水沢ひなた/6:握手の色
うちには、ずっとずっと大切にしていたものがある。
何かを選ぶことは、それ以外を選ばないことだって、いつの間にか、勝手に思い込んでいたのかもしれない。
でも。
その関係の名前が、友達でも、恋人でも、家族でも、なんでもいいんだ。
うちの大切な人たちが、不用意に、理不尽に傷付かないでいられるように。
だから、うちはとにかく走る。
要領良くなんて出来なくても。
もう、間に合わないのは、嫌なんだ。
「ひなたちゃん、行ってきますっ!」
ドアが開いた隙間から、セミの鳴き声が部屋の中に滑り込む。
慌ててお姉ちゃんが出かけてった。青葉に会いに行ったんだろう。
涼しくて静かなリビングに、クーラーの動く音だけが響く。
お姉ちゃんが片付けないで残していったガラスのコップを、キッチンの流しに置く。
蛇口をひねって水を流す。
コップを満たして、あふれて、もともと入っていた薄茶色の液体が全部出て行って、すぐに、透明な液体がうねうねと蛇みたいな螺旋を描く。
ぼおっと、それを眺めていた。
水が流れているのを見ているのは、好き。なんか、落ち着くから。
だけど、水に流すのは、好きじゃない。流されるのも、好きじゃない。
流れてしまうことも、流されてしまうこともなく、うちは、自分の足で立って、自分の足で戦いたいんだ。
もう二人、話さないといけない人がいる。
もう二つ、やらないといけないことがある。
いや、やらないといけないことは、もう三つ、かな。
一息ついたら玄関に向かい、スニーカーを履く。
よし、向かおう。
まずは、あいつのところへ。
アスファルトの道は、まだまだ暑い。
おでこに髪の毛がはりついていて、ちょっと気持ち悪い。
奈良は、今日もいるかな。
そんなことを思いながら図書館の自動ドアの前に立つと、
「ん? 奈良……と夏織?」
今日話さないといけないと思っていた二人が驚いた顔をしてこちらを向いた。
「ちょうどよかった」
そう口にしたのは誰だったんだろう。
図書館のロビー。一昨日奈良と話したナイロンのベンチ。
奈良は座ってて、夏織は立っている。
その間くらいに立ってみる。
「二人で何話してたの?」
と言ってから、二人は同盟を結んでるって言ってたのを思い出した。
だとしたら、うちは最悪に空気読めないタイミングで来ちゃったかもしれない。
「んーとね……」
夏織がどうしよう?みたいな顔で奈良のことを見る。
奈良が、おれが言うよ、みたいな顔をして立ち上がった。
なんか、アイコンタクトしちゃって、そんなに仲良かったんだ、この二人。
羨ましい、に似てるけど、もっとなんだかにごった気持ちが、水に直接絵の具をチューブからにょろにょろっと出したみたいに心を汚した。
何でだろう?
もやもやしてるうちのことをまっすぐ見て、
「水沢ごめん、おれ、昨日の話を吉野にしたんだ」
と謝られた。
「昨日の話、って……?」
「おれが、水沢に告白した話」
かあっ……と顔が熱くなる。
どうしよう。
改めて本人に面と向かって言われると、変な意識が芽生えていることに気付いてしまう。
一瞬で誰かの特別になっちゃうんだから、好きだって伝えることの攻撃力はすごいなあ。
「全然ごめんじゃないけど……」
ふう。
それでも、伝えなきゃいけない。
何よりも大事なはずの友達をなくすかもしれない。だけど、これからも友達でいられるために。
「あのね、奈良。あと、夏織にも聞いてほしいんだけど、」
だって、そうじゃないと、フェアじゃないから。
「さっき、青葉と話してきたよ」
奈良も夏織も、口を開けて数秒固まってる。
「えっと……?」
「「もう、行って来たの!?」」
二人が大きな声を出す。
「いや、一応図書館だから静かにしよう……」
うちが、なだめる立場になることあんまないんだけどな。
「え、ひなた。あの、私、まだ、わかんないけど、えっと。西山くんに、告白して来たってこと?」
ん? うちがこれから説明しようとしてることを先回りされている?
「奈良、もしかして……」
昨日の話をしたって、ごめんって……。
「ごめん……」
奈良が申し訳なさそうな顔をしてる。
いや、さっき全然ごめんじゃないって言ったけど、前言撤回!
それはごめんだ!
「いや、あのね、奈良、」
私が詰め寄ろうとすると、
「違うの、ひなた!」
と夏織に止められる。
「いきなり奈良くんが同盟解消しようって言うから、納得行く理由を言ってよって私が怒ったの。それで、白状しちゃっただけで……」
ん?
「同盟解消?」
「そう、奈良くんは、私じゃなくてひなたを応援するんだって、決めたんだって」
夏織が綺麗な顔をしてそういう。
胸がいきなりぎゅっと苦しくなる。
奈良の覚悟を、思いやりを、知る。
そして、そう言った夏織はすごく凛々しくて、あー、やっぱ、今日で大人になっちゃったのかな、なんて、置いてけぼりをくらったような気分になった。
「そっか、ありがとう」
ちょっと拗ねながら、口にする。
「……それで、にしやんには思いを伝えられたのか?」
奈良が訊いてくる。彼の心臓の音がうちのところまで聞こえてくるみたいだ。
「うん。今の気持ちをちゃんと、伝えて来た」
「そっか」
しっかりと、奈良の目を向いて、伝える。
「だからね、奈良」
言いたくない、思い上がった、言葉。
「うちは、奈良の気持ちにはこたえられない」
だけど、言わなきゃいけない。
「奈良の気持ちは嬉しかったよ。でも、だからこそ、ちゃんと、すぐに答えを出さなきゃと思った」
奈良がくしゃっと笑う。
いや、笑顔を、作ったんだ。
「そんなんわざわざ言いに来たのか? こたえられないことくらい、分かってるよ、ばーか」
へへへ、と奈良が無理をする。
「うん、ちゃんと伝えに来た」
うちは真顔で返す。これは、責任なんだ。
「だって、奈良みたいないいやつが、うちなんかにこだわってる場合じゃないから」
抱えた思いが重りになって、前に進めないのは、だめだ。
「……そんなの、どうでもいいんだけどな」
寂しそうに笑いながら彼がそう小さくつぶやいた一言を、うちはしっかり心に刻まなきゃいけない。ちゃんと持ってくよ。
少しの沈黙を夏織がやぶる。
「つまり、西山くんに告白して来たってことだよね?」
うちの手を握りながら、改めてそう聞いてくる。
奈良もこちらを見ている。
ふう。
咳払いをする。
「うちは、青葉に付き合いたいとかって言ったわけじゃないよ。ただ、ヨーヨーを返してきただけ」
「ヨーヨー……?」
二人の頭の上にハテナマークが浮かんでる。
「んまあ、あの、ただの友達だと思ってないよって、言ったつもり」
二人がまだ首をかしげてる。
これじゃ、答えになってないってことなんだろう。
まあ、そうだよね。
「で、西山くんは、なんて……?」
夏織の手が震えている。
「答えなんかないよ。伝えて、帰って来ちゃった」
逃げたわけじゃない。
うちの、けじめだったから。
「ねえ、夏織」
まっすぐに夏織の目を見る。
「ん?」
もう一回、咳払い。
「うちね、青葉に恋をしてるんだと思う。ずっと昔から持ってたから、この気持ちを恋って呼ぶなんて知らなかったけど、夏織が青葉に告白するのを見た時、いやだって思っちゃったんだ」
「うん、分かった」
夏織が目を伏せる。
奈良の目が揺れる。
うちの勝手な感情が友達を傷つけていく。
言葉が本当にげんこつになって、二人をそれぞれ殴ってるみたいだ。
「夏織にとってうちは敵になっちゃうのかもしれない。もう、本当の友達じゃなくなっちゃうのかもしれない。それでも、うちは、この気持ちを持ったまま夏織とただ笑っていることは出来ない」
ぎゅっと夏織の手を握る。
怖い。
足は速くなったけど、臆病は治ってないみたいだ。
でも、伝えることでしか前に進めないから。
「でも、うちは夏織とそれでも一緒にいたい」
夏織がふうー……と長い息を吐く。
そして、そっとうちから手を離した。
スッ……と景色が遠くなる感覚。
ああ。
やっぱり、難しかったのかな。
友達じゃ、なくなっちゃうのかな。
「あのね、ひなた」
夏織が震える声で話しはじめる。
「あんまり、見くびらないでよ?」
顔を上げた夏織は、あきれたみたいに笑っていた。
「私のことも、私の気持ちも」
戸惑っているうちをそのままに、夏織は話を続ける。
「相手には好きな人がいるからとか、自分は幼馴染じゃないからとか、親友と被っちゃったからとか、そんなことで諦められる気持ちなら、そんなのとっくに諦めてる。そんな気持ちのことを、私は恋なんて言わない。苦しいし、痛いし、私バカだなってことばっかりだけど、それでも、会えると怖くなるくらい嬉しいし、ちょっと話した言葉を何回も何回も頭の中で繰り返しちゃうし、明日が楽しみなんだけど、傷つくのがずっと怖くなる。そんなことが、止められないんだよ。だから、私は西山くんを諦めない。諦められない」
すーっ、と息を吸って。
「そこに、ひなたの気持ちなんか、これっぽっちも関係ない」
胸に激痛が走る。
痛い。
視界がぼやける。
ねえ、夏織。
気持ちは、なんでこんなに難しいんだろうね。
「それでね」
宣告を待つ。うちが気持ちを持っちゃったことの罪は、どんな罰で償えばいいんだろう。
「相手にはもっと大事な友達がいるとか、自分は幼馴染じゃないからとか、好きな人が被っちゃったとか、そんなことで嫌いになれる相手を、私は親友とは呼ばない。ひなたといると楽しいし、いろんなことを教えてもらえる。ひなたが何よりも大切にしている友達でいられることが嬉しい。明日も明後日も、もっともっと楽しくなる」
もう一度、すうっと息を吸って、
「ひなたの気持ちなんか、これっぽっちも関係ない」
きっぱりと、夏織が言い切る。
「……へ?」
変な声が出た。
「ねえ、ひなた」
「うん……?」
ちょっとの間があって、ぎゅっと抱きしめられる。
左の耳元、肩のあたり。
「友達じゃなくなるかもなんて言わないでよ……」
涙で震える声が聞こえた。
抑えきれずに嗚咽する夏織の髪を撫でる。
「ごめんね、ごめん。ありがとう、ごめんね」
言いながらうちも泣けてきちゃって、二人の涙の大合唱が始まる。
「いや、一応図書館だから静かにしよう……」
空気を読めない男子の声が聞こえるけど、止まらない。
「どうすっかな……」
何を? と聞く余裕もなく、うちは泣き続けていた。
しばらくかけてちょっと落ち着く。
あ、そうだ。大切なことを忘れてた。
寄せていた身体をそっと剥がして、赤くなった夏織の目をしっかり見つめた。
「ねえ、夏織」
「ん?」
何にも用意できてないんだけど、直接言いたかったんだ。
「誕生日おめでとう!」
えへへ、ありがとう、と泣きはらした目で笑う夏織は、17歳になっただけのはずなのに、うちなんかよりもずっと大人に見えた。




