局は酒で流し込むのだが。
「つーか、冒険者って箔が付くような仕事かよ。なるの簡単じゃん、ならず者なんだから」
サムの全体攻撃的な愚痴に、グラーノはガハハと笑う。
「違ぇねえ。だがよ、本当に難しいのは続けることさ。ならず者風情がっていう世間様の目に耐えなきゃならねえ。そうやって耐えているうちに、それを乗り越えてでも、やりたいことが……」
グラーノが言葉に詰まる。サムはようやく「掘り当てた」気がした。
「そうだよな。続けるのには理由が要るもんな」
なる理由はテキトーでもいい。だが、後ろ指さされながら続けていくのには、ほどほどのメンタルが必要であり、その土壌となるのが「それなりの理由」だ。稼げりゃ文句ないんだろという価値観と同様に、初めはなくても過程で生まれることだってある。
「あんた、何がしたくてならず者を続けてきたんだ。それを思い出せよ」
サムは賭けた。妻が保険金を受け取ってないと聞いたときの、僅かに光を見出したようなグラーノの顔に。このオッサンの行き着く先はきっとそこにあるはずだ。
「……飲みすぎちまったな。今日はありがとよ」
酔いが醒めた。そう言い捨てるように席を立つグラーノ。その腕を、サムが掴む。
「あんた金あるか?」
「は? ねえよ」
「俺もない」
「ばっ、バカ言ってんじゃねえよ。お前の奢りだって言ってただろうが!」
無断で空き家に住み着いても、無銭飲食は駄目だという良識はあるらしい。言った言わないの不毛な押し問答をする二人に、酒場の看板娘が朗らかに言った。
「だいじょうぶッス。うち、ツケOKッスよ」
マジでか。安心するグラーノ。そこに酒場の店主も声をかける。
「ただし支払いは肉体労働だ」
ガコン、と店が揺れる。馬車のような店舗だったから何かの拍子で揺れることもあるだろうが……不審に思ったグラーノが店の外を覗くと、看板娘のケンタウルスが「よいしょっ」と『移動酒場』の牽引を始めたところだった。
「えっ、ちょっ、おい、何だ何だ!?」
飛び出そうとするグラーノを、がっちりホールドするサム。その表情には、やっぱりこうなったかという諦観の念があった。
翌日。知らない町で解放されたグラーノとサムは、ドブさらいを言い渡された。
この世界には、誰も請けない依頼を引き取り、断れない状況で冒険者に押し付ける『移動酒場』が存在する。
*
「ガキの頃、村にひょっこり現れたゴブリンを追い払ったことがあってな」
重労働をしていると、思ったことが口をついて出やすくなる。グラーノの口から零れる自分語りを、サムはスコップを動かしながら聞いていた。
「そんときゃ、俺って冒険者の素質があるんじゃねえか、冒険者になったら楽にやってけるんじゃねえかと調子に乗ったよ。んでその後、本職の冒険者がゴブリンを追い払った者がこの村にいるはずだって訪ねてきた。スカウトされるもんだとばかり思ってたよ」
口ぶりからすると、現実は違ったわけだ。
「めちゃくちゃどやされた。単独行動してるゴブリンは危険だから手を出すなとか、追い払ったら強くなって戻ってくるから素人は手を出すなとか。その冒険者、俺が逃がしたゴブリンにトドメをさしてくれてたんだよな。村を滅ぼすところだったんだって散々絞られた」
普通、そんな目にあったら冒険者なんてもうこりごりとはならないだろうか。
「逆に冒険者になろうって思ったよ。なる前に、そういう心得を手に入れたのはアドバンテージだと思って」
そこで「自分には向いてない」とならずに、成功体験としてしまえるのか。たくましい。
グラーノ・モローは浪漫を追い求めたり、自己陶酔したりする人間ではなかった。むしろ、そういったがむしゃらさがあれば、もっと上位の冒険者になっていたかもしれない。彼を立ち止まらせていたのは、どんなことからも教訓を読み取ろうとする、客観視の能力だ。
では、グラーノの理由とは、やりたかったこととは、何か。
「結局のところ、あの冒険者みたくなりたかったっていうのが本音だな」
金を稼ごうと躍起になり、ドブに捨ててしまっていた才覚を拾い上げ、自分自身を見つめ直す。
「だが俺が目指してたのは、立派な冒険者じゃねえ。いや目指してはいたが、それになることはゴールじゃない。その先があった。場数踏んで、経験値積んで、男を上げて、立派な冒険者になった後に……俺がしたかったのは、」
説教だ。
「……だったら尚更、父親は天職じゃねーか。早く家に戻りなよ。おしめも替えたことのないオヤジの説教なんてガキは聞いちゃくれねーぞ」
そう言いつけて、サムはグラーノをパーティから追放した。もう家に帰りたい。そんなモチベーションの低い奴がいても仕事の邪魔になるだけだ。酒場のツケはグラーノの分までサムが被ることになった。
「人がいいッスねえ」
報告を受けた馬娘がしみじみと、呆れたように言う。
「もっと言い様があるだろ。優しいとかさ」
「優しいのは結構だが、情に流されて借金被っちまうようなのを優れた人間とは言わんよ」
店主にぴしゃりと言われ、ぐうの音も出なかった。
「どっちかって言うと“易しい”ッスね」
馬娘には茶々まで入れられた。
だが、みんな笑っている。悪いようにはならなかったはずだ。だから俺はまだやっていける、大丈夫だ。確かめるように、サムは酒を喉に流した。
「あっ、何度も言うけどお酒はまかないに入らないッス。お金」
しまった。
グラーノは時々、夜泣きをあやしてオールナイトのテンションのまま、早朝にサムを訪ねて棺桶宿屋に来る。「ふざけんなこっちはまだ寝てるんだよ」と不満を垂れるサムを棺桶から叩き起こし、規則正しいカタギの仕事と不測の事態の連発である育児のダブルパンチで正直しんどいと愚痴をこぼす。おしめを替えるたびにしょんべんをひっかけられているそうだ。これは予測可能回避不可能な問題らしい。
そして最後はこう締める。「それでもドブさらいよりはきつくない」
「よし。明日もどうにかこうにかやっていこう、ってもう今日か、ガハハ」
朝焼けの光の中、響く笑い声に「うるせーよ」と吐き捨てるサム。欠伸が止まらない。
「あ、それはそうと今度の週末に町内会でドブさらいやるんだが指南役として来てくんねえか。依頼出すからさ。まあ報酬はあんまり出せねえけど。もうすぐ給料入るから一杯奢るってことでどうだ。貧民街の安酒とは違う、酒瓶の一本でも買ってやるよ」
「めんどくせーからその金で奥さんになんか買ってやれよ」
――酒は幽霊にでも飲ませたことにしてさ。
サムは棺桶の蓋を閉じた。