序章
許せないわ。
許せない、許せない。
私は自室の中を綺麗に整えられた爪を噛みながら、うろうろと歩き回る。
許せない上に、ありえない。
一体何なのよ、あの女は。
私の脳裏に、ある一人の女生徒の姿が浮かび上がった。
コゼット・デンゼリン。
私と同い年の十六歳。
コゼットは、入学式の時はごくごく普通の目立ないただの庶民だった。
クロイツベルト王立学園は、王国に暮らす子供たちの学力向上の目的で、クロイツベルト王国の各地から十六歳から十八歳までの庶民から貴族まで誰でも受け入れる学園である。
王国の中心の王都に設立されている、もう一つの街のような場所。
レミニス侯爵家の長女であるこの私、アリスベル・レミニスがクロイツベルト王立学園に入学したのは、今年の四月の事だった。
その時は当たり前だけれど、将来に不安なんてなにもなかった。
レミニス侯爵家はクロイツベルト王国の肥沃な南の領土を与えられていて、それは王国の中心地からは外れてはいるけれど、貿易の為の港もあるし隣接する半獣族や魔族の国との関係も良好で、気候も安定していて災害もない。
お父様の統治も上々で、跡継ぎである私の二つ年上のお兄様、ソルト・レミニスもお父様に負けず劣らず優秀だと言われている。
私がクロイツベルト王国の第一王子である、レオン・クロイツベルト殿下の婚約者に選ばれたのは、十歳の時だった。
第一王子のレオン様は私よりも二つ年上の十二歳。
現王であるレオン様のお父様は、半獣族のお姫様を王妃様に迎えた。
その為今回は有力な貴族との繋がりを深めるために、自国の貴族から妻を選ぶという話になったらしい。
二人の王子と同年代の高位貴族の女児は私と、フライツマール公爵家の長女であるシャルル・フライツマールぐらいしかいなかった。
公爵家のシャルルを第一王子の妃とすると、王の権力が強くなりすぎるという懸念もあって、それならばと私がレオン様の婚約者になったわけである。
第二王子ティグレ様とシャルルに婚約を結ばせて、男児の居ないフライツマール公爵家の跡継ぎを、ティグレ様にすることで、王位争いを防ぐという目的もあったようだ。
レオン様の婚約者に選ばれてすぐ、王妃教育のために王都から私の専属教師が派遣された。
マナー教育も勉強も、王妃教育となればより一層厳しいものになった。
朝起きて教師に常にはりつかれて、夜にやっと一息ついたと思ったらまた朝がくる、というような生活だった。
そんな生活を続けて六年。
専属教師の元を離れてようやくクロイツベルト王立学園に入学することができた。
同い年のシャルルとはお手紙でやりとりを続けていて、一緒に学園に通えるのがとても楽しみだった。
ちなみにシャルルのフライツマール公爵家は王都にも別邸を所持しており、シャルルはそこから毎朝学園に通っている。
入学当初の学園生活は、特に問題なかったように思う。
シャルルが側にいてくれたし、レオン様は必要以上には私の前に顔を出さないものの、婚約者としての立場を弁えてくれていて、入学式ではきちんと傍に居てくださった。
私とレオン様は、友人のように気安いという間柄ではないし、愛し合っている恋人同士という関係でもない。
婚約は義務なのでそんなものだろうと思っていた。
それよりも、シャルルと毎日お話できるのが嬉しくて、一緒に学園生活を滞りなく送っていたのだ。
この一か月は。
それなのに。
「あの子……、コゼットとか言ったかしら……、なんなの、なんなのよ……!」
私は部屋の真ん中で足を止めると、呟いた。
コゼット・デンゼリンは桃色がかった金色の髪を持つ、小柄な体型のごく普通な少女だ。
私の隣の部屋で寝起きしている執事のルーファスに調べさせたら、デンゼリン男爵家に養子に貰われた孤児なのだという。
デンゼリン男爵家というのを私はよく知らない。
フライツマール公爵家や、他の侯爵家、伯爵家あたりならいざしらず、子爵家、男爵家ともなるとごくごく小さな地方領主から、恩賞を与えられた騎士の家や、大商人の家まで多岐にわたるので、全て把握するのはとても困難だ。
ルーファスが言うには、デンゼリン男爵家は、北の小さな鉱石採掘地で豊富な魔石が取れる場所を掘り当てた炭鉱夫の家系らしい。
さらに言えばその魔石も枯渇してきており、折角稼いだ金も食いつぶしてしまったため落ち目の貴族なので、あまり有名ではなく知らなくても当然だとのこと。
そのデンゼリン男爵家が、コゼットを養子に迎えたのは、デンゼリン男爵夫婦に跡継ぎになる子供が出来なかったからだという。
落ち目の貴族が女児を養子に迎えるのは、政略結婚の駒として使いたいからという理由が殆どだ。
コゼットもきっと、そんな理由で養子にされたのだろう。
それでももう十六歳なのに、未だに婚約者はいないらしい。
もしかしたら貴族としての矜持のために王立学園を卒業させたところで、金持ちのお年寄りの後妻にでもするつもりなのかもしれない。
それはそれで、構わない。
別に私には関係のない話だ。
可哀想だと少しぐらいは思うけれど、そんな話そこかしこに転がっている。
そんな理由でもなければ、貧乏な男爵家が孤児を養子になんてしない。
「ただの養子で、孤児の癖に、なんでレオン様と一緒にいるのよ……!」
せっかくシャルルと楽しい学園生活を送っていたのに、台無しにされた気分だ。
その元孤児の少女、コゼットがどういう訳かレオン様と、二人きりで学園の裏庭で密会しているのを見てしまった。
見たくて見た訳じゃないのよ。
たまたま通りかかってしまっただけなの。
学園の裏庭にはレミニス侯爵家の領地にはえているプルメリアの花壇があって、故郷を懐かしむことができるので、時折私は裏庭に降りていた。
十六歳にもなって実家が恋しいとかちょっと恥ずかしいので、誰にも言わないでこっそり一人で花壇を眺めるのが私の密やかな楽しみだった。
それなのに、それなのに。
皆が食堂で食事をする時間、今日はシャルルがティグレ様に呼ばれているというから邪魔をしてはいけないと思って、せっかくなら人気のない裏庭で一人でのんびりしようと思ったのに。
そこには先客がいた。
何やら焼き菓子の入ったバスケットを膝に抱えているコゼットと、そのバスケットから焼き菓子を摘まんで食べているレオン様。
そんな非常に、非常に、むずがゆく甘酸っぱい情景を見せつけられた私は、密やかな楽しみを奪われたことも相俟って、暫く裏庭に続く渡り廊下の端っこで呆然と立ち尽くしていた。
「ありえないわ、理解できないわ、どうして、どこでどうやって、レオン様と仲良くなったのよ……!」
午後の授業を何とか終えると、私はすぐさま寮へと帰ってルーファスの部屋の扉を叩いた。
ルーファス・アイエスは、昔から私の傍に居る執事の青年である。
確かもう、二十歳になったのかしら。
別に私は一人で王都に来ても良かったのだけれど、お母様が心配だからと同行するようにしてくれた。
傍付きの執事やメイドを連れてくる生徒も多いので、私だけが特別という事はない。
ルーファスは私が幼い頃から側に居てくれたので、私にとっては何を考えているのかよく分からないところのあるソルトお兄様よりも、ルーファスの方が近しい家族という感覚がある。
そのルーファスに事情を説明すると、デンゼリン男爵家について調べて教えてくれた。
だからといって、じゃあ何かできるのかと言えばそんなこともなく、私は苛立ちを抱えながら自室に戻り、こうして喚いているわけである。
「私の憩いの場所を奪った上に、その場所でよりにもよってレオン様とあんな……、あんなふしだらなことをしているなんて……!」
肩が触れ合うほどに密着して座って、コゼットの膝の上のバスケットに手を突っ込むレオン様の光景を思い出し、私はベッドに倒れ込んだ。
恥ずかしいやら腹立たしいやらいたたまれないやら、どうにかなってしまいそうだ。
誰もいないからと言って、外であんな風に過ごすだなんて恥知らずも良いところだ。
『……当て馬ちゃんってば、かなぁり初心なのねぇ』
野太く掠れた男性の声が私の脳内に響いたのは、そんな時だった。