水沢日和/6:曖昧なボーダー
太陽の仕事が照らすことなら、太陽自身を、誰が照らしてあげるのだろう。
「似ているなあ……」
ドアを後ろ手で閉めながら、さっき漏れてしまった言葉を、もう一回呟いてみた。
「あ、お姉ちゃん、おかえりー」
不意に声をかけられてビクッとする。前を見るとリビングから出てきたところのひなたちゃんがいた。
日焼けでちょっと茶色くなった短い髪をうなじのあたりで結んで、肩にタオルをかけて、スポドリを飲んでる。
今の独り言は聞かれてなかったみたい。良かった良かった。
小動物みたいなつぶらな瞳でひなたちゃんがこちらを見ている。
姉バカかもしれないけど、ひなたちゃんはすごく可愛い。
小麦色の肌が健康的に汗をはじいて、グレーのTシャツの首元は汗じみでちょっと黒くなってる。ザ・スポーツ少女という感じ。
うん、可愛い。
「ひなたちゃん、ランニング帰り?」
「そー。シャワー浴びるー」
ひなたちゃんは陸上部で短距離走をやっているらしい。
なかなか速いみたいで、家のリビングのタンスの上には中3の大会でもらった賞状も飾ってある。
私はといえば、中高時代はなんとなく美術部に所属して、大した賞を取ったりすることもなく6年を終えた。
あの時以来、絵は書いていない。
私はインドア派、ひなたちゃんはアウトドア派、と、姉妹で綺麗に趣味のタイプが分かれたなあ、と思う。
ひなたちゃんは玄関の前を通って浴室の方に向かう。
私も靴を脱いで手洗いうがいをしに、浴室の横にある洗面所に向かう。
「そういえば、ひなたちゃん、受験とかってどうなってるの?」
「えー、まだ二年生だもん」
洗面所で服を脱ぎながらひなたちゃんが答える。
私は手を洗いながら、
「青葉くんは、図書室で勉強してたよ」
と言ってみる。
その瞬間。
鏡の中、浴室のドアを開けようとしたひなたちゃんの動きがいきなり止まる。
「お姉ちゃん、今日、青葉に会ったの?」
「え、うん。一緒に帰ってきたよ」
ひなた、相変わらず同じ姿勢。
日焼けあとが綺麗ねえ、とおじさんかおばさんみたいなことを思った。
「あ、え、一緒に帰って来たの? 今?」
「うん、そうだけど?」
ひなたちゃんは、まだ同じ姿勢でこっちを見ている。
アーモンドみたいな可愛い目をいそいそと泳がせはじめた。
「へー、じゃあ、すれ違い? ニアミス? なんだっけ、そういうようなやつだね! お姉ちゃんと私!」
たははー、とか言ってる私の妹。
いや可愛いから良いんだけど、それは青葉くん関係なく私が帰って来た瞬間にわかってたよね。
っていうか、何がそんなに気になるのか知らないけど、
「全裸のひなたちゃん、とりあえずシャワー浴びたら?」
手を洗い終わった私はリビングに向かい、作り置きのアイスコーヒーを氷でいっぱいのグラスに注ぐ。
このアイスコーヒーはコールドブリューとかっていって、挽いた豆を水に8時間くらい浸けて置くと出来上がるという、ニューヨークで流行中のおしゃれアイスコーヒーなのだ。
おしゃれな雑誌に書いてあったので、我が家でも導入しようと思い、やってみている。
お母さんは「ああ、水出し珈琲ね」と言っていた。
その言い方は、おしゃれじゃない。
一口、ブラックのまま飲んでみたけど、やっぱり苦いので飲んだ分くらいの牛乳を入れた。
こうするとギリギリ飲める。
やっぱりまだ舌は子供だなあ、私。
コーヒーを飲みながら、先ほどの光景を思い出していた。
映画監督になりたい、と言った時の青葉くんが、あの人に重なった。
あの人−−阿賀孝典さんは高校時代の美術部のOBだ。
ひなたや青葉くんの通っている高校は電車で2駅行ったところにある瀬川高校で、私が通っていたのは自転車で通える距離にある、鶴久保高校だった。
私が高校二年生の夏に行った合宿。
ゲスト講師としてやってきたのが当時一夏町の隣町の芸大の学生をやっていた孝典さんだった。
合宿中ずっと、目を爛々と輝かせてアートの話をしている彼に憧れたのがきっかけだった。
少年の心を持っているという風にも見えたし、それでもやっぱり同じクラスの男子にはない大人っぽさというか包容力みたいなものが垣間見えた。
彼の地元も一夏町だということが分かってから、私はそれをいいことに、作品を見て欲しいやら孝典さんの作品を見てみたいやら口実をいくつも作って彼に会いに行った。
そのうち自然と私の気持ちは孝典さんに伝わったのか、無理やりな理由をつけなくても二人で会えるような仲になった。
水沢さんと呼ばれていたのがいつの間にか日和ちゃんと呼ばれるようになり、日和ちゃんと呼ばれていたのが次第に日和と呼ばれるようになった。
あわせて私の方も、阿賀さんと呼んでいたのがいつの間にか孝典さんになり、孝典さんと呼んでいたのが、次第と孝典と呼ぶようになった。
付き合おう、とかは言わなかったし、言われた覚えもない。
『告る』『告らない』みたいなことが当たり前だった当時の私にとっては、その曖昧な関係がなんだか大人っぽく感じた。私は、周りとは違う恋愛をしているんだと、意味のない優越感があったのだ。
そんな風に未熟な恋を育みながら、彼はちょうど就職活動を行う年次になった。
『おれ、CMが作りたい。30秒で誰かを泣かせるくらいのことがしたい。いつか、おれが夢を叶えるのを、隣で見ててくれないか』
キザな台詞だと思う。
それでも私は、そんな言葉に舞い上がっていた。
そうして、孝典さんが東京の映像制作会社に勤め始めてから1年と4ヶ月くらいが経つ。
はじめの1、2ヶ月は連絡がついたけど、メールの返事がくるのはいつもいつも深夜になってからだった。
『おはよう』と送ったメールの返事が朝4時の『おやすみ』。
そのペースも一日おき、二日おきと間隔が開いてしまい、次第に連絡が取れなくなってしまった。
「絶対に女だよ。今時そんな遅くまで仕事させられる会社なんかあるわけないじゃん! あの女たらしイケメン野郎!」
と、美術部の友達は言ってた。
最初は孝典に限ってそんなわけない、と思っていた。
私の友達の方が幼いんだ、と。
でも、ある時、SNSで全然知らないおっぱいが大きいケバケバした感じの女子の写真に、
孝典さんがタグ付けされてツーショットで上がって来た時、これまで抑えていたつもりの猜疑心が、一気に身体を満たしてしまった。
自分でも子供じみた行為だったと思うけど、いわゆる鬼電をかけて、なんとか一回繋がった電話に出た孝典さんを私が泣き喚きながら問い詰めた時。
『寝てないんだよ。頼むから、静かにしてくれ。大人には色々あんだよ。夢だけ食って生きてられないんだよ。子供にはわかんないかも知んないけど』
と、言われたのが最後。
もしかしたら元々、付き合ってなかったのかもしれない。
大人っぽくて艶やかな暗黙の約束は多分、オトナっぽくてズルいだけの手口なんだろう。
きっと、ろくな人じゃなかったんだ、いや、絶対、そうだ。
今もどっかの化粧の濃い女と遊んでるのかな。
今もあんな風に、夢の話をするのかな。
優しい声で、話すのかな。
一人になると、いつも、私の思考はここに到着してしまう。
ああ、牛乳を入れたのに苦い。
なんなんだ、この水出し珈琲め!
「ふー、さっぱりした!」
タンクトップとショートパンツでひなたちゃんがリビングに出て来た。太陽の妖精みたいにまぶしい。
可愛い妹に喜んでもらいたくて、牛乳を注いであげた。
「ありがとーお姉ちゃん」
ググっと飲み干して、ぷはーっとやっている。
口の周りに泡ヒゲでもつけてそうだけど、これは牛乳だからつかない。
「でさー、」
わざとらしく窓の外の夕日を見ながらひなたちゃんが言う。
「青葉、もう勉強してるって?」
この子、分かりやすいにもほどがあるな……。
「そう、塾に行ってるみたいだよ。あの、陸上部の奈良くん? って子と一緒に」
気づかないふりをして答える。
「あ、奈良ね。それで、元気にしてた? 青葉」
って、奈良くんの扱い! 奈良くんは結構ひなたちゃんの話出た時嬉しそうだったよ?
というツッコミは心の中にとどめ、冷静に返事をする。
「うん、元気だったよ。というか、ひなたちゃんは同じ高校なんだからわかるでしょ?」
「いや、今夏休みだから最近全然会ってないし」
いや、知ってるけど、まだ7月じゃないですか。
あなた終業式したのまだ先週じゃないですか。
時の経つ速度は、年が4つ違うだけで、こうも違うものでしょうか……。
よし、ちょっと意地悪してみよう。
「そっかそっか。なーんか、青葉くん大人っぽくなったよね。私を歩道側にやって、車道側歩いてたよ」
「はぇ!? それ、うちが教えたキュンテクじゃん。なにお姉ちゃんなんかに使ってんだアイツ......」
ひなたちゃんはぶつぶつ言ってらっしゃる。
そうか、ひなたちゃんが教えたのか。
ていうか、キュンテクって。お姉ちゃんなんかって。
「でも、そっか」
「ん?」
「ひなたちゃん、いつから青葉くんのことが好きなの?」
「えぇっ!?」
ひなたが激しくむせている。わかりやすい。
「いや、そんなんじゃない、違う違う!」
むせながら、顔を赤くして否定する。
そのまませき込んでしまったので、背中をさすってあげた。
ちょっと落ち着いたっぽい。
「あのね」
「んー?」
ひなたちゃんが咳払いをする。
座り直して、ちゃんと何かを話そうとするので聞くことにした。
もしかしたら、口角は緩んでるかも知れないけど。
「クラスの友達で、吉野夏織ってのがいるんだけど、その子が青葉を好き……みたい、なんだよね。この間なんか、『ひなたと西山くんって付き合ってんの?』なんて言われてさ。それから、青葉に悪い虫が付かないように見張る立場になっちゃったっていうか。なんていうか、それだけだよ。あ、もちろん、お姉ちゃんが悪い虫ってことじゃなくてね」
あらまあ。それは何というか、ありがちな......。
よしのちゃんって子はひなたちゃんを牽制しているのかな。マーキングとも言う?
女子高生の、怖い世界だ。
「なんというか、あれだけど。ひなたちゃん、頑張ってね」
「いや、私は支えるだけっていうか、別に頑張るようなことじゃないんだけど。友達は、絶対大切にしなきゃ、だから」
『友達は、絶対大切にしなきゃ』
これは、ひなたちゃんの口癖だ。
困ったことに、こういう時のひなたちゃんは本当に自覚がない。
とぼけているわけでもなんでもなくて、自分は恋なんてしていないと本当に思っているんだと思う。
「ひなたちゃん」
なんだか言い訳みたいにブツブツ言っているひなたちゃんに向き直っていう。
「うやむやにして、後悔、しないようにね」
誰に言ってるんだろうな、と思いながら。
その言葉に思うことがあったのか、ひなたちゃんがまた咳払いをする。
ひなたちゃんが何かを言いたい時に出るクセだ。
「あ、あのさ、お姉ちゃん、好きってどんな感じ?」
ひなたちゃんが目をそらしながら聞いてくる。
難しいことを聞いてくるな、私の妹……。
「んー、なんだろう、楽しい時間とか嬉しいこととか共有したいってこと……かな?」
「んー……そうかあ……」
なんだか腑に落ちていないご様子? なんですかこの状況。恥ずかしいな。
「じゃあ、お姉ちゃんは、阿賀さんのこと、まだ、好き? 楽しい時間とか共有したいって、思っている?」
一瞬。
一瞬だけど、息がつまった。
好き、とか、好きじゃない、とか、そういうこと、もう、あまり考えてなかった。
そういう、問題じゃない。多分。
「もう好きじゃないよ。そんな風には全然思ってない。大人になると、片思いなんかしないの」
すぐに取りつくろった笑顔で、なんとか切り抜けた。
切り抜けられた、多分。
「さて、私もシャワー浴びよー、なんか汗かいちゃった」
二人分のグラスを持って立ち上がり、片方のグラスに残っているものをシンクに流して、お風呂場に向かう。
「全然大人なんかじゃないくせになあ……」
リビングのドアを閉める時、どこかからそんな声が聞こえた。