雨の花見
王国歴223年3月末
妓楼花園楼の禿である菫は、少し前から降り出した雨の中を和傘を差して、若い衆の柏、朋輩の菖蒲と一緒に歩いていた。
行先は、桜の樹が多く植えられている広場である。
昨日までの好天で花は満開に近いところまで咲き揃ったとの話だが、生憎のこの雨ではかなり散っているかもしれない。
去年の11月のこと、菫はこの国の王子であるユークリウス殿下と再会し彼に想いを告げられた。
菫も彼に魅かれたが、遣り手婆の薄は二人に文のやり取りだけしか許さなかった。
それぞれが修行に精を出し、互いの想いも確かなものと認めるまでは、会う事は許さないというのである。
それからのこの数か月の間、菫は毎日の修行に根を詰めて励んでいる。
舞踊、音曲、学業、家事、全てに一心不乱に取り組んで、傍目から見ても気持ちが入り過ぎているのがわかる。
今日の茶挽きに、菫と菖蒲の姐である妓女の椿は、お付きの禿である二人を外に連れ出すようにと、菫の父親代わりの柏に頼んだ。
このままでは菫の身も心も保たないと、息抜きをさせようとの配慮である。
菖蒲は、まあ、もののついでというか、菫の相手をさせるためだ。
広場に着いたが、雨のせいで人出は少ない。
何か催し事でもあるのか、一角に人集りができているが、それ以外は誰もいないと言っていいほどだ。
柏が灰色の空を見上げてぼやく。
「止まねえなあ。それどころか、強くなってきやがった。明日にゃあもう結構散っちまうだろう。花に時雨たあ、神様も情のないことをなさる」
「あい。でも明日に散ってしまうなら、今日の花は今日ここにいる私たちだけのものでしょう?」
「そりゃあそうかも知れねえが」
「私たちへの神様の御恵みと思いたいわ」
「……菫、お前最近、随分と前向きだなあ」
「前向きでないと、進めないもの」
それを聞いて菖蒲がいきなり逆を向いた。
「私は後ろ向きでも歩ける。ほら。自由自在」
「菖蒲、そういう意味じゃねえ」
「小走りもできる。ほっほっ」
「転んでべべを汚したら、薄婆にどやされるぞ」
「……やっぱり人は一歩一歩確かめながら生きるべきだと思う」
「勝手にやってやがれ。お、あそこが随分騒がしいな。菫、行ってみるか」
「ううん、私はここで静かに花を見てる方がいいわ」
「そう言わずに、行ってみようぜ」
「私は行ってくる」
そう言って菖蒲が駆け出した。もちろん前を向いている。
「いや、だめだ、菖蒲、お前じゃねえ……ああ、行っちまいやがった」
「柏、何かあるの?」
「いや、わからねえ」
「何かあるんでしょう」
「知らねえ」
「嘘。誤魔化そうとしてる」
「違うって」
「柏、何か都合が悪いことがあると、そうやって右の頬を掻く癖があるもの」
「……本当か?」
「……」
二人が揉めていると、菖蒲が息せき切って戻って来た。
急いで走ったため、泥が裾に跳ね上がっている。
薄婆にどやされるのは確定した様だ。
「大変、大変」
「菖蒲、どうしたの?」
「視察に、視察に見えられるって。王族の方が。誰って尋ねたら」
「まさか」「……」
「そのまさか。マ? マリネ? マロニエ? マ……ユー様ママ殿下の御一家だって。ユー様、ユー様も来るみたい。菫、行こう、見に行こう」
「菖蒲、マレーネ殿下。……柏、知ってたのね」
「……ああ」
「私、先に行ってる!」
菖蒲はまた駆け出した。もう足元は泥々だ。薄婆にどやされるだけでは済みそうにない。
「菫、行くぞ」
「柏、ありがとう。……でも私、行かない。婆様との約束があるから」
「遠目に見るだけなら、構やしないだろうよ」
「約束は約束だから」
「会うんじゃなくて、見るだけだ。堅苦しく考えんな。婆だって、こんくらいは許してくれるって。何だかんだでお前を可愛がってんだから」
「ううん。自分に嘘をつくみたいで嫌なの。約束をきちんと守って頑張った、本当に一所懸命励んだ。いつか会えた時に、殿下と自分自身に、胸を張ってそう言いたいの。殿下も、きっと同じ思いで頑張って下さっていると信じてる。だから」
「……そうかい。かえって、悪いことをしちまったな」
「ううん。殿下の近くにいられた、それだけで嬉しいから。私、これからも頑張れる。柏、ありがとうね」
そう言うと、菫は傘の陰から柏の顔を見上げて笑って見せた。
銀色の髪は風に揺れ、紫青の瞳は明るく輝く。
周りで咲く桜より、よっぽど晴れやかで華やかだ。
それを恥じたか、雨に混じって沢山の花びらが菫の周りで舞って落ちる。
この笑顔を向けられちゃあ、例え石部金吉でもイチコロだ。
ユークリウス殿下は、この娘がまだ三つの時に既に見抜いていたんだろう。
やっぱり大した若僧だぜ、と柏は心の中で呟いた。
「どうしたの?」
「いや、何でもねえ」
二人が笑って見合っているところに、菖蒲が背の高い男を連れて戻って来た。
ユークリウス殿下の従者のクルティスだ。
「菫様、柏さん、こんにちは」
「クルティス様、どうして」
「はい、周りの人垣の中に菖蒲ちゃんを見つけまして」
「ちょろっと手を振ったら見つかった。クー様、目敏い」
「え? 菖蒲ちゃん、ぴょんぴょん跳びながら両手をぶんぶん振ってアピールしてたじゃないか。あれ、誰だって気付くぞ。マレーネ殿下なんか、『あの妙な子、面白いわね』とかおっしゃってたぞ」
「褒められちった。えへへ」
「いや、多分褒めてない。それで、ユーキ殿下が俺にこそっと、『きっと菫さんもいるから伝えてくれ』っておっしゃいました」
「殿下が?」
「はい。『会えなくても、同じ空の下にいることが感じられて嬉しい。いつか必ず、青空に映えた満開の花の下を一緒に歩きましょう』と。もっと色々とおっしゃりたそうでしたが、御両親がこちらを怪しまれていたので、それだけになりました」
「きっと、『桜になど目移りしない、菫だけを見つめてる』とか、言おうとしたはず。んー、ユー様、甘酸っぱい」
「菖蒲、お前は黙ってろ」
「あい。えへへ」
菫は頬を染めながらユーキ殿下からの伝言に耳を傾けていたが、少し考えてから言った。
「クルティス様、殿下に、お伝えいただけますか?」
「ええ、何なりと。何とお伝えしましょうか?」
「『雨の中のお務め、ご苦労様にございます。お風邪など召されませぬよう、何卒ご自愛ください』と」
「はい。それから?」
「あの、それから……。『同じ場所で花を見られて、嬉しうございました。お目文字出来なくても、大切な思い出ができました』と」
「はい、そこは『二人の大切な思い出が』とお伝えいたします」
「クルティス様、おからかいを。……でも、そのようにお願いいたします」
菫はクルティスに背中を向けて抗議の意を表し、それから小さな声で付け足した。
クルティスはにこにこ笑いながら受け流し、続きを促す。
「はい。それから?」
「それから……」
言い淀む菫に、それと察した柏が菖蒲の襟首をひっ掴んだ。
「菖蒲、ちょっとこっちへ来い。耳を塞いでろ」
「えー」
「いいから、来やがれ」
「いやー、やめて。えへへ」
菖蒲はずるずると柏に引きずって行かれた。
二人が離れたのを見て、菫はまたクルティスの方を向き直り、顔を真っ赤にして俯いて言った。
「あの、『いつか一緒に歩く日も、もしも雨なら一つの傘で』と」
「はい。『いつか一緒に歩く日も、もしも雨なら一つの傘で、一つの傘を二人で持って』とお伝えします」
「クルティス様の意地悪。……でも、そのようにお願いいたします」
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