ティグレ・クロイツベルトは腹黒第二王子 1
シャルルにはもっと、未来の王妃として自覚をもって頑張りなさいと言われるかと思ったけれど、案外あっさりと私の気持ちを受け入れてくれた。
背が低く小柄だけれど気の強そうな、悪戯好きの子猫に似た眼差しをきらきらと私に向ける。
「レオン様の見る目がないというのは、よぉく分かったわ。私はコゼットさんを責めていたけど、よく考えたら浮ついた気持ちを他の女性に向けるレオン様にもかなりの問題があるのよ。アリスの努力を踏みにじる駄目なやつね、あれは。アリスがその気なら、私は応援するわ」
「シャルル、怒ってくれるのは有難いけれど、レオン様は王子で、側妃の存在も認められていますわ。だから、悪い事をしているというわけではありませんのよ」
「そんなのは分かってるけど、許せないという話よ。アリスは努力家で生真面目で可愛いんだから、勿体ないわ。そうね、結婚まであと三年もあるんだもの。折角の学生生活だし、もっと自由にして良いと思うわ。レオン王子よりも良い相手がいたら、駆け落ちでもなんでもして逃げちゃえば良いのよ」
「そ、それはできませんけれど……!」
駆け落ちという言葉に私は慌てた。
シャルルがそんな考え方をするとは思わなかった。シャルルは、フライツマール公爵家の娘である。
王家から一番近しい親類である公爵家で産まれ育っているのに、私を擁護してくれて駆け落ちまで勧めてくれるなんて、有難いけれど恐れおおい。
正直、そこまで考えていなかった。
マリアンヌに諭されて、他の男性にも目を向けて見る目を養わなければとは思っていたけれど、具体的にその後どうするかまでは――
よく考えたら私は婚約破棄される予定なので、駆け落ちまでする必要はないわよね。
婚約破棄された私を貰ってくれるような、素敵な男性に巡り合えたらそれで良い筈。
「なんだか、聞き捨てならない単語が聞こえましたよ。シャル、浮気でもしているんですか?」
不意に背後に人の気配を感じた。
心地良い中低音のゆったりとした声がする。
振り向くと、私の後ろにティグレ・クロイツベルト様が立っていた。
ティグレ様はレオン様の弟で、第二王子でありシャルルの婚約者でもある。
私達よりも一学年上で、十七歳。
細身で身長はレオン様よりは低いけれど、私よりは頭半分ぐらいは高い。
シャルルと比べると頭一つと半分ぐらいは大きい。これはシャルルが小さいからだ。
繊細そうな美男子で、頭には銀色の狼のような耳がはえている。
髪の色も銀色で、毛先にやや癖がついているのが愛らしい印象である。
『きゃあああああ! ティグレ様じゃないの~!』
そんな予感はしていたけれど、私の脳内でマリアンヌが黄色い声を上げた。
シャルルと話をしている時は興味がまるでなさそうだったし、疲れたから寝ると言っていたのに、寝ていなかったのかしら。
『起きたわよ。魅惑のハニーボイスで起きたわよ』
「魅惑の、ハニーボイス……?」
「アリスベル、なんですかそれ。魅惑の……?」
「い、いえ、なんでもありませんわ」
訝し気にティグレ様に問われて、私は居住まいを正した。
「席、空いています? 姫君たちの邪魔にならなければ、僕もご一緒しても良いですか?」
「構いませんわ、ティグレ様。私の方が、邪魔なのでは……?」
「そんなことないわよ。ティグレが邪魔よ。姫君たちは今大切な話をしているんだから、ティグレは邪魔をしないで」
シャルルはティグレ様にとても気安い。明らかに邪険な様子でひらひらと手を振っている。
ティグレ様に対してなんて恐れ多いと最初の頃は思ったものだけれど、シャルルとティグレ様は従兄妹同士の関係であり、所謂幼馴染なので、昔からずっとこんな様子だったのだという。
ティグレ様が言うには、「今更シャルが、ティグレ様、ごきげんよう、なんて言ってきたら笑い死ぬからやめて欲しい」らしい。
ティグレ様はシャルルの拒否を全く気にした様子もなく、シャルルの隣に座った。
「シャル、浮気ですか?」
「どうしてそうなるのよ。うるさいわよティグレ。しつこいわよティグレ。そのとんがった耳を引っ張るわよ」
「構いませんよ、どうぞ?」
ティグレ様はとてもにこやかだ。そして丁寧だ。
それなのに、シャルルはとても嫌そうなのに、めげない上に押しが強い。
私ならシャルルに睨まれたらすごすごと退散する自信がある。
「ちょっと嬉しそうにするのやめなさいよね。引っ張らないわよ」
「そうですか……、いつでも触って良いんですよ、シャル」
「絶対嫌、絶対嫌だわ。ね、アリス。嫌よね。耳を引っ張られて喜ぶとか、どうかと思うわよね」
そこで私に同意を求めないで欲しい。
ティグレ様の耳を引っ張る事など私にはできない。レオン様にむかってそんなことを言ったりも、私にはできない。
『半獣族にとっては、獣の部分、耳とか尻尾を触らせるのは信頼の証なのよ。ティグレ様はシャルルに甘々ねぇ。声は甘くて丁寧なのに性格悪くて腹黒とか、やっぱり第二王子としては定番よね。定番ってのは人気があるのよ。ティグレ様に丁寧に虐められたいっていうファンは結構多かったわよ』
ところどころ気になる話と、よく分からない単語がまた出てきた。
マリアンヌに問いたいが、今は話が出来ないので私はなるだけ平静を装った。
これ以上よく分からないことを口走ってはいけないと、自分を戒める。
「アリスベルが困っていますよ、シャル。引っ張る引っ張らないの話は置いておいて、アリスベルが駆け落ちをしようと思うほど悩んでいるのは、レオンの所為ですか?」
「何よ、やっぱり知ってるんじゃない。ティグレが余計なことを言うから、ややこしくなってしまったでしょ」
「すみません、シャル。冗談を言って場を和ませようかと思ったんですよ。アリスベルは、レオンの弟である僕の顔も見たくないかもしれないと思って」
怒るシャルルに、ティグレ様が言う。
私は大丈夫だと首を振った。今の私はもう大丈夫。皆が心配するほど、レオン様の事を気にしてはいない。
それもこれも、マリアンヌのお陰だ。
『あんた、そんなに感謝したらあたし、泣いちゃうわよ?』
感謝という言葉では足りないぐらいマリアンヌには感謝しているので、何度言っても言い足りないぐらいだ。
昨日のままの私だったら、ティグレ様にも無様に喚き、縋っていたかもしれない。
そんな情けなく醜悪な姿を見せずにすんで、本当に良かった。
『アリスちゃん……っ、あんた良い女ね……っ、あんたに相応しい男をあたしが一緒に探してあげるからね……っ!』
ぐずぐず泣きながら、マリアンヌが心強い事を言ってくれた。
「ティグレ様、大丈夫ですわ。シャルルとは、レオン様のことはもう大丈夫だと言う話をしていましたの」
「でも、アリスベル。レオンは、君以外の女性と密会していたと聞きましたよ」
「皆が噂するほど人に見られているのだから、密会とは言いませんわ。堂々と会っていたのではないかと思いますわ。……私は、そんな風にされるぐらい、レオン様にとっては興味のない婚約者なのだと思い知りました。だから、もう良いかなと、思っていますのよ」
「もう、良いと言うのは?」
「レオン様には本当に好きな相手と幸せになって頂いて、私は私で自由に生きてみようかと思いますの」
「アリスベル、王家の婚約とはそんなに軽々しいものではありませんよ」
ティグレ様は、やや困ったようにそう言った。
それはティグレ様の言う通りだと思う。ティグレ様の隣でシャルルが彼を物凄い顔で睨んでいるけれど、私にもティグレ様の言い分の方が正しいという事ぐらいは理解できる。
シャルルもそうなのだろう、睨みはするけれど何も言えないようだ。
「当然悪いのはレオンですが、レオンの間違いを正すのも、婚約者の役割ではないですか?」
『くぅぅ、悪辣ねぇ、傷ついてるアリスちゃんの心に塩をすりこむわね、ティグレ様は。でも、それでこそティグレ様よ~、そこが腹黒王子の良いところなのよ~』
腹黒王子というのは、ティグレ様の事だろうか。
私はティグレ様は丁寧で正直で良い方だと思うのだけれど、マリアンヌにとっては腹黒いという印象なのだろう。
マリアンヌは心配してくれているようだけど、ティグレ様は正しい事を正しく言っているだけなので、左程私は傷ついていない。
「ティグレ様、私はレオン様に嫌われている事を知っていますわ。嫌いな婚約者の注意など聞き入れてくださらないと思いますし、指摘されたらされるほどにもっと背きたくなるということも、あるかもしれません。私は婚約者の立場から逃げるわけではなくて、レオン様を遠くから見守りながら、自分の楽しみを見つけていこうと思っておりますの」
「楽しみ、というのは?」
「今までの私は、王妃教育で必死でした。相応しい自分でいなければならないと。レオン様の婚約者のアリスベルでなくなってしまったら、私がなくなってしまうぐらいには、私にはそれしかなかったのです。でも、それではいけないと感じましたの。レオン様が自由に恋愛を楽しまれている間、私も自分がやりたいことや好きなことをみつけてみようと思っていますわ」
「アリスベルは生真面目ですからね。レオンは少し奔放で気まぐれなところがありますから、アリスベルのような王妃であれば相応しいと思っていたんですが、君がそこまで考えているのなら、もう僕には何も言う事はありません。本当は、君に手を貸そうかと思っていたんですが、必要なさそうですね」
「ティグレ様、ありがとうございます」
私はお辞儀をした。
ティグレ様も納得してくれてよかった。
安心したのもつかの間、ずっとティグレ様を睨みつけていたシャルルが、がたりと唐突に席を立った。
「なによ、ティグレ、偉そうに。アリスになんて酷い事を言うのよ、大嫌いだわ……!」
「シャル……!」
シャルルは涙目になっている。
私とティグレ様のやり取りを見て、なんだか傷ついてしまったのだろう。
私は大丈夫だと声をかけようとしたのだけれど、その前にシャルルはティグレ様にそう言い捨てると、食堂から出て行ってしまった。
慌てたように追いかけていくティグレ様を見送って、一人残された私は苦笑した。
私とレオン様も、あの二人のように仲が良ければこんなことにはならなかったのだろう。
しかし、今更仕方がない。
ともかく私にとってこの学園の中で一番近しい二人に、私の立場を理解して貰えて良かった。
きっとこれで、余計な心配をされずに済む。




