切り裂きジャックの影
神よ、なぜあなたは
養っておられた羊の群れに
怒りの煙をはき
永遠に突き放してしまわれたのですか。
(詩編七一章一節)
その夜は、数時間に及ぶ大雨がようやく止み、月明りだけで路地を歩けるくらいに明るかった。
十九世紀末、霧の都ロンドン。霧と呼ばれたものはその実、スモッグだった。著しい発展により都市部は排気ガスに汚染されているものの、今晩のように月明りの下で物の分別がつくような珍しい日もあった。
時刻は十一時過ぎ。
わたしは、ずぶ濡れで夜道を一人、歩いていた。
カツカツと石畳を歩くたびに靴底が鳴る。
向かいの道端には客引きの女たちがこちらに手招きしているのが見えた。
わたしはそれを一目してその突き当たりを左に行こうと道を渡ったところ、前をよく見ていなかったため、通りすがりの人とぶつかってしまった。
「おっと、失礼」
大の大人がよろめくくらいに激しくぶつかったが、相手は無言で過ぎ去ってゆく。フードで顔は見えなかったが、がたいがよかったので男だろう、その後ろ姿は薄気味悪さをはらんでいた。
そうして、わたしはまた小走りに自宅へと向かう。
だが、その角を曲がったところ、無灯火で走る車が脇から速度を落とさずに出てくるのを目にしたきり、わたしの記憶はなくなった。
目が覚めたのは、女性の声がしたからだった。
「あの三日前に運ばれてきた人、誰も見舞いに来ないわね」
「身寄りがないのよ。個人が分かるものも持っていなかったようだし」
話し声のしたほうを見ると、看護師がふたり立っていた。
「こ、ここは……」
「あら、気がついたのね」
人の良さそうな看護師が声をかけてくる。
「あなた、車にひかれたのよ。覚えてる?」
わたしは眉を寄せ、少しの沈黙の後に言った。
「ほとんど覚えていなくて……申し訳ないのですが」
「構いませんよ。骨折もなにもなくて運がいい人。だけど、念には念を。今は横になっていてくださいね」
看護師はカーテンを開ける。
「今日もいい天気」
わたしは事故に遭う前の出来事がどうも気になり、思い出そうと試みる。
「あぁ、確か……」
表通りの車の整備工場の角を右に曲がり、そこから細い路地を一本進んだあと、公園を横目につきあたりを右に曲がったときに、脇見していて男とぶつかった。よろけて、左に曲がろうとしたときに……事故に遭ったのか。
「大雨だったのに傘もささずに、いったいどこに出かけていたの?」
そう言ってきた看護師の言葉に違和感を覚える。
「どこだったっけ……思い出せない」
「きっとまだ混乱しているのね。まだ横になっていた方がいいわ」
わたしは部屋の至る所を無意識に目にする。
シーツ、自分の足、机、机の上の……。
「これはあなたが運ばれてきたときに持っていたものよ」
机の上には、中身のない財布と革手袋と小型ナイフが置かれていた。
看護師の言葉も聞かずにわたしは彼女に頼んだ。
「すみませんが、今朝とここ二、三日の新聞を見せてもらえますか?」
看護師が仕方なく持ってきたその一面を読んでみる。そこにはこうあった。
“またも切り裂きジャックの犯行か! 十一月十日、ホワイトチャペル地区の墓地で娼婦が刺殺体で発見される。被害者の衣服が濡れていることから、各地が大雨に見舞われた九日の夜に襲われた可能性が高いとみられる。また、先日の被害者同様、遺体は八つ裂きにされており、警察はいまだに犯人特定ならず。目撃者等情報求む”。
大雨の晩か。被害者は叫んだだろう。だけど、きっと誰も気にも留めないくらいか細い叫びになった……なってしまった。悲しいことに。
看護師は聞いた。
「あなた、まさか自分の事故の情報を探しているの?」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、なんとなく今話題のニュースを知りたくなってしまって」
「今話題といえば、やっぱりその一面にある“切り裂きジャック”よ!」
切り裂きジャックとは、今ちまたを騒がせている猟奇的殺人事件の名称だ。夜に一人でいる女性をターゲットにし、発見されたこれまでの被害者は三人。三人とも鋭い刃物で八つ裂きにされていることから、その名がつけられた。
「これが今朝の新聞……次は十一月十二日、連続婦女暴行殺人事件に新たな見解。他の被害者同様、婦女暴行の形跡、また何か所にも及ぶ切り傷あり。その際、右から左に傷がついていることから、犯人は左利きの可能性が高いとみられている。犯行は、実に卑劣な手口であり、犯人は人格に欠陥があるとみられる……」
「その事件、早く犯人捕まらないかしら」
看護師が困った顔をしてのぞき込んできた。
「それは、どうだろう」
「え?」
「いずれもか弱い女性ばかり狙っている。このことから、犯人は男性である可能性が高い。また、二人目の犯行の際は、雨の日だった。わざと雨の日を選んだのかもしれない。雨は被害者の叫び声をかき消すだろうし、人の通りも少なくなる。雨とともに証拠を流すこともできるだろう。実に利口な犯人だ。警察が手こずるのもわかる気がする」
徐々に連続殺人鬼の人物像が浮かび上がってきたところで「あなた、探偵さんかなにかなの?」と看護師が尋ねてくる。
しかし、覚えていることは一つもない。
「少々、興味があるだけですよ。それにしても、近くでこんな事件なんて怖いですね」
「ええ、そうね。一人じゃ怖くて夜道を歩けないわ。あなたもそうでしょ?」
看護師は机の上のナイフに目をやる。
「護身用にこんなナイフを持ち歩いているなんて」
わたしもそれを見る。
「そう……だったかも、しれませんね。なぜそんなものを持ち歩いていたのかさえ、思い出せませんから」
はははと笑う。
わたしに点滴をすると看護師は部屋を出ていった。
ふと、先ほど広げて読んだ新聞に目がいく。
遺体は衣服が濡れていた。そういえば、事故に遭う前にぶつかった奴も服が濡れていた気がする。
そいつとわたしはぶつかった。正面から肩越しにだ。大の大人が激しくぶつかってよろけたのだから、きっと相手も走っていた。
奴は急いでいたのか? 深夜近くになにか用事が? 奴も雨の中を長時間いたのか? だとすると、いったいなぜ? もしかすると、逃げていた? いったい、誰から? いいや、どこから? 切り裂き魔ならば……犯行現場から? いいや、そんな、まさか。
自問自答するばかりだが、考えだけは突っ走った。
そういえば、なぜ、殺人事件の犯人は革手袋をしていると思ったんだっけ? 途中でぶつかった奴も革手袋をしていた気がする。とても明るい月明りの下だったからそう見えたっけ……。やはり、あいつが犯人だったのか?
そういえば、なぜ、右の内ポケットに刃物を忍ばせているのではないかと疑ったんだろう? ぶつかったときによろめいた奴の手は、右のポケットをかばったように見えた気がする。犯行で使用した、被害者の血のべっとりとついた刃物を落とさないようにしたからじゃないのか?
なぜ……あぁ、なぜ、わたしは、連続殺人鬼と同じ思考をしていると言わんばかりに、いつから“そんな気がする”ようになったんだ!
わたしは自分の推理を恐ろしく思い、こんがらがった頭を抱えて、前のめりにうずくまる。
護身用にこんなナイフを持ち歩いてるなんて……看護師の言葉がよみがえる。
ナイフの柄ををそっと手でなぞる。
“あの夜、わたしは、どこでなにをしていた?”
わたしは、ふと窓の外を見た。木の濃い葉のそれぞれにうっすらと自分が映る。わたしは、疑わずにはいられないわたし自身をじっと見つめた。これでは、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを……と哲学者がいつか語った通りではないか。
考え始めると、すぐに出してはならない答えにいきついた。
ああ、そういえば! わたしの家からまっすぐ行って右に曲がり、公園を横目に左へ、そして細い路地の一本道を整備工場を目指して左に曲がった先の、人気のない墓地で! そう、まさにそこで! 今回の被害者は発見されたんだった!
あぁ、なんてことだ! 男じゃない、犯人はぶつかったあいつじゃない!
車にひかれたあの夜、誰だか分らない奴とぶつかったあの夜、小走りに自宅へ向かっていたあの夜。あの夜が、わたしの人生を狂わせた。いいや、狂っていたことも判らないまま生きていたわたしに、自分自身が今、狂っていることを解らせたといってもいい。
わたしは……否……窓に映る自分をもう一度、見た。
そこには、口元は緩んでいるけれど、おぞましい憎悪を抱えた瞳が、どうしようもなく、二つ、映っていた。
そう、大雨の夜。冷たい雨の中だった。
凍えそうな雨の中、彼女の臓物だけはあたたかかった。
臓物のあたたかさを、おれは知っているんだ。おれは。
病院の一室で、その瞬間、目が覚めたのは、女性の声がしたからだった。
それは看護師の話し声だったか。いいや、それは、脳裏に刻まれた、なんとも恐ろしげに喚く被害者たちの悲鳴に他ならない。
次に看護師が点滴の様子を見に来たとき、カーテンは風で揺れて、そこはもぬけの殻だった。
おわり
参考:詩編七四章一節「神よ、なぜあなたは 養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき 永遠に突き放してしまわれたのですか」解説:詩編の作者は神の裁きと懲らしめがいつまでも続かないように祈っている。神は忍耐強いけれども、罪を永遠に容認されないことをこの祈りは警告している。やがて災難、悲しみ、裁きが来る。(『FIREBIBLE 注解付聖書』より)