シゲミ・マリアンヌちゃんとの遭遇 2
物音に敏感で、隣室にいても私が呼べばすぐに部屋に来てくれるルーファスなのだけれど、これだけ騒いでいるのに私の部屋に入ってくる気配は無い。
コゼットとレオン様のことで私が動揺していることに気づいているルーファスは、もしかしたら今はそっとしておこうと思ってくれているのかもしれない。
あくまでもルーファスはレミニス家の従者であり、私の執事という認識しかない。
マリアンヌに言われるまでは、男性とか女性とか、そういった意識をしたこともなかった。
どうしよう、よく考えればルーファスも二十歳の男性で、二十歳の男性と寮で同棲していると思うと急に恥ずかしくなってきてしまった。
『んっふふ、当て馬ちゃんもお年頃ねぇ。あんたまだ、十六歳なんだっけ?』
「マリアンヌちゃん、私の考えている事が分かるのですか……?」
『筒抜けよ、つ、つ、ぬ、け。当て馬ちゃん、大丈夫よぅ。あんたの考えている恥ずかしい事なんて、あたしには子供のおままごとみたいなもんなんだから、若くて青臭い妄想をいっぱいして良いわよ?』
「も、妄想なんてしていませんわ」
『えぇ~? だって今、ルーファスに襲われるかもって思ったでしょ?』
「ルーファスは真面目な執事です、そんなことはしませんわ!」
『期待してる癖にぃ』
「していません、断じてしていませんわ! 私はレオン様の婚約者だと何度言ったら分かるのです、そんなはしたないこと……」
『だからぁ、他の男に目を向けろって言ってんのよ。あたし知ってんのよ。あんたはさぁ、レオン王子の婚約者になった十歳の時から、毎日それはそれは真面目に王妃教育ってのを受けてて、遊ぶ暇もなかったんでしょ? 少しでも間違うと、こわぁい家庭教師のババァに物差しで手の甲をびしびしやられたんでしょ?』
「どうしてそれを……」
マリアンヌに指摘されて、私は俯いた。
私の王妃教育にと派遣されてきた専属教師はそれはそれは怖い方だった。
私の姿勢が悪かったり、字が汚かったり、単語の綴りを間違えただけで、細くて長い物差しで良く私を叩いたものである。
王家から派遣されてきたその女性は、知識も豊富だし教育者としては立派な方だったので、私は何も言えなかった。
痛みを堪えて涙を飲み込む日々は子供だった私には辛く、それでも王妃になるのだからと我慢し何とか耐えてきた。
レオン様の婚約者なのだから、相応しい淑女にならなければいけないと思っていた。
それなのに。
『あたしはなんでも知ってんのよ。なんせ全ルート制覇してんのよこっちは。コゼットちゃんを虐めるあんたのこと嫌な女って思ってたけど、よく考えたらあんたも可哀想じゃないの。王妃教育を頑張ってきたのに、レオン王子からはつまらない女って思われてるし、婚約は破棄されちゃうしさぁ』
「こ、婚約を破棄、されるのですか、私……?」
『あ~、これ言って良いのかしら。まぁいっかぁ、あんたと話せるようになったのもなんかの縁だろうし、教えてあげちゃうわ』
「是非、是非お願いします……!」
婚約破棄という言葉が、私の頭の中をぐるぐると回った。
今まで婚約破棄された王家の婚約者なんていたかしら。
婚約は王家からの打診で、それは貴族の繋がりと権力のバランスを保つものだから、何かどうしようもない事情が無い限りはまずありえない。
それなのに、どうして私たちの婚約は破棄されてしまうのかしら。
今まで頑張ってきたのに。
私のこの数年間は一体なんだったの?
どうしよう。
泣きそう。
泣くことも、ずっと忘れていたのに。
私は唇を噛んだ。泣いてしまうと専属教師にもっと怒られるので、涙をこぼさないようにする癖がいつの間にかできていた。
『あんた、人生長いんだから泣くんじゃないわよぅ。十六歳だなんてまだ産まれたばっかりの赤ちゃんと同じじゃない』
「でも、私……、これから、どうしたら……」
『なんとでもなるわよ。これから先の方が長いのよ? 生きてりゃどうにかなるんだから、落ち込んでんじゃないわよ』
「……えぇ。ありがとうマリアンヌちゃん。私の元に守護霊のあなたが遣わされたのは、神様の計らいなのですわ。私は大丈夫です、この先何が起こるのか、教えてくださいまし」
『あんた、良い子ねぇ……』
私はごしごしと目尻を擦った。
生きていれば、どうにかなる。
そうね。
そうなのかもしれない。
マリアンヌのお陰で、少しだけ元気が出た気がする。
『分かったわ、教えてあげるわよ。あんたの味方をしてあげたくなってきたわよ、あたし。コゼットとレオンの裏庭イベントは、好感度フラグの一つなのよ。ええと、なんて言えば良いのかしら……、コゼットとレオンの仲がこれからどんどん深まっていくきっかけってとこね』
「とても仲睦まじそうに見えましたわ。まるで恋人同士のようでした」
「そーね。もっと恋人っぽくなるわよ、どんどんね。で、あんたは当然怒るわよね。当然よ、今まであんただって頑張ってきたんだし、生真面目なあんたはレオンにみだりに近づくコゼットを許せないのよね』
「それは勿論そうですわ。婚約者以外の男性と二人きりになるのは避けるべきです。婚約者の方に失礼ということもありますし、男性の火遊びから自分の身を守るためでもありますわ。コゼットさんは、孤児院から養子に貰われたのでしょう。男爵家でどんな教育を受けていたかは知りませんが、それを理解していないのです」
『うん、うん。そうやってアリスベル侯爵令嬢は、コゼットを叱るのよねぇ。あんたの言葉を聞くと、正論ぶちかましてきてんじゃないわよ、こっちは恋愛しにきてんのよ、この負け犬~! ってよく文句言ってたもんだけど、実際にはあんたの方が正しいのよねぇ』
「正論は、いけませんか……?」
『正しいのは悪い事じゃないけど、可愛くはないのよねぇ。たまには道を踏み外しちゃいなさいよ。あたしなんて道から外れて、坂を転がり落ちた先が底なし沼だったわよ』
「だ、大丈夫ですの? マリアンヌちゃん、どこにいますの、救援隊を呼ばないと……!」
底なし沼に落ちただなんて、一大事ではないのかしら。
私と悠長に話している場合ではない。
私が慌てると、マリアンヌちゃんは『んふふふ』という独特な笑い声をあげた。
『あたしの沼は深いわよ~。ずぶずぶよ、ずぶずぶ。本当に落ちてる訳じゃないから、大丈夫よ。話は戻るけど、あんたがコゼットを叱れば叱るほど、レオンはコゼットを庇うわけ。そうするとどんどん溝が深まっていって、どうすることもできなくなっちゃうわよね。レオンはあんたを嫌うし、あんたはコゼットを嫌うし。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、好いたはれたで屋根が飛ぶってやつねぇ』
「屋根が……」
『飛ばないわよ』
「飛ばないのですね……」
『ま、あんたは当て馬ちゃんだから、二人を盛り上げるだけ盛り上げたあとに、最後には婚約破棄されて終わりよ。レオンはコゼットと結婚して、めでたしめでたし。二人は末永く幸せに暮らしました、ってとこ』
末永く暮らした二人は良いとして、私は――
「婚約破棄された私は、どうなるのですか……?」
『知らないわよぅ、あんたはわき役の当て馬ちゃんだし、婚約破棄されたあとどうなるかなんて詳しくは……、その、本には書いてないわよ。なんせコゼットが主役の話だもの』
「……領地に帰るというのが、妥当ですわね。……殿下に婚約破棄された女なんて、もう貰い手はいませんわ。独り身で領地に逃げ帰るなんて、恥知らずも良いところです。……私、そんな無様を晒すのなら、いっそ……」
『あんたねぇ、さっきも言ったじゃないの。生きてりゃなんとでもなるのよ。たった一回の失恋がなんだっていうのよ。男なんて星の数ほどいるのよ、星の数の中から一人を選べば良いだけの話じゃない、選り取りみどりもいいところよ』
「貴族は貞淑を重んじますわ。誰かと婚約を結んでいたという事実は、女としては傷になりますのよ」
『まさかあんた、なんかされたの、レオンに? まさか、受粉を? コゼットに靡いている浮気者の分際で、あんたに手を出してるわけ? 許せないわ、あたしがちょんぎってやるわ!』
意味はよく分からないけれど、なにかしら下品な推測をされていることは理解できた。
私は頬を染めて首をぶんぶん振った。
「違いますわ、何もありませんわ! やめてくださいまし、そんな、はしたない……っ」
『じゃあ何よ、手を繋いでしまいましたわー! とか言うんじゃないでしょうね』
「違いますわ、違います、婚約という書面の事実が、傷になるというお話でしてよ」
私は真っ赤に染まった頬を、手でぱたぱたと仰いだ。
レオン様と、手を繋ぐ。
手を繋いだどころが、触れ合ったこともない気がする。
第二王子のティグレ様は、シャルルをエスコートするときによく手を繋いでいるけれど、私は一歩先を歩くレオン様の後ろを追いかけることが殆どだ。
だって、王妃になるのだから、貞淑にしなければいけないと教わってきた。
隣を歩くなんてもってのほか、半歩後ろを歩くのが正しい在りかただと、散々教え込まれてきた。