西山青葉/6:一行目
彼女を照らすためだけに、その日の光はそこにあるみたいだった。
7月の第3週目。
一夏町の町立図書館には高校受験生や大学受験生、それに僕たちみたいに夏期講習を機に受験を意識し始めた高校二年生、あとはおじいちゃんおばあちゃんを中心にそれなりに人が入っていた。
いくつか並んだ8人がけの大きなテーブルの一番窓際の席に、大学三年生の日和さんがどうして座っていて何をしているのかはわからない。
何かの分厚い本を開いて、右手にペンを持ってはいるけど手は全然動いておらず、大きな窓から外に見える中庭を、空いている方の手で頬杖をついて眺めていた。
白いワンピースと儚げな表情があいまって、まるで一枚の絵画を見ているみたいだ。
無意識に、メガネをかけ直す。
ビデオカメラを自宅に置いてきてしまったことが悔やまれる。
せっかく去年の夏、父親の幼馴染のおじさんが営んでいる酒屋で一生懸命バイトして貯めた金で買った高画質のビデオカメラ。
いつどこにシャッターチャンスがあるか分からないことくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに、これじゃあ、まさしく宝の持ち腐れだ。
「おーい、にしやん」
目の前に手がひらひらとうつり、ハッと我に返る。
隣で問題集を開いた圭吾に呼ばれていた。
茶髪で短髪。
整った吊り目で一見チャラく見える圭吾は、何故かどうしても東京の名門大学に行きたいとかで、真面目にこうして勉強しに図書館に来ている。
「ぼーっとしてないで早くやろうぜ。今日このページまでやるまで帰らないって言ったのにしやんだろ」
「ああ、ごめん」
「あと、後に終わった方が先に終わった方にアイス一本おごりって言ったのもにしやんだかんな」
「分かってるよ」
「本当に分かってんのかねえ、先にやっちゃうよ?」
「んー」
上の空で返事をする僕の視線の先を圭吾が追う。
「ああ」
圭吾が納得したようにニヤつく。
「あのお姉さんを眺めてたのか。夏だねえ」
小声で茶化してくる。……夏、関係あるか?
「受験生かな? どこ高校だろ。私立かな? 大人っぽい人だね」
圭吾が一人で色めき立っている。
「にしやん、ああいう人がタイプなん? 清純系黒髪ストレート?」
横から入ってくる茶々を無視していると、僕の視線の先で日和さんがハッと我に返る。
ぼーっとしていた意識が戻って来たみたいだ。
彼女はいけないいけない、といった感じで首を振り、正面を見る。
すると、視線の先にいた僕たちに気づいたらしい。
わあ、と嬉しそうな顔をしてから席を立ってこちらに近づいてくる。
「やべっ」
圭吾は勝手に話題にしていたことをとがめられると思ったのか、急いで問題集に目を伏せて勉強しているフリを始めた。
「青葉くん! もう受験勉強?」
僕たちの席まで来た日和さんが僕に話しかけた。
「え?」
圭吾が呆けた声を出す。
「なになに、お知り合いなわけ?」
僕の右肩をつついてくる。
僕は圭吾を引き続き無視して、日和さんに答えた。
「あ、母さんに夏期講習に通えって言われて、それで。日和さんは?」
あ、と上ずってしまった声や『母さん』とか言ってしまった恥ずかしさを誤魔化したくて、『日和さんは?』というところは低い声を意識して答えてみる。
「私はね……、簿記ってわかる? 会計士とかになるためにいるやつなんだけど。今年から、ゼミに入る条件として、簿記の資格取らないといけなくて、それの勉強しに。試験は秋なんだけどね。落ちたらゼミを追い出されちゃうみたい」
「そうなんだ、夏休みなのに大変なんですね」
今度はもう少しちゃんと答えられた気がする。ただ、分かった風な口を聞いてみたが、実は『ゼミ』が何か分かっていない。
「いやいや、高二から受験勉強始めてる青葉くんの方が偉いよ。そちらの方は、お友達?」
「あ、いえ、はい、西山くんとは学校が同じクラスの奈良圭吾と言います! 以後よろしくお願いします!」
いきなり話しかけられた圭吾がカチカチになって答える。
今にも立ち上がって敬礼でもしそうな勢いだ。っていうか、フルネームまで言わなくても。
「あ、瀬川高校? だったら、水沢ひなたって知ってる?」
日和さんが笑って問いかける。ひなたの名前が出た途端、圭吾がビクっとした。
「はい、水沢とは、同じ部活です! 知り合いなんですか?」
「それ、私の妹! 陸上部なんだね、仲良くしてあげてね」
「え、水沢のお姉さんなんですか? 道理で……」
たしかに、ひなたと日和さんはそんなに似ている感じはない。
妹のひなたは活発な印象があるのに対し、姉の日和さんは大人しいイメージだ。
いわゆる『姉妹』を絵に描いたような二人だと、いつも思う。
ていうか、
「道理で、ってなんだよ」
圭吾に突っ込んでみる。
圭吾はしどろもどろになって、
「あ、いや、えっと、うーん。あ、そうだ。道理で、そう、道理でにしやんと知り合いなわけだ、と思って。水沢と幼馴染だったらお姉さんとも幼馴染だもんな」
何を慌てているんだろう?
僕が首をかしげていると、
「そう! 幼馴染。そっか、幼馴染か。幼馴染って、なんかいいね」
日和さんが目を細めて人懐っこく笑った。
実際は、ひなたの家に行くと麦茶を注いでくれる優しいお姉さん、という感じで、そんなに僕自身と幼馴染という感じではないんだけど。
ただ、幼馴染って言葉を日和さんが気に入ったみたいなのと、僕もなんだか優越感を感じられるので、特に否定することもなくそのまま受け取っておいた。
「それじゃ、私、集中力切れちゃったからそろそろ帰ろうかな」
大きく伸びをしながら日和さんが言う。ちょうど座っている僕の目線のあたりで強調される二つの膨らみを見ないよう意識して目をそらした。
「それじゃあね」
立ち去ろうとする日和さんを見て、
「あの、」
気づくと、またうわずった声が出ていた。
「ん?」
日和さんが小首をかしげる。
「僕も、ちょうど今帰るところなんですけど」
僕はそんな嘘をついて、横の圭吾の視線を誤魔化すみたいに立ち上がっていた。
ギィッ……! 椅子をひく音が図書館の端っこから広い室内に響く。
なんですけど、ってなんだよ。
日和さんはちょっとだけ目を丸くしたあと、にっこり微笑んで
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
と言ってくれた。
圭吾が多分にやけた顔でこちらを見ているのを無視して僕は片付けを始める。
「アイス、今度絶対おごれよ」
多分、色々我慢して一言だけ、小さな声で隣から茶化された。
圭吾は引き続き図書館で勉強するというので、そこで別れた。あいつはやっぱり真面目だ。
いや、まあ、僕がフライングで先に帰るだけだから、そりゃそうなんだけど。
「良かったの? 奈良くんとバイバイで」
「全然大丈夫です」
どちらにしろ、僕と圭吾は図書館を出たところから帰る方向が違う。
圭吾は図書館から、駅と反対の方面にある市民プールのあたりに住んでいる。
塩素の匂いのする市民プールには、子供には十分すぎるほど大きなウォータースライダーがあり、出入口の前にはおじいちゃんがアイスキャンデーを売る自転車屋台がプールの期間だけ出てくるのだ。
僕の家は図書館から駅の方へ進み、さらに駅を越えていった方面にある。ひなたと日和さんの住む水沢家は僕の家のはす向かいにあるので、ひなたとは小学校も一緒だった。
そのためにわざわざ立ち上がってまで帰ると言ったから当たり前なんだけど、家の目の前まで、日和さんと二人きりで歩くことになる。
「青葉くん、随分大人になったね」
左側から優しい声がする。
「え、そうですか」
何がだろう。良い意味だろうか。
「車道側を歩くなんて気遣い出来るようになっちゃって」
「あ、いや、そうですね」
正直に言って、完全に、たまたまだ。
二人で歩くなら右側か左側かしかないんだから、確率は二分の一。日和さんに会えるラッキーだけでなく、ここでさらに50%の戦いに勝利していた。
今日はついているらしい。
僕は右手でそっと小さくガッツポーズを作った。
そういえばこの間帰り道が一緒になった時に、ひなたが言ってたな。
『うちがこんなこというのもアレだけど、車道側歩いてくれる男子はキュンポイントが高いよね』とかって。
女子かよあいつ。いや、女子だけど。
「もしかして、たまたまだった?」
見透かされたのか、いたずらっぽく日和さんが笑う。
図星を突かれてもごもご言っていると、
「そういうところはまだ高校生って感じで可愛いね。大人になってなくて、良い感じ」
と笑われてしまう。
からかわれたことが悔しかったわけじゃないけど、疑問が口をついて出て来た。
「『大人になる』ってどういうことなんですかね」
「ん?」
「今も日和さんが言っていたみたいに、褒めるときにも、けなすときにも『大人になる』って言うじゃないですか。大人になるっていいことなのか、悪いことなのか、よく分からないです」
あー、と日和さんはちょっと困ったような顔をして空を見上げた。
その表情を見て僕は、ハッとする。
またやってしまった。
僕は、とにかく、『言葉』に疑問を感じることが多い。そして、それを他人も同じくらい興味があると思って話してしまうのだ。
自分としてはただ単に気になったことを一つの話題としてあげているだけなのだが、その指摘は、面倒臭い揚げ足を取っているみたいに聞こえてしまう。
『西山くん、めんどくさくない?』
去年、文化祭実行委員会を一緒にやっていた吉野さんにも、そう言われたことがある。
たしか、
「文化祭なのに運動部が参加するのは、『文化』という割に『体育』の要素が含まれてないか?」
というようなことを言った時だ。
ただ、単語というか言葉遣いに引っかかってしまっただけで、「学園祭と言い換えよう」という方がむしろ趣旨に近かったのだが、吉野さんにはかなり嫌な感じに聞こえたみたいだった。
まあ、そりゃそうか。
でも、吉野さんは家が近いこともあり、そんなことがあった後でも、廊下や家の近くで会うと、いつもにこやかに話しかけてくれる。すごくいい人だな、と思う。
あと廊下で会う回数がなんだか多い気もする。
そして今も、きっと日和さんに面倒臭いと思われてしまっているだろう。
そんなつもりで日和さんが大人っぽいとか言ったわけじゃないってことくらい、分かっているのに。
「確かにね。大人になるってなんだろうね」
日和さんは優しいから、話をそっと軟着陸させてくれたみたいだ。
これで、話はおしまいだろう、と思った。
思った、のだが。
「どんな大人になりたいか、なんじゃないかな。大人には多分、勝手になっていっちゃうから。その前にどんな大人になりたいかを目指すっていうか。これがすでに大人っぽい考え方かな?」
どうやら、まだ、話が終わってない。
「効率を追い求めはじめたら、大人? スマートになってきたら大人? んー、成人したら大人ってセンはもうないよね?」
日和さんはどんどん広げてくれている。
「漢字で書く『大人』と、カタカナで書く『オトナ』もちょっと違うよね」
散々うねうねと一人で議論した、最後に一言。
「青葉くん、面白いこと考えるね!」
日和さんは、僕に向かってそう言った。
面白い、と、そう言ってもらえた。
僕はそれがすごく嬉しくて、でも、なんか嬉しそうにしたら子供っぽいかな、と思って、必死に表情から隠した。
「いやじゃないですか?」
平静を装って言う僕を見て、また日和さんが微笑む。
「なにが? 面白いよ、そういうとこ」
僕は今度こそちゃんと嬉しくなってしまう。舞い上がってしまう。
多分、顔にも出てるけど、隣をちゃんと前を向いて歩いている日和さんにはバレていないようで、日和さんはまだ大人論を繰り広げていた。
「大人っていうのは、私にとっても大切なテーマだなあ。私の場合だけど、なんか、高校生から今まででも、もう随分変わったなあって思うよ。片思いとかってしなくなったし」
「高校生とは違いますよそりゃ。だって大学生じゃないですか。20歳でしょ日和さん。ハタチ」
「うわ、いきなりすごいおばさん扱いじゃん。んー、こっちからしたらそんなに変わらないんだけどね。卒業してから2年ちょっとしか経ってないもん」
「2年ちょっと前は僕、中学生ですよ」
「そーだよねえ、現役男子高校生からしたら、そういう感じか」
ちょっと区切った後に、僕の目を見て、
「ねえねえ、私、大人に見える?」
いきなりそんなことを言ってくる日和さん。
笑っている目の中に強い意志が見え隠れしてる気がして、
「大人っぽいです」
受け止めきれなくて、目をそらしてしまった。
「大人っぽいかー、そう見えるかー」
と、なんだか嬉しそうにひとりで呟いている。
実はそれよりも気になることをさっき、日和さんが言っていた。
「大人になると片思い、しなくなるんですか?」
一度はスルーしたはずの言葉を、今さら拾い直して、投げてみた。
それが気になってしまうってことは、もう、そういうことなんだろうか。
それって、どうなんだ、自分。早すぎないか、自分。
首をかしげる僕を尻目に、日和さんは、ちょっと考えてから、寂しそうに笑って、
「片思いなんかしないよ、だって、私だって、大人だもん」
と、何かを決意するみたいに言い切ったのだった。
「じゃあ、」
両思いはしているんですか、と聞きかけてためらったその時、
「わー、もう着いた! 青葉くんと話してたからあっという間だった。ひなたいるかな。寄ってく?」
甘美な旅の終わりを、見慣れた一軒家、水沢家の玄関が告げていた。
何か、きっかけが必要だと思った。
何万文字も頭に書いて、ようやく、ひとつ思いたつ。
「日和さん」
多分、ひなたがいるか確認してくれようと、玄関へと歩き出した日和さんを呼び止める。
「どんな大人になりたいか」
「ん?」
日和さんが振り返る。
「どんな大人になりたいか、ってさっき言ってたじゃないですか」
「うん? そうだね」
心の中でひっそりと持っていた無謀な夢を、勇気を出して喉の奥から引きずり出す。
「僕、映画監督になりたいんです」
「そうなの?」
なんでだろう。日和さんはハッとした顔になった。
「とりあえず大学は親も行けっていうから行くんですけど、本当は映画監督になりたくて」
うなずきながら、日和さんが聞いている。口の中がカラカラになる。
「それでですね」
「うん?」
言ってしまえ、西山青葉。
「あの、今制作を考えている短編映画に、出てくれませんか。日和さんみたいに白いワンピースの似合う人の物語なんです」
言ってしまった。
日和さんは少し息をつく。
「似ているなあ……」
日和さんはそう小さく呟いたあと、
「いいよ、どんなお話?」
と、寂しそうに笑って言うのだった。
その表情の理由も、誰が誰に似ているのかも分からないけど、そんなことはどうでもよかった。
僕はその瞬間から、今はありもしない、白いワンピースの似合う女性の物語の脚本を、大急ぎで書き上げないといけなくなってしまったのだから。




