シゲミ・マリアンヌちゃんとの遭遇 1
部屋に不審者が入ってきたのかしら……!
慌てて体を起こして辺りを見渡したけれど、いつもの変わり映えのない私の部屋でしかない。
まさか、悪霊?
私は青ざめてベッドから飛び降りると、聖なる祝詞が書かれた教科書を開こうと、教科書が並んでいる机に手を伸ばそうとした。
――もう一度、頭の中で声が響く。
『ちょっとぉ、落ち着きなさいよ、当て馬ちゃん! そわそわ動き回るんじゃないわよぅ、こっちは二日酔いで頭が痛いんだから、ぐるぐる動き回られると気持ち悪くなるじゃないの~!』
悪霊にしては、様子がおかしいわね。
特に攻撃的でもないし、うるさいにはうるさいけれど、敵意を感じない。
二日酔い。
悪霊も、二日酔いをするのかしら。
悪魔の宴とか、そういった催しで?
「あなた、誰ですの……、どこにいますの……?」
『出た、お嬢様言葉! 実際に聞くと中々良いですわねぇ~!』
「訳の分からないことを言うんじゃありませんわ。私の話し方に、何か問題でもありますの?」
『別にないわよ、可愛いって褒めてんじゃないの。そうやってすぐ怒るのは良くないわよ、当て馬ちゃん』
その声は、男性の声音なのに、妙に色気のある女性の口調で私に話しかけてくる。
声が野太いというだけで、この方は女性なのかもしれない。
どちらでも構わないけれど、あまり悪霊に長く構っているのは良くない。
はやく、聖なる祝詞で浄化しなければ。
『悪霊じゃないわよ?』
なんてことなの。
悪霊に心を読まれてしまった。
「悪霊でなければ、あなたは何ですの? それに先程から、私の事を馬だのなんだのと、無礼ですわ!」
『当て馬よぅ。あんたはね、灰かぶりと王子様っていう、乙女ゲームの当て馬ちゃんなのよ!』
「ますます訳がわかりませんわ!」
この悪霊は私と会話する気があるのかしら。
彼(彼女?)の言っている内容は、一つも意味が分からなかった。
よく分からないけれど罵られているのは理解できたので、私は憤慨した。
「まともに会話する気がないのなら、聖なる祝詞を唱えますわよ。私、本気ですのよ!」
『だからぁ、悪霊じゃないって言ってんじゃないの。人の話を聞かない子ねぇ』
「あなたに言われたくありませんわ!」
『あたしは、シゲミ・マリアンヌ。マリアンヌちゃんって呼んで良いわよ。マリアンヌさんとかシゲミさんとか言ったら、あんたの頭の中で思いつく限りの猥談をしてやるから、覚悟なさい』
シゲミという名前は珍しいし、マリアンヌは普通ファーストネームなので、シゲミ・マリアンヌというのはあまり聞いたことがない。
世の中は広いので、そういった名前の方もいるのかもしれない。
「シゲミさんとお呼びしますわ」
『雄しべと雌しべがどうやって受粉するのか、詳しく説明してあげましょうか?』
「や、やめてくださいまし、破廉恥ですわよ……!」
『やだぁ、花の受粉の話よ、お花の、ねぇ。まず、雌しべの表面はぬるっとして……』
「マリアンヌちゃん!」
花の話だと分かってはいるけれど、マリアンヌの口調で話されるとどうにも居心地が悪くなる。
真っ赤になった顔を両手で隠して、私はマリアンヌの名前を呼んだ。
『素直でよろしくてよ~!』
「うぅ、負けましたわ……、私ともあろうものが……」
『あら~、当て馬ちゃんったら、嫌な女かと思ってたのに結構可愛いのねぇ。でも、コゼットちゃんの方があんたよりもかわいいけど~』
「あなた、コゼットを知っていますの?」
『マリアンヌちゃん、教えてください』
「ま、マリアンヌちゃん、教えてください……」
私は心を落ち着かせるために、一度ベッドに腰かけた。
もう一度受粉の話をされたら嫌なので、ちゃんと返事もした。
『あのねぇ、灰かぶりと王子様っていうのはね、タイトルからも分かるようにそれはもう安易な、良くあるごく普通な乙女ゲームなのよ。コゼットちゃんは主人公ね?』
「もう少し分かりやすく言ってくださらないかしら……、さっぱりわかりませんわ」
『なんて言えば良いのかしらねぇ。あたしからは、あんたが見えるし、あんたの考えてることが分かるし、あんたの周りの風景も見えるわ。そうね、別の世界にいる守護霊、守護霊と思いなさい!』
「守護霊、ですか……」
『そう、守護霊よ。で、その守護霊のあたしは、あんたの世界に起こることをとある本で読んで知っているわけ。そんなに面白くなかったけど、一通りやり込んだ乙女ゲームだからね~。それはおいておいて、コゼットちゃんっていうのは、その本の主人公なのよ』
「つまり、マリアンヌちゃんは神様みたいなもので、あなたの世界には私たちの国の出来事が、物語としておさまっているということですのね」
『そうよぅ、さすが当て馬ちゃんね。賢いだけが取り柄の、面白みのない女ね」
「いくら、守護霊とはいえ無礼ですわよ……!」
『守護霊は例えよ。そんな良いモノでもないわよあたしは。それはそうとして、当て馬ちゃん……、じゃなくて、アリスベルちゃん』
「私の名前も知っていますのね……!』
守護霊であるマリアンヌに名前を呼ばれて、少し嬉しいなと思ってしまった私。
しかも、アリスベルちゃん、なんて。
そんな可愛い呼び方をされたのは、いつぶりかしら。
『あたしはなんでも知ってるのよ。それで、当て馬っていうのはねぇ、当て馬っていうのはなんて言えば良いのかしら……、ちょっと今辞書を探してくるわね』
「待っていますわね……」
マリアンヌが一体何者なのかを考えるのは無駄だと感じた私は、大人しくベッドに座って声がするのを待った。
なんだかよく分からないけど、マリアンヌはコゼットのことも私の事も知っているようだし、本当に守護霊か、もしくは神の御使なのかもしれない。
コゼットとレオン様の事で道に惑っている私に、天の主が遣わしてくれた天使なのかもしれない。
ちょっと品は悪いけれど、そうだとしたら大切にしなければいけない。
『おまたセバスチャン~!』
「おまた……、セバスチャ……?」
『あら、セバスチャンって一般的な執事の名前じゃないの? 当て馬ちゃんでも分かるかと思ったのにぃ』
「セバスチャンという方はいらっしゃいますけれど……、私の執事の名前ではありませんわ」
『まぁ良いわよ。あんたの為に今調べてきたわよ』
なんて自由な守護霊なのだろう。真面目に話をしていると頭が痛くなってくる。
『ええとねぇ、当て馬っていうのは、雌馬の発情をうながすための雄馬のことね』
「なっ、な、なっ、な……っ」
『な?』
「なんてことを言いますの! 私が、私が、はっ、はつじょうのための、う、う……!」
『違うわよぅ。要するに、盛り上げ役の事よ。二人の恋路を邪魔して、最後には踏み台になる当て馬ちゃん。それが、アリスベル侯爵令嬢ちゃん。メイン攻略対象レオン王子の婚約者ね。あんまり興奮すると、血圧上がっちゃうわよ?』
またよく分からない単語が混じった。
私はなんとか心を落ち着かせながら、マリアンヌの言葉を聞く。
『レオン王子はねぇ、生真面目で完璧なあんたのことを、別に嫌ってはいないけど、面白みがないって思ってるのよ。それで、庶民ながら成績優秀で、元気溌剌でみんなと仲が良くて、可愛くて優しくて非の打ちどころのないコゼットちゃんに目を付けた訳よ』
「そんな風に思われていたなんて……」
『それにあんたのその髪形……、見事なまでの悪役風縦ロールもあんまり好きじゃないみたいよ』
「悪役を目指しているわけではありませんわ。縦巻きにするとおさまりが良いですし、ルーファスが勝手に巻いているだけですわ」
『あらー、良いじゃない。ルーファス、あんたの執事よね。いっそレオン王子はコゼットちゃんにあげちゃいなさいよ。あんたにはルーファスがいるじゃない』
「ルーファスはいますけれど……、執事がいるからなんだというのです?」
『まぁ、なんて察しの悪い子かしら! 男なんてレオンだけじゃないって話をしてんのよ!』
マリアンヌの言葉に私は衝撃を受けた。
第一王子レオン様の婚約者である私には、他の男なんていないのだ。
そんな、そんな不敬な事、考えるだけで罪深い。
婚約者がいるのに他の男性について考えるだなんて、破廉恥もよいところである。
「だ、駄目ですわよ、マリアンヌちゃん。私は、レオン様の婚約者ですわ」
『だってコゼットちゃんに取られちゃうんでしょ?』
「だから、それをどうしようかって、どうしたら良いのかって今考えてるところで……」
『目を覚ましなさい当て馬ちゃん! あんた意外と良い子だから言わせてもらうけど、当て馬になっても良いと思ってる訳? この国に男が何人いると思ってるの! 一人の男に執着する、おブスなことはやめなさい!』
なんだかわからないがとても怒られている事が分かった。
マリアンヌの声が部屋から漏れていたらどうしよう、レオン様の婚約者として絶対言ってはいけないことを、マリアンヌは大声で叫んでいる。
私はきょろきょろと部屋を見渡した。
隣室のルーファスが騒ぎに気付いて駆けつけてきたらどうしようかと不安になったからだ。